2012年10月下旬。僕はその日、待ち合わせの時間よりもだいぶ早く、その場所に辿り着いていました。何度も何度も近くのドラッグストアのトイレに入り、ワックスで整えてきた髪型を確認します。「ごめん、ごめん待った?」トモミは約束した時間の5分前にやってきました。少し伸びた髪型以外はあまり変わらないように見えます。あの頃のままです。「いや、全然。ていうかまだ、約束の時間の前だよ(笑)」「あっ、ホントだ~~(笑)」トモミは腕時計を見て笑います。「やす君・・・久しぶりだね」「うん、久しぶり。元気そうだね。あんまり変わんないね」「やす君もあんまり変わってないね(笑)」「そうかな?あ、行こうか?」「うん」僕は思いっきり「スカし」ていました。トモミに会えたことが嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。今にも飛び跳ねたい気分です。ただ、それを悟られるようなことはできません。僕は静かな個室の店を予約していました。沢山話たいことがありました。それに胸には絶対に聞きたいことを2つを持参しています。店に入ると「わぁ、やす君もこういうお店に来るようになったんだ?大人になったねぇ~(笑)」と少し驚いています。生ビールで乾杯して、勢いづけにその半分くらいを飲みました。「やす君、飲めるようになったんだ!?」「そりゃ、多少の付き合いもあるしね」僕は、トモミと別れた時に無理やり飲んで酒慣れしたことは伏せます。それからは、お互いの仕事のあれやこれやを話しました。笑って話すトモミを見るのはいつ以来なんだろう?そんなことを思いながらも、時間が過ぎるにつれ「あの頃」に戻ったような錯覚さえします。ただ、やっぱり聞かずにはいられません。この頃、震災後に出会った人や、しばらく会ってなかった人とは必ずと言っていいほど「あの時」どうしていたのかをお互いに聞くのが挨拶のようになっていました。(今でもそういう風習はあります)それと同じように、僕は聞きました。「震災の時は大丈夫だった?」「うん、職場にいたけど大丈夫だった。やす君は?」「大丈夫」には色んな意味が含まれて使われることが多い時期でした。その言葉の裏には「津波被害にあった人よりは」「家を流された人よりは」「家族が犠牲になった人よりは」という枕詞が着く場合がほとんでした。あの当時ほとんどの人が寒い中、被害の少なかった地域ですら電気・ガス・水道のライフラインが数週間絶たれ、食事もままならなかった時期です。全員が被災者でしたが、それでも津波にあった人よりはという思いがありました。「うん、俺も大丈夫だったよ。実家は・・・?」少し、思い詰めたような顔をしてから「流されちゃったんだよね・・・」僕は思わず「やっぱり・・・」呟くように、そう言ってしまいました。
...省略されました。