第2話 夫の隣で、元彼からの返信を待っていた
送信ボタンを押したあと、私はしばらくスマートフォンを伏せられなかった。
『でも、まだ少し、帰ってきてない気がする』
自分で打った文字なのに、画面の中に残ったそれは、私のものではないように見えた。
こんなことを送る女だっただろうか。
夫が起きてくる前の洗面所で、私はスマートフォンを握ったまま、鏡の中の自分を見ていた。
髪は整えた。口紅も塗り直した。ブラウスの襟元もいつもの位置に戻した。
それなのに、どこかが戻っていなかった。
昨夜、蓮に名前を呼ばれたときの声が、まだ耳の奥に残っている。
低くて、急かさなくて、それなのに逃げ道の真ん中に立っているような声。
私は蛇口をひねり、冷たい水で指先を濡らした。
薬指の指輪が、朝の光を小さく跳ね返した。
結婚して十二年。毎朝見ているはずのそれが、今日だけ少し重く見えた。
寝室のドアが開く音がした。
「おはよう」
夫の声だった。
私はスマートフォンの画面を伏せて、いつもの顔を作った。
「おはよう」
「昨日、遅かったんだね」
夫は寝癖のついた髪を片手で押さえながら、キッチンへ向かった。
怒っている様子はなかった。疑っている様子もなかった。
その普通さに、私は少しだけ救われ、同じくらい少しだけ傷ついた。
「久しぶりだったから、話が長くなっちゃって」
「楽しかった?」
「うん」
「よかったね」
夫は冷蔵庫を開け、牛乳を取り出した。
何も知らない横顔。
それを見ていると、胸の奥に小さな罪悪感が広がる。けれど、その罪悪感の隙間から、昨夜の記憶が指先のように入り込んでくる。
蓮の目。
私の名前を呼ぶ声。
「帰りたいかは聞いてない」と言ったときの静かな強さ。
思い出すだけで、呼吸の位置が少し変わった。
「今日、買い物行く?」
夫が言った。
「え?」
「午後。洗剤なくなりそうだったから」
「あ、うん。行こうか」
何でもない会話。
何でもない土曜日。
この家の中では、私はいつも通り妻だった。
なのに、スマートフォンが震えるのを待っている自分がいた。
朝食を作りながらも、テーブルを拭きながらも、夫のシャツを洗濯機に入れながらも、私は耳の奥で通知音を探していた。
来ない方がいい。
そう思った。
来なければ、昨夜は本当に一度きりになる。
雨のせいにして、懐かしさのせいにして、少し飲みすぎたせいにして、胸の奥にしまい込める。
でも、来てほしかった。
その矛盾が、私を一番苦しめた。
夫がリビングでテレビをつけた。
朝の情報番組の明るい声が流れる。天気予報。週末の行楽地。高速道路の渋滞。
世界はあまりにも普通で、私だけが昨夜の雨の中に取り残されているみたいだった。
スマートフォンが震えた。
指先が、勝手に反応した。
夫に気づかれないように画面を見る。
蓮だった。
『帰ってきてないなら、まだ無理に戻らなくていい』
たった一行。
それだけで、胸の奥にしまい込もうとしていたものが、また静かにほどけた。
私は返信画面を開いた。
何度も文字を打っては消した。
『昨日のことは忘れて』
違う。
忘れてほしいわけではない。
『もう会わない方がいい』
それも違う。
会わない方がいいとは思う。でも、会いたくないわけではない。
『あんなこと、言うべきじゃなかった』
これも違う。
本当は、言ってしまって少し楽になっていた。
私は画面を閉じた。
返信できないまま、スマートフォンをバッグの中にしまう。
「どうしたの?」
夫がテレビから目を離さずに聞いた。
「何が?」
「ぼんやりしてる」
「ちょっと眠いだけ」
「昨日、飲みすぎた?」
「そんなに飲んでないよ」
夫はそれ以上聞かなかった。
聞かれないことに安堵して、同時に、どうしようもなく寂しくなった。
蓮なら、そこで終わらせなかったかもしれない。
「眠い顔じゃない」と言ったかもしれない。
「何を隠してる?」と聞いたかもしれない。
そんなことを考えてしまう自分が、もう十分に危うかった。
午後、夫と買い物に出た。
スーパーの通路を並んで歩き、洗剤と卵とヨーグルトをカゴに入れる。夫は特売のコーヒーを見つけて、少し得意そうに私を呼んだ。
「これ、安いよ」
「ほんとだ」
私は笑った。
きっと自然に笑えていたと思う。
夫の隣は安心だった。
長く暮らしてきた人の匂いがした。靴の選び方も、レジで小銭を探す癖も、車のキーを右ポケットに入れるところも、私は全部知っている。
その安心を、嫌いになったわけではない。
ただ、安心だけでは触れられない場所が、私の中にまだ残っていた。
蓮はそこを見てしまった。
そして私は、見られたことを嫌だと思えなかった。
帰宅して、買ったものを片づける。
夫はソファに座り、スマートフォンでニュースを見ていた。
私はキッチンの隅でバッグから自分のスマートフォンを取り出した。
蓮から、もう一通来ていた。
『返事を急かすつもりはない』
その下に、少し間を置くように次の文が続いていた。
『でも、昨夜の顔をなかったことにはしない』
息が止まった。
昨夜の顔。
夫には見せない顔。
見せるつもりもなかった顔。
蓮は、それを軽く扱わなかった。
一夜の出来事として消そうともしなかった。
私はキッチンのカウンターに手をついた。
胸の奥が、苦しいほど静かに震えていた。
「美咲」
夫の声がして、私は肩を揺らした。
「なに?」
「今日の夜、何食べる?」
普通の質問。
けれど、名前を呼ばれたことに、一瞬だけ反応してしまった。
夫の声の中の「美咲」と、蓮の声の中の「美咲」は、まるで違っていた。
夫のそれは、家の中の呼び名だった。
蓮のそれは、私自身を見つける声だった。
「簡単なのでいい?」
「うん。なんでも」
「じゃあ、鍋にしようか」
「いいね」
会話は続く。
日常は崩れない。
だからこそ、私の中だけがひどく乱れていることを、誰にも知られなかった。
夜、夫がお風呂に入っている間に、私は寝室へ行った。
カーテンを閉め、ベッドの端に座る。
スマートフォンを開く。
蓮のメッセージが、そこにあった。
私はようやく返信を打った。
『なかったことにした方がいいと思う』
送る前に、しばらく画面を見つめた。
そして、その下に続けてしまった。
『でも、そうしたいと思えない』
送信した瞬間、顔が熱くなった。
自分の本音を、また彼に渡してしまった。
すぐに既読がついた。
蓮からの返信は短かった。
『会って話す?』
心臓が強く鳴った。
私は夫の気配を探した。
浴室の水音が聞こえる。
「だめ」
声には出さず、口の中だけでそう言った。
だめだ。
会えば、また戻れなくなる。
昨夜のことを終わらせるためなら、会う必要なんてない。むしろ会わない方がいい。大人なら、それくらいわかっている。
でも、私は大人だからこそ、言い訳の作り方も知っていた。
終わらせるために会う。
ちゃんと話すために会う。
一度だけ、区切りをつけるために会う。
いくらでも理由は作れた。
本当の理由は、ひとつしかなかったのに。
『少しだけなら』
私はそう打った。
第1話の夜と同じ言葉だと気づいて、指が止まった。
少しだけ。
その言葉は、いつも自分をだますために使っている。
少しだけ飲む。
少しだけ話す。
少しだけ近づく。
でも本当は、少しだけで済まないことを、私はもう知っていた。
蓮から場所が送られてきた。
駅から少し離れた、川沿いの小さなカフェだった。
明日の夕方。
人目がないわけではない。密室でもない。逃げようと思えば逃げられる場所。
そういう場所を選ぶところが、蓮らしかった。
無理に引きずり込まない。
けれど、私が自分で足を向ける余白を残す。
その余白が、ずるいと思った。
浴室のドアが開く音がした。
私はスマートフォンを閉じ、枕の下に滑り込ませた。
夫が寝室に入ってくる。
「明日、夕方ちょっと出るね」
自分でも驚くほど、自然な声だった。
「友達?」
「うん。少しだけ」
「わかった」
夫はそれ以上、何も聞かなかった。
その夜、夫は私の隣で眠った。
穏やかな寝息が、暗い部屋の中にゆっくりと落ちていく。
私は天井を見つめていた。
隣に夫がいる。
けれど、頭の中では蓮の声がしていた。
無理に戻らなくていい。
昨夜の顔をなかったことにはしない。
私は目を閉じた。
終わらせに行く。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、胸の奥では別の声がしていた。
もう一度、あの目で見られたい。
もう一度、名前を呼ばれたい。
もう一度、夫に見せない顔を見抜かれたい。
翌日の夕方、私は鏡の前で長く迷った。
派手に見えない服。
でも、何も期待していないようには見えない服。
その加減を探している自分に気づき、思わず苦く笑った。
終わらせに行く女が、こんなに襟元の形を気にするだろうか。
口紅を塗り、少しだけ指で押さえる。
髪を耳にかけ、すぐに戻す。
私は何をしているのだろう。
答えはわかっていた。
夫に「少し出てくるね」と言った声は、昨夜よりずっと落ち着いていた。
「気をつけて」
「うん」
玄関の扉を閉める。
その瞬間、家の中の空気が背中から離れた。
私は深く息を吸った。
夕方の風は少し冷たく、頬に触れるだけで、昨夜の雨を思い出させた。
終わらせに行く。
何度もそう言い聞かせながら、駅へ向かった。
けれど改札を抜けたとき、スマートフォンが震えた。
蓮からだった。
『待ってる』
たった四文字。
それだけで、足元が少し頼りなくなった。
私はスマートフォンを胸元に押し当てるように持った。
終わらせるためではない。
本当はもう、気づいていた。
私は、終わった夜の続きを確かめに行くのだ。
妻の顔をして家を出たはずなのに。
蓮の待つ場所へ近づくたび、私の中で、あの夜の顔がまた目を覚ましていった。
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