第七章 — 触れられない“普通”
地元に戻ってからの生活は、
昼と夜でまったく違う顔を持っていた。
昼間は実家に顔を出し、
母と他愛のない会話をする。
その時間だけは、
さちも“普通の娘”に戻れた気がした。
しかし夜になると、
また別の世界へ戻る。
デリヘルの仕事は、
生活のために必要だった。
そんな日々の中で、
さちは介護のアルバイトを始めた。
夜の仕事だけでは心が持たないと感じたからだ。
介護の現場は忙しく、
時に厳しかったが、
そこには“人の温度”があった。
利用者の手を支えるとき、
「ありがとう」と言われると、
胸の奥が少しだけ温かくなった。
その職場で、
一人の男性と出会った。
彼は穏やかで、
さちの話をよく聞いてくれた。
夜の仕事のことは話していなかったが、
それでも彼の存在は、
さちの心に静かな光を灯した。
二人は自然と付き合うようになった。
デートはささやかなものだった。
仕事終わりにコンビニのコーヒーを飲んだり、
公園を散歩したり。
そんな小さな時間が、
さちには宝物のように感じられた。
「私にも、普通の恋愛ができるのかな」
そう思える瞬間が、
確かにあった。
しかし、
その希望は長く続かなかった。
ある日、
彼の友人から聞いたという話が、
彼の口から静かに告げられた。
「……さちが、夜の仕事をしてるって」
その言葉は、
刃物のように鋭く胸に刺さった。
さちは何も言えなかった。
否定しても、
説明しても、
どちらにしても彼を傷つけるだけだとわかっていた。
彼はしばらく黙っていた。
その沈黙が、
答えだった。
「ごめん。俺には……無理だ」
その一言で、
さちの“普通”は静かに崩れた。
別れたあと、
さちはしばらく動けなかった。
部屋の中で膝を抱え、
ただ時間だけが過ぎていった。
夜の仕事に戻ると、
客の声が遠く聞こえた。
自分が何をしているのか、
どこにいるのか、
わからなくなる瞬間があった。
「普通の恋愛をしたい」
その願いは、
さちにとって一番遠いものだった。
それでも、
さちは働き続けた。
生きるために。
過去を抱えたまま、
未来を探すために。
夜風は冷たく、
街灯の光は淡かった。
その下を歩くさちの影は、
どこまでも細く、
どこまでも長かった。
2026/10/18 05:06:29