2026/09/09 17:55:12
(ujgZ3wkT)
取り立てのヤクザどもが来なくなって、今日でちょうど三日目。
玄関のドアの外でカツンと靴音が聞こえるだけで、未まだに心臓が跳ね上がって息が止まりそうになる。床にはまだ、あいつらが泥靴で上がり込んできた跡が薄っすら残っていた。
でも、電話は鳴らない。
夜中に「おい開けろ」ってインターホンが鳴る幻聴で飛び起きることはあっても、実際には……静かなもんだ。
その「鳴らない」っていうだけのことが、驚くほど身体を軽くさせていた。
――ああ、マジで最悪だ。
そんなことでホッとしてる自分が、世界で一番汚く思えて吐き気がする。
麗奈を差し出したあの夜のことは、嫌になるくらいはっきり覚えていた。
「臓器売るか? それともマグロ船にでも乗るかぁ?」
あの男がヘラヘラ笑いながらそう言ったとき、俺の頭の中に浮かんだのは……妻を助ける格好いい自分じゃなくて、自分が無残に破滅する未来だけだった。
手が震えて、声が出ない。
隣で震える麗奈の顔より先に、「俺はどうなるんだ?」っていう保身ばかりだった。
男として終わってる? ああ、終わってるさ。あの瞬間に俺の人生は完全に詰んでたんだ。
なのに、口は一向に動かなかった。
「やめろ」も「俺が代わりに行く」も、喉の奥で腐り落ちて声にならない。
そんな俺を、麗奈がじっと見つめてきた。
『……いいよね?』
あれは確認なんかじゃない。もう覚悟を決めた彼女が、形だけ俺に投げてきた視線だ。
俺が頷いたのか、ただ恐怖で固まっていただけなのかは、今でもよく分かっていない。
ただ、麗奈が小さく「……お願いします」って呟いた瞬間、ヤクザ達の凄まじい圧力が、すーっと引いていったのだけは覚えてる。
しかもさ、タダで麗奈を渡したわけじゃないんだ。
あいつら、去り際にアタッシュケースを置いていきやがった。
「当面の生活資金だ。取っとけ」
中に詰まってたのは、帯付きの札束が10個。
……一千万円。
笑っちゃうよな。妻を差し出したら、借金が消えただけじゃなくて、手元に1,000万残ったんだ。
「売ったんじゃない、あいつが自分で……」なんて言い訳、この金を見た瞬間に全部吹き飛んだ。俺は命の値段がついた札束を受け取って、黙ってドアを閉めたんだから。完全に「売買成立」だ。
今、その1,000万はクローゼットの奥に隠してある。
触るのも汚らわしいはずなのに、時々、夜中に鍵を開けて中身を確かめちゃう自分がいる。
札束の厚みを感じるたびに、心臓の奥が嫌な感じにジワッと温かくなるんだ。
「これだけあれば、当分は生きていける、イヤこれを元手に増やすことも可能だ…」
普通に仕事に行って、コンビニで適当な弁当を買って、テレビをつける。
「平穏な日常」ってやつが戻ってきた。
でも戻ってきたのはただの生活で、妻の麗奈じゃない。
布団の片側は、笑えるくらい冷たい。
枕元に転がしたスマホで、一向に既読がつかないLINEの画面を何度も開いては閉じる。
なんで既読がつかないのか? 考えるな。考えるな……
考えた瞬間、俺が妻を「売った」ってことになっちゃうから
「あいつが自分で頷いたんだ」って思いたい。そうやって自分を騙したい。
でも事実はひとつだけ。俺はあの時、止めなかった。ただそれだけだ。
罪悪感と同じくらい、安堵してる自分がいた。
否定したって無駄だ。取り立てが来ない朝に飲むコーヒーはうまい。普通に電車に乗れる。会社で上司に愛想笑いだって返せる。
この数ヶ月でズタズタに折れてた心が、少しずつ元の形に戻ろうとしていた。
けど、元に戻れば戻るほど、ものすごいスピードで罪悪感が追いかけてくる。
「そのうち会わせてやるよ」
あの男たちは去り際にそう言った。
仮に会えたとして、俺はあいつになんて言えばいい?
「ごめん」? バカ言うな、そんな一言で許されるわけがないだろ。
足りないって分かってるから、本当は会うのが死ぬほど怖い。
会ったら最後、冷もり切った彼女の目で俺の人間性を測られる。
測られたくない。だから俺はまた、保身のために言うんだろうな。
「なんとかするから」って。一度だって、何もなんとか出来たことなんてないくせに。
【アナザーストーリー
また、すぐに使い切ってまた、借金をしてしまう…という前振りです。】