第五章 — 逃亡の街、名古屋 近県での生活が一ヶ月を過ぎた頃、 さちは、心のどこかが静かに壊れていくのを感じていた。 昼は店で働き、 夜は寮で呼び出される。 眠る時間も、休む時間も、 自分の意思で選べるものは何一つなかった。 そんな日々の中で、 店のボーイの一人と話す機会が増えた。 彼は他の従業員とは違い、 どこか影のある優しさを持っていた。 「ここにいても、いいことないよ」 その言葉は、 さちの胸に深く沈んだ。 彼もまた、 この店の空気に押しつぶされそうになっていたのだろう。 二人は自然と距離を縮め、 やがて「一緒に出よう」という話になった。 逃げるように、 遠方の都市部へ向かった。 夜行バスの窓から見える街の灯りは、 どれも同じように滲んで見えた。 新しい土地に行けば、 何かが変わるかもしれない。 そんな淡い期待だけが、 さちを支えていた。 街に着いたとき、 二人には仕事も住む場所もなかった。 結局、 また同じように夜の店で働くことになった。 「ここなら、まだマシかもしれない」 そう思いたかった。 しかし、現実は甘くなかった。 働き始めて二週間ほど経った頃、 彼は突然姿を消した。 連絡は取れず、 寮にも戻ってこない。 店の誰も、 彼がどこへ行ったのか知らなかった。 さちは、 また一人になった。 この街は広く、 人は多いのに、 孤独だけが濃くなっていく。 夜の仕事を終えて寮に戻ると、 薄暗い部屋の静けさが、 さちの胸に重くのしかかった。 逃げてきたはずなのに、 逃げ場はどこにもなかった。 元の場所での支配の記憶は、 遠くに来ても消えなかった。 誰かの足音が廊下を通るたび、 胸がざわついた。 「また、あの生活に戻るんじゃないか」 そんな不安が、 眠りを浅くした。 街での生活は、 新しい始まりではなく、 ただ別の形の“延長”だった。 それでも、 さちは働き続けた。 生きるために。 子どもにお金を送るために。 二十二歳の誕生日を迎えたとき、 さちは気づいた。 自分の人生は、 誰かに連れて行かれるままに流されてきた。 この街の灯りは眩しいのに、 さちの未来は、 まだどこにも見えなかった。