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女性向け官能小説

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2
投稿者:なみきち
◆e6Mv2w7nzY
ID:namikichi
第2話 夫の隣で、元彼からの返信を待っていた


送信ボタンを押したあと、私はしばらくスマートフォンを伏せられなかった。

『でも、まだ少し、帰ってきてない気がする』

自分で打った文字なのに、画面の中に残ったそれは、私のものではないように見えた。

こんなことを送る女だっただろうか。

夫が起きてくる前の洗面所で、私はスマートフォンを握ったまま、鏡の中の自分を見ていた。

髪は整えた。口紅も塗り直した。ブラウスの襟元もいつもの位置に戻した。

それなのに、どこかが戻っていなかった。

昨夜、蓮に名前を呼ばれたときの声が、まだ耳の奥に残っている。

低くて、急かさなくて、それなのに逃げ道の真ん中に立っているような声。

私は蛇口をひねり、冷たい水で指先を濡らした。

薬指の指輪が、朝の光を小さく跳ね返した。

結婚して十二年。毎朝見ているはずのそれが、今日だけ少し重く見えた。

寝室のドアが開く音がした。

「おはよう」

夫の声だった。

私はスマートフォンの画面を伏せて、いつもの顔を作った。

「おはよう」

「昨日、遅かったんだね」

夫は寝癖のついた髪を片手で押さえながら、キッチンへ向かった。

怒っている様子はなかった。疑っている様子もなかった。

その普通さに、私は少しだけ救われ、同じくらい少しだけ傷ついた。

「久しぶりだったから、話が長くなっちゃって」

「楽しかった?」

「うん」

「よかったね」

夫は冷蔵庫を開け、牛乳を取り出した。

何も知らない横顔。

それを見ていると、胸の奥に小さな罪悪感が広がる。けれど、その罪悪感の隙間から、昨夜の記憶が指先のように入り込んでくる。

蓮の目。

私の名前を呼ぶ声。

「帰りたいかは聞いてない」と言ったときの静かな強さ。

思い出すだけで、呼吸の位置が少し変わった。

「今日、買い物行く?」

夫が言った。

「え?」

「午後。洗剤なくなりそうだったから」

「あ、うん。行こうか」

何でもない会話。

何でもない土曜日。

この家の中では、私はいつも通り妻だった。

なのに、スマートフォンが震えるのを待っている自分がいた。

朝食を作りながらも、テーブルを拭きながらも、夫のシャツを洗濯機に入れながらも、私は耳の奥で通知音を探していた。

来ない方がいい。

そう思った。

来なければ、昨夜は本当に一度きりになる。

雨のせいにして、懐かしさのせいにして、少し飲みすぎたせいにして、胸の奥にしまい込める。

でも、来てほしかった。

その矛盾が、私を一番苦しめた。

夫がリビングでテレビをつけた。

朝の情報番組の明るい声が流れる。天気予報。週末の行楽地。高速道路の渋滞。

世界はあまりにも普通で、私だけが昨夜の雨の中に取り残されているみたいだった。

スマートフォンが震えた。

指先が、勝手に反応した。

夫に気づかれないように画面を見る。

蓮だった。

『帰ってきてないなら、まだ無理に戻らなくていい』

たった一行。

それだけで、胸の奥にしまい込もうとしていたものが、また静かにほどけた。

私は返信画面を開いた。

何度も文字を打っては消した。

『昨日のことは忘れて』

違う。

忘れてほしいわけではない。

『もう会わない方がいい』

それも違う。

会わない方がいいとは思う。でも、会いたくないわけではない。

『あんなこと、言うべきじゃなかった』

これも違う。

本当は、言ってしまって少し楽になっていた。

私は画面を閉じた。

返信できないまま、スマートフォンをバッグの中にしまう。

「どうしたの?」

夫がテレビから目を離さずに聞いた。

「何が?」

「ぼんやりしてる」

「ちょっと眠いだけ」

「昨日、飲みすぎた?」

「そんなに飲んでないよ」

夫はそれ以上聞かなかった。

聞かれないことに安堵して、同時に、どうしようもなく寂しくなった。

蓮なら、そこで終わらせなかったかもしれない。

「眠い顔じゃない」と言ったかもしれない。

「何を隠してる?」と聞いたかもしれない。

そんなことを考えてしまう自分が、もう十分に危うかった。

午後、夫と買い物に出た。

スーパーの通路を並んで歩き、洗剤と卵とヨーグルトをカゴに入れる。夫は特売のコーヒーを見つけて、少し得意そうに私を呼んだ。

「これ、安いよ」

「ほんとだ」

私は笑った。

きっと自然に笑えていたと思う。

夫の隣は安心だった。

長く暮らしてきた人の匂いがした。靴の選び方も、レジで小銭を探す癖も、車のキーを右ポケットに入れるところも、私は全部知っている。

その安心を、嫌いになったわけではない。

ただ、安心だけでは触れられない場所が、私の中にまだ残っていた。

蓮はそこを見てしまった。

そして私は、見られたことを嫌だと思えなかった。

帰宅して、買ったものを片づける。

夫はソファに座り、スマートフォンでニュースを見ていた。

私はキッチンの隅でバッグから自分のスマートフォンを取り出した。

蓮から、もう一通来ていた。

『返事を急かすつもりはない』

その下に、少し間を置くように次の文が続いていた。

『でも、昨夜の顔をなかったことにはしない』

息が止まった。

昨夜の顔。

夫には見せない顔。

見せるつもりもなかった顔。

蓮は、それを軽く扱わなかった。

一夜の出来事として消そうともしなかった。

私はキッチンのカウンターに手をついた。

胸の奥が、苦しいほど静かに震えていた。

「美咲」

夫の声がして、私は肩を揺らした。

「なに?」

「今日の夜、何食べる?」

普通の質問。

けれど、名前を呼ばれたことに、一瞬だけ反応してしまった。

夫の声の中の「美咲」と、蓮の声の中の「美咲」は、まるで違っていた。

夫のそれは、家の中の呼び名だった。

蓮のそれは、私自身を見つける声だった。

「簡単なのでいい?」

「うん。なんでも」

「じゃあ、鍋にしようか」

「いいね」

会話は続く。

日常は崩れない。

だからこそ、私の中だけがひどく乱れていることを、誰にも知られなかった。

夜、夫がお風呂に入っている間に、私は寝室へ行った。

カーテンを閉め、ベッドの端に座る。

スマートフォンを開く。

蓮のメッセージが、そこにあった。

私はようやく返信を打った。

『なかったことにした方がいいと思う』

送る前に、しばらく画面を見つめた。

そして、その下に続けてしまった。

『でも、そうしたいと思えない』

送信した瞬間、顔が熱くなった。

自分の本音を、また彼に渡してしまった。

すぐに既読がついた。

蓮からの返信は短かった。

『会って話す?』

心臓が強く鳴った。

私は夫の気配を探した。

浴室の水音が聞こえる。

「だめ」

声には出さず、口の中だけでそう言った。

だめだ。

会えば、また戻れなくなる。

昨夜のことを終わらせるためなら、会う必要なんてない。むしろ会わない方がいい。大人なら、それくらいわかっている。

でも、私は大人だからこそ、言い訳の作り方も知っていた。

終わらせるために会う。

ちゃんと話すために会う。

一度だけ、区切りをつけるために会う。

いくらでも理由は作れた。

本当の理由は、ひとつしかなかったのに。

『少しだけなら』

私はそう打った。

第1話の夜と同じ言葉だと気づいて、指が止まった。

少しだけ。

その言葉は、いつも自分をだますために使っている。

少しだけ飲む。

少しだけ話す。

少しだけ近づく。

でも本当は、少しだけで済まないことを、私はもう知っていた。

蓮から場所が送られてきた。

駅から少し離れた、川沿いの小さなカフェだった。

明日の夕方。

人目がないわけではない。密室でもない。逃げようと思えば逃げられる場所。

そういう場所を選ぶところが、蓮らしかった。

無理に引きずり込まない。

けれど、私が自分で足を向ける余白を残す。

その余白が、ずるいと思った。

浴室のドアが開く音がした。

私はスマートフォンを閉じ、枕の下に滑り込ませた。

夫が寝室に入ってくる。

「明日、夕方ちょっと出るね」

自分でも驚くほど、自然な声だった。

「友達?」

「うん。少しだけ」

「わかった」

夫はそれ以上、何も聞かなかった。

その夜、夫は私の隣で眠った。

穏やかな寝息が、暗い部屋の中にゆっくりと落ちていく。

私は天井を見つめていた。

隣に夫がいる。

けれど、頭の中では蓮の声がしていた。

無理に戻らなくていい。

昨夜の顔をなかったことにはしない。

私は目を閉じた。

終わらせに行く。

そう自分に言い聞かせた。

けれど、胸の奥では別の声がしていた。

もう一度、あの目で見られたい。

もう一度、名前を呼ばれたい。

もう一度、夫に見せない顔を見抜かれたい。

翌日の夕方、私は鏡の前で長く迷った。

派手に見えない服。

でも、何も期待していないようには見えない服。

その加減を探している自分に気づき、思わず苦く笑った。

終わらせに行く女が、こんなに襟元の形を気にするだろうか。

口紅を塗り、少しだけ指で押さえる。

髪を耳にかけ、すぐに戻す。

私は何をしているのだろう。

答えはわかっていた。

夫に「少し出てくるね」と言った声は、昨夜よりずっと落ち着いていた。

「気をつけて」

「うん」

玄関の扉を閉める。

その瞬間、家の中の空気が背中から離れた。

私は深く息を吸った。

夕方の風は少し冷たく、頬に触れるだけで、昨夜の雨を思い出させた。

終わらせに行く。

何度もそう言い聞かせながら、駅へ向かった。

けれど改札を抜けたとき、スマートフォンが震えた。

蓮からだった。

『待ってる』

たった四文字。

それだけで、足元が少し頼りなくなった。

私はスマートフォンを胸元に押し当てるように持った。

終わらせるためではない。

本当はもう、気づいていた。

私は、終わった夜の続きを確かめに行くのだ。

妻の顔をして家を出たはずなのに。

蓮の待つ場所へ近づくたび、私の中で、あの夜の顔がまた目を覚ましていった。


※元投稿はこちら >>
26/05/10 22:47 (OslooN98)
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