第一章 — 奪われた日常
さちは、部活帰りの汗を流すために浴室の扉を閉めた。
春先の冷たい空気がまだ残る夕方で、家の中は静かだった。
母は台所で夕飯の準備をしているはずで、姉は妊娠中の身体を気遣って二階の部屋で休んでいる。
いつもと変わらない、平凡で、守られているはずの家の音。
湯気が立ちのぼり、タイルの匂いが鼻に残る。
シャワーをひねると、細い水の線が肩を打ち、今日の疲れが少しずつ溶けていくようだった。
そのときだった。
浴室の外で、微かな「カチリ」という音がした。
家の中ではよくある生活音のはずなのに、その瞬間だけは妙に耳に残った。
振り返ると、扉の向こうに立っていたのは姉の夫だった。
なぜここにいるのか、理由はわからない。
ただ、彼の目に映る自分が「家族」ではないことだけは、一瞬で理解できた。
浴室の蒸気が、急に冷たく感じた。
声を出そうとしたが、喉が固まって動かない。
湯気の向こうで、彼の影だけがゆっくりと近づいてくる。
その影が浴室の光を遮った瞬間、世界が音を失った。
何が起きたのか、細部は思い出せない。
ただ、湯気の中で自分の声が吸い込まれていく感覚だけが残った。
浴室の床に落ちる水滴の音が、やけに大きく響いていた。
すべてが終わったあと、
さちはタオルを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
湯気はもう消えかけていて、浴室の空気は冷え切っていた。
その夜、母は短く告げた。
「……さち、しばらく家を出なさい」
理由を説明されることはなかった。
姉のお腹には新しい命が宿っている。
家族の均衡を守るために、
さちは“外”へ追い出される形になった。
十五歳の少女が、
世界から切り離されるには十分すぎる出来事だった。
アパートの鍵を渡されたとき、
母は目を合わせなかった。
さちは荷物をまとめながら、
自分が何を失ったのか、まだ理解できていなかった。
ただ一つだけ確かだったのは、
家はもう、帰る場所ではなくなったということだった。
2026/10/18 04:47:51