2020/11/12 22:19:20
(O1Kw7Rl.)
よほどの深酒だったとみえて、帰宅後もまだ頭痛は治まりませんでした。
その日の夜、珍しく妻から誘ってきたので、久しぶりに妻と交わりました。
情事の後、「昨日のこと覚えてる?」と聞かれたので、田中君と飲みに行った経緯を妻に話しました。
普段は私の職場の話には殆ど興味を示さない妻ですが、その日は様子が違いました。私が話す田中君の失恋絵巻を食い入るように聞いています。
そして一通り聞き終えた後、今朝言った言葉を繰り返しました。
「ねぇ、あなた、田中君、またご招待してあげたら。今度はもっとちゃんとしたものを用意するから。」
「うーん、立場上、一人の学生とあまり親密になるのはよろしくないんだけど」
私は妻の様子に、若干の嫉妬を覚えて煮え切らない返事をしました。
「だって、あなたが私の料理あんなにおいしそうに食べてくれたことなかったじゃない。私、昨日の晩、すごくうれしかったの。」
私としても、彼の失恋からの立ち直りに少しでも協力してやりたいという気持ちがあったので、妻の申し出を拒絶することはしませんでした。
その日、学食で私の姿を見かけた田中君は、一目散に駆け寄ってきて深々と頭を下げると
「昨日は、ご馳走様でした」
失恋の痛手で青ざめていた昨日とは別人のような快活さでした。
初対面以降、これほど陽気な彼を見るのは初めてだったかもしれません。
「いや、こちらこそ迷惑を掛けたみたいで、申し訳なかった。それで、そのお詫びというわけじゃないんだが、妻が、君にまたご馳走したいって言ってるんだ。」
「ありがとうございます。ご迷惑でなければぜひ」
社交辞令と思ったのですが、そうではなかったようです。すぐさま日時まで指定して「この日ならどうでしょうか」と返してきたのには驚きました。
少し、ずうずうしすぎるんじゃないのか。そう思った私は「その日は僕の都合が悪いんだ。日にちは追って連絡するよ」と彼の申し出を拒んだのです。
「そうですか」
田中君は、明らかに落胆した様子で肩を落としました。
家に帰ると、妻が「ねぇ、田中君に昨日の話ちゃんと伝えてくれた?」
「あぁ」
「それで、いつみえるの?」
「そこまでは決めてないよ、彼にだって都合がある」
私はとっさに嘘をついていました。
「もう、いいわ、自分でメールする」
「え?」
妻の反応に驚いて顔を上げました。聞けば、昨日のうちに彼とアドレスを交換したというのです。
「え?ちょっと待って。昨日って、昨日の夜のことだよな」
「そうよ。田中君をお見送りするとき。あなたのことも起こそうとしたけど、何度呼んでも起きなかったから。玄関で帰り際に私からお願いしたの。改めて御礼させていただきたいからって」
妻の言っていることは、確かに筋が通っているといえば通っているように思えましたが、それにしても少々度が過ぎるのではないかと感じました。
私の知る限り、妻は決して尻の軽い女ではありません。私と付き合い始めてから一緒になるまでの間も、そして一緒になってからも、他の男性の影が見え隠れしたことは一度もありませんでしたし、初めて妻と結ばれた時の彼女の初々しい姿は今でも覚えています。
自分が始めての男だとはその時も思っていませんでしたし、それを妻に聞いたこともありませんでしたが、少なくとも世間並みの貞操観念をもった女性だということは、この二十年間、一度も疑ったことはありませんでした。
妻は狼狽する私に気づく様子もなく、目の前で田中君へのメールを打ち込んでいました。
その姿を見て少々考えすぎかな、とも思い直しました。
子供のいない私たち夫婦にとって、田中君は子供がいたらこれ位かな、という年齢です。
妻にしてみれば、結婚以来、初めてわが子のように接することのできる知人ができたことで、母性がくすぐられているのかもしれません。
私自身のことを思い返してみても、田中君に接するときの自分は、彼を仮想の息子として見守るような心境でいたような気がします。
そう考えれば、久しぶりに見る妻のはしゃいだような姿も悪くない、と思うことにしました。
そのときは予想もしていませんでした。
その考えが的外れなものであったことを。