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1: 謝罪出張、ふたり部屋
投稿者:
erabenovel
オフィスの蛍光灯が白く眩しい。昼下がりのデスクで、遥は書類の束を見返していた。確認すればするほど、胃のあたりが重く冷えていく気がした。数値が違う。配送先の担当者名も違う。これでは明日の商談どころの話ではない。
「どうしよう……」 小さく呟いた声は、幸いにして隣の席の同僚には届かなかったようだ。遥は深呼吸をして立ち上がる。震える指を握りしめ、上司のデスクへ向かった。 「課長、お話があります」 正明はパソコンの画面から目を上げずに 「なんだ」 と短く返した。 「これを」 遥が書類を差し出すと、彼はようやく視線を向けた。老眼鏡の奥の目が素早く文面を走る。数秒後、彼は大きため息をついた。 「……遥さん、これはひどいな」 「はい、私のミスです。申し訳ありません」 正明は書類をデスクに放り投げ、頭をかきむしる。 「明日の商談に間に合わせるには、今日中に現地へ行って直接謝るしかないだろう」 「はい」 「俺の今夜の予定がパーだ」 その言葉に遥は目を瞬かせた。 「今夜、ですか?」 「予定があったんだよ。楽しみにしていた店の予約がね」 正明は苛立ちを隠さずに立ち上がり、 「おい、新幹線のチケットを取れ。一時間後のでいい」 と指示した。 「え、課長も行かれるんですか?」 「当たり前だ。お前一人で任せられるか」 遥は唇を噛んだ。彼の強権的な態度は日常茶飯事だが、私的な予定の愚痴を部下の前で漏らすその無神経さには、毎度閉口させられる。 「すみません、本当に……」 「謝る暇があったら手を動かせ。今すぐだ」 遥は 「はい」 と答え、急いで自分のデスクへ戻った。パソコンの前でチケット予約サイトを開きながら、彼女は深いため息を心の中で吐いた。夫には遅くなると連絡しなければならない。今夜の予定を崩された正明の不機嫌さは、これから長く続きそうだった。 https://erabenovel.com/
2026/06/03 19:28:54(smFeotKz)
投稿者:
erabenovel
新幹線の座席に揺られながら、遥は窓の外を流れる景色を眺めていた。夕暮れが近づき、空は茜色から薄紫色へと変わっている。
「あの店、三ヶ月前から予約してたんだぞ」 隣の席から正明の声が届く。同じ愚痴を、もう何度聞いただろう。 「はい、存じております」 「わかってるじゃなくて、共感しろよ。あの店は予約困難でな。何か月も前から電話して……」 遥は適当に相槌を打ちながら、スマホの画面を見つめていた。夫からのLINEが入っている。『今日は何時に帰れる?』というメッセージに、まだ返信できていない。 「……で、次の予約ができるのはいつになるか……」 「課長、もう現地に着きます」 「わかってるよ。お前な、人の話を聞け」 新幹線が減速し、静かにホームへと滑り込んだ。二人は座席を立つ。駅前は予想以上に混雑していた。観光客らしき人々が提灯や法被姿で歩き回っている。 「なんだ、今日は何かあるのか?」 「祭りみたいですね」 遥が看板を見上げると、『第35回 夏祭り』の文字があった。 「……嫌な予感がするな」 正明の予感は的中した。駅前のビジネスホテルに始まり、徒歩圏内の宿泊施設を次々と当たったが、どこも 「満室」 の札がかかっている。 「すみません、今日は祭りでして……」 フロントの女性が申し訳なさそうに断る。 「他に当たってみます」 と遥が言い、次の宿へ向かう。雨が降り始めていた。小雨だが、二人とも傘を持っていない。遥のスーツの肩が濡れていく。 「おい、あそこ」 正明が指差した先に、派手な看板が見えた。ピンク色のネオンがちらついている。『エンジェル・ネスト』という文字が読み取れた。 「……課長」 「他に空いてる宿があるなら言ってくれ」 遥は言葉に詰まった。確かに、他に選択肢はない。 「わかりました……でも」 「緊急事態だ。仕事だからな」 正明は憮然とした顔で歩き出した。遥もその後を追う。ラブホテルの自動ドアが開くと、甘い香りが漂ってきた。ロビーには誰もいない。セルフチェックインの機械が光っている。 「……課長、私、ここで待ってます」 「馬鹿言え。一人で外にいる気か。雨が強くなってるぞ」 正明は遥の腕を掴んで、中へと引いた。 「仕事で泊まるんだ。気にするな」 「……はい」 遥は俯いたまま、ロビーの一画にあるソファへ座った。顔が熱い。夫にどう説明すればいいのか、まったく思いつかなかった。
26/06/03 19:49
(smFeotKz)
投稿者:
erabenovel
「お部屋、これになります」
従業員の声と共に、電子キーが差し出された。遥は礼を言って受け取るが、視線が自然と室内へと吸い寄せられた。ダブルベッドが一つ。それも、赤やピンクの装飾で彩られた、見るからにラブホテル仕様のベッドだ。 「……あの、ツインは? 「申し訳ありません、本日は満室でして。このお部屋しか空いておりませんでした」 従業員が去ると、重い静寂が降りた。遥はバッグを抱きしめたまま、部屋の隅に立つ。正明はといえば、気にする様子もなくベッドに腰を下ろしていた。 「まあ、座れよ。立ってられるほど広くないだろ」 「……はい」 遥は渋々、ベッドの端に座った。スプリングがきしむ音がやけに大きく響く。 「風呂に入って出直すか。いや、その前に一杯飲むか」 正明はミニバーを開け、小瓶のウイスキーを取り出した。 「お前も飲め。疲れただろ」 「いえ、私は……」 「遠慮するな。仕事の付き合いだ」 押し切られる形で、遥もグラスを受け取った。アルコールが喉を焼く。空腹の胃に染み渡り、すぐに顔が熱くなるのがわかった。 空き瓶が二本、三本と増えていくにつれ、正明の口調は緩くなっていった。 「……ったく、あの店。楽しみにしてたのにな」 「お店キャンセルされたんですよね……」 「風俗だよ。三ヶ月待ちの人気店でな。嬢の指名も入れてたんだ」 遥はグラスを握る手に力が入るのを感じた。上司の私生活になど興味はない。けれど、その視線が自分に向けられていることに、背筋が凍るような感覚を覚えた。 「……課長?」 「お前な、ミスして俺の予定を台無しにしたんだぞ。責任、あるよな?」 正明の目が、遥の体を舐めるように動く。胸から腰、そして太ももへ。その視線の粘着質さに、遥は息を呑んだ。 「責任……は、仕事で償います」 「仕事かあ。まあ、そうだな」 正明はニヤリと笑い、もう一口ウイスキーを煽った。その笑みの奥に、どす黒いものが渦巻いているのを遥は見逃さなかった。
26/06/03 19:50
(smFeotKz)
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