あの日以来—— 二人の空気は、少し変わっていた。 以前と同じように生活しているはずなのに、 ふとした瞬間に、ホテルでの光景が頭をよぎる。 妻がシャワー上がりに髪を拭く姿。 ソファで脚を組み替える仕草。 そういう何気ない瞬間にさえ、私はあの日の妻を重ねてしまう。 そして妻自身も、完全に忘れられてはいなかった。 夜、ベッドに入ったあと。 私がそっと抱き寄せると、妻は小さく息を吐く。 「……また思い出してる?」 少し照れたように聞かれる。 私は苦笑する。 「たぶん、お互いだよね」 妻は否定しない。 静かな部屋の中で、二人は自然とあの日の話をするようになっていた。 「あの時、ほんと緊張してた」 「顔真っ赤だったよ」 「だって見られてたし……」 妻は恥ずかしそうに笑いながら、私の胸へ顔を埋める。 けれど話しているうちに、少しずつ呼吸が変わっていく。 「あの時さ」 私が静かに聞く。 「途中から、少し気持ちよさそうだった」 妻はすぐには答えない。 しばらく黙ってから、小さく本音を漏らす。 「……悔しいけど、すごく気持ちよかった」 その言葉に、私の胸が熱くなる。 妻も頬を赤くしながら続ける。 「優しく触られるの、安心しちゃったんだと思う」 「そっか」 「でも、一番安心したのは最後にあなたが抱きしめてくれた時だよ」 その言葉に、私は妻を強く抱き寄せる。 あの日の話をしながら触れ合う時間は、次第に二人の中で特別なものになっていった。 妻も少しずつ、自分の感情を隠さなくなっていた。 「また会ったら、どうなるんだろうって考えちゃう時ある」 「……会いたい?」 私が聞くと、妻は困ったように笑う。 「まだ分かんない。でも、気になってるのは本当」 その揺れる気持ちごと、二人は共有するようになっていた。 不安も、嫉妬も、興奮も。 全部を言葉にしながら、少しずつ関係が変わっていく。 そして夫婦の時間の中で、 「あの日どう感じたか」を語り合いながら求め合うことが、自然な習慣になっていった。 あの日から、約2週間—— ある夜。 弥優がトイレから出てきて、小さく言った。 「……生理、来ちゃった」 私は一瞬だけ黙る。 妊娠への期待がなかったわけじゃない。 だから少し残念な気持ちもある。 けれど妻は、どこか複雑そうな表情をしていた。 「そっか」 「うん……」 妻はソファへ座り、膝を抱える。 少しの沈黙。 そのあと、妻がぽつりと言う。 「なんか、変な感じ」 「何が?」 「残念な気持ちもあるし……でも、少しほっとした気持ちもある」 私は静かに聞いていた。 妻は視線を落としたまま続ける。 「この2週間、ずっとあの日のこと考えてたから」 その言葉に、私の胸がざわつく。 自分も同じだった。 忘れようとしても、ふとした瞬間に思い出してしまう。 そして気づけば、二人とも次の話を避けなくなっていた。 その夜。 ベッドの中で、私は静かに聞いた。 「……また次も、お願いしてみる?」 妻はすぐには答えなかった。 暗闇の中、小さく息を吐く音だけが聞こえる。 「……やっぱり、子供は欲しい。会うのが嫌かって聞かれたら……別に嫌じゃない」 飾らない、本音の声だった。 「でも、次は少し違う気もする」 「違う?」 妻は少し迷うように間を置いてから、ゆっくり続ける。 「前は、“二人で確認しながら”って感じだったでしょ……」 そこまで言って、言葉を止める。 私は黙って続きを待った。 「次はもう少し自然に……緊張とか、申し訳なさとか、あまり感じない方がいいかも」 その意味は、私にも分かった。 胸の奥がざわつく。 けれど私は、その感情を押し込むように静かに頷いた。 「……二人で会う?」 妻はゆっくり頷く。 「まだ少し怖い。でも、その方が気持ちは楽かも。前は本当に頭ぐちゃぐちゃで、変になりそうだったから」 「……そっか。次も、マッサージから?」 「……当たり前でしょ」 呆れたように返しながらも、妻の声はどこか柔らかかった。 私は少し間を空けてから、低い声で言った。 「……弥優が嫌じゃないなら、もう少し先に進んでもいいよ。……それはそれで、俺は興奮するかも」 暗闇の中、妻が息を止めた気配がした。 「……本気で言ってるの?なんでこんな変な人を好きになっちゃったかなー」 妻は呆れて笑っていた。 ——翌日。 妻は久しぶりにOさんへメッセージを送る。 最初は短い近況報告。 生理が来たこと。 夫婦でまた話していたこと。 そして最後に—— 「もしよかったら、またお会いできますか?」 送信したあと、妻はスマホを胸元で握る。 以前とは違う緊張。 それは“夫からお願いされた予定”ではなく、 自分自身も次を望んで送ったメッセージだから。 しばらくして返信が届く。 Oさんは相変わらず落ち着いた文章だった。 無理をしなくていいこと。 また会えるなら嬉しいこと。 そして、また二人でゆっくり相談しながら進めましょうという提案。 妻は画面を見ながら、小さく息を吐く。 「……また会ってくれそう」 私は静かに頷く。 胸の奥がざわつく。 約1週間後、次の排卵予定日に会うことになった。 前回とは違う。 今度は、妻が一人で会いに行く。 その現実が、静かに二人の関係を変え始めていた。