腕時計を見ると午後五時を過ぎていました。 それより一時間ほど前に、僕は義母に濡れた服を脱いで着替えるように奨めました。 防水性のヤッケでも雨はどこかから染み込んで身体を冷やしてきます。 僕自身もヤッケの下のセーターとシャツにまで雨はかなり染み込んでいて、少し寒い気分になっていたので、妙な気持ちからではその時はなく、華奢な体型の義母は尚更だろうという僕なりの気遣いからの声かけでした。 しかし、僅か二坪足らずの狭い空間の中で、しかも義理の息子の前での着替えは当然できるわけもなく、 「大丈夫よ。そんなに中までは濡れていないから」 とさりげなく拒まれていました。 それと妻の由美への連絡も僕からしました。 下山途中で急な豪雨に遭遇してしまい、泥濘に足を取られてお義母さんが転んでしまい足首を捻挫したみたいなので、途中の番小屋に避難して雨の止むのを待っているが、二人とも元気だから心配しなくていいと告げておきました。 教職員研修会で県外出張している妻の由美は、さがに心配げな声を出していましたが、僕はお義母さんの足の具合も大したことはなさそうだし、それと他のパーティの人たちもいるから大丈夫だと、どうしてか少しの嘘も付け加えて落ち着いた声でいい聞かせると、気をつけてねといって携帯を切ってきました。 小屋の中がどんどんと暗くなってきたので、僕は土間の周辺に散らかっている木屑を集めて、土間に費を起こしました。 幸いなことに土間の隅に束ねた薪木が何本か散乱していたので、狭い小屋の中は燃え上がる炎で明るくなっていました。 僕から促したのですが、義母もその炎の前に身を寄せていて、小さな暖を取りながら、僕は義母との距離が少し縮まったことに、なぜか少し胸をときめかせていたのです。 外が完全に暗くなった頃、雨は依然としてトタン屋根を激しく叩きつけていて、木々の葉を揺らすような風の音も大きくなってきているようでした。 炎だけの明かりの中で、その炎だけをじっと見据えたままの義母の細い肩が、風の音が強くなる度に小さく揺れ動いていました。 携帯で天気情報を見ると、三十分ほど前にこの地方一帯に大雨洪水警報と強風注意報が発令されているのがわかりました。 「お義母さん、このあたりに大雨警報が発令されたようです。すぐには出れそうにないので、静かに待つしかなさそうですね。寒くはありませんか?」 僕は義母に正直に天気情報を話したのですが、その心の裏で、こうして不埒な憧憬を抱いていた義母と狭いスペースの中で二人きりでいられることにかすかな喜びのようなものを感じていたのです。 このままここで義母と一夜を過ごしたら?という思いが僕の胸をとりとめもないまま過ぎっていました。 ゆらゆらと揺れ動く炎の明かりの中で、長くは続かない途切れ途切れの会話が二人の間で交わされながら、時間はさらに深い夜へと進んでいました。 妻もいる普段の三人の生活の中では見せたことのないような表情を義母は垣間見せていました。 かすかな不安と小さな心配を抱えて炎をじっと見据える義母に、僕はそこはかとなく女性を感じてしまっていました。 お互いの水筒にはお茶がまだ残っていて、義母が昼に食べ残していたおにぎりを二人で分け合って食べました。 「お義母さん、もう九時を過ぎてます。雨もまだこんな状態では外には出れません。安全を考えたらここでのビバークが何よりです。僕のリュックにシュラフが入ってます。お義母さんはそれでお休み下さい」 あるところで僕は意を決したような口調で義母に告げました。 慌てたり、何かを怖れて、この暗闇の雨の中での強行下山は危険以外の何者でもないと、僕は義母を説得し納得させました。 焚き火の火ももう燃やすものもなく消えかかっていました。 板間の上で僕はリュックからシュラフを出してそこに広げました。 「僕はもうしばらく起きてますから、どうぞ中へ入って休んで下さい。足のほうは大丈夫ですか?」 「ごめんなさいね。迷惑ばかりかけてしまって」 義母は本当に申し訳なさそうにおずおずと小さな身体を起こして板間に上がり、シュラフの中に身を入れました。 その時の僕は、このまま土間か板間の隅でもいいから座り寝でもして夜を過ごそうと、特段の邪心もなく考えていました。 一応は山男としての自覚も持っていたつもりで、ただこうして義母と同じ空気の中で時を過ごせるだけで心は満足でした。 「お休みなさい…」 とだけ小さな声でいってシュラフに身を包んだ義母はそれからしばらくぴくりとも動きませんでした。 焚き火も完全に消えてしまったので、僕は板間の隅に移動して身を屈めるようにして俯いていました。 寝ている義母が真横に見えていました。 雨よりも風の音が強くなり出していました。
...省略されました。