その日の夕食後、いつものように部屋へ行き、日付が変わる少し前に風呂へ入ろうと階下へ行き、ふと居間を覗くと母が携帯を手に一生懸命メールらしきことをしていた。
私は我が目を疑った。
あれ程携帯嫌いを自負していた母に何があったというのか。
「どうしたの、それ」
母は顔をあげずに、
「なにが」
と、私の問い掛けが一切頭に入っていない反応を示し、まだ不馴れな指使いを繰り返していた。
「それだよ、携帯。ついに買ったの?」
「そんな訳ないでしょ。渡されたのよ、沢木君に」
「え、渡された? 」
ふう、と息をつき母はようやく私の顔を見た。
沢木のところへ行った母が夕食を作ろうと思い冷蔵庫を開けてみたが何も入っておらず、近くのスーパーへ行ってくることを沢木に告げると、何かあったら困るから携帯番号を教えてくれと言われたのだという。
携帯は持っていないの、と母がいうと、『え、今時、なんでなんで』とお決まりのやり取りがあった後、『じゃあこれ持ってきなよ』と渡されたのだそうだ。
「前の携帯って言ってたわ。違う携帯会社のにしたんだけど解約し忘れていたんだって。沢木君の電話番号とアドレス? しか入っていないホントに連絡用なのよ」
見ると最大手のものだったが、あいつこんなの使っていたかな? 思い出せなかった。
「まあ、確かに怪我人を残していって何かあったら嫌だしね」
母はまた携帯の画面に目をやっていた。返信が気になっているのか、落ち着きがなかった。
「この時間でも、呼ばれたら行くの? 」
壁に掛けられた時計を見ながら私が言うと、
「まさか。でも、救急車くらい連絡できるでしょ」
それなら、沢木が自分でした方が早いだろう、と思ったが言うのを止めた。
「ほら、そんなこといいから早くお風呂に入っちゃいな。明日も学校でしょ」
母が携帯を置きながら言った。
「明日、午後からだから早く起こさないでよ」
「わかったから、早く、お風呂! 」
風呂から上がり炭酸系ジュースで喉を潤し、部屋に戻ろうとすると、居間の電気がついていた。消そうと思い近づくと、母がまだ携帯をいじっていた。
真面目な母のことだから、メールがくるとすぐに返さなければ悪いとでも思っているのだろうか。
あまり、しつこく何だかんだいうのはしたくなかった。母に疑われるのも、からかわれるのも嫌だったからだ。
私はそっと部屋へ戻った。
それから三日目、四日目と、母は毎日沢木のところへ通った。午後からだったのが午前中からになり、部屋着同然だった服装がブラウスにパンツスーツ的な外着になり、あまつさえ、うっすらと化粧さえするようになった母に一抹の不安を覚え、それとなく問い掛けてみたが、返ってきた答えは、「外へでるのだから、この位の身だしなみは当たり前でしょ」 というものだった。明日から週末になるという金曜日の夕食後に、母のパート仲間の大山さんから電話がきた。大山さんはその名の通り大柄なおばさんで、母に負けず劣らずお喋りな明るい人だった。子機を手に持ち、「あらあらあらあら、どうもどうも」と居間から出ていった母。壁に貼ってある銀行からもらったカレンダーの明日の日付には大きく赤丸が書かれていて、『さくら会 旅行』と記されていた。さくら会とは、母と大山さんと他二名からなる会で、毎月幾らかの積立をし、旅行をしたり、少しいいレストランなどで食事をしたりして、日々のストレス解消をするための会だった。毎年恒例のさくら会の旅行が明日なのは、ずっと前から決まっていたことなのだ。 今年は沢木の件があるから母は不参加なのだろう、と勝手に考えていたのだが、電話を終えた母が、「明日の準備をしなきゃ」と子機を台に置きながら呟くように言った。「旅行、いくの? 」「当たり前じゃない。前から言ってたでしょ」「あいつのとこに行かなくていいの? 」母は私の顔を見つめ、「あれ、言ってなかった?週末は彼女が来るからあたしは行かなくていいのよ」 と言った。母が言うには、沢木は年上のOLとつきあっているらしく、彼女が平日仕事で会えないので週末にタップリ会うのだという。私は、その彼女のことについて、沢木から何も聞いていなかった。「ふうん。そうなんだ」そんな彼女がいれば、母に対する一連の行為など冗談に決まっている。平日に彼女に会えないから溜まっていたのか。母の言っていた、酔っぱらえば場末のスナックのババすら・・・という言葉を思い出した。「あ、そうそう。美味しい温泉まんじゅうのお店があるんだって。買ってきてあげるからね。お父さんには、何かお酒のつまみとか買ってこようかね。楽しみしていなよ」母はいつも私たち家族のことを考えていた。そのことが嬉しかった。 「うん。楽しみにしてるよ」私は笑顔で答えた。次の日の朝早く、母は出掛けていった。そして、その次の日の夜遅くに帰ってきた。いつもは旅行から帰ってくる日は、夕方早めに帰ってきていたのだが、「ごめんなさい。なんだか話が盛り上がっちゃって」 と、お土産と駅前のスーパーの総菜を私らに渡すと、「疲れているから」と寝室へ行ってしまった。父と私は呆気にとられたが、確かに母は憔悴しきった顔をしていたので、何も言わなかった。総菜をつまみに酒を飲んでいた父がぽつりと、「途中で連絡してこないなんて、母さんどうしたんだろうな」と呟いた。私も、そうだね、と言い冷めたカニクリームコロッケを食べた。「母さん、着替えもしないで寝たのかな。おい、ちょっと見てきてくれ」二本目の銚子を傾けながら、父が言った。私は両親の寝室へ行きドアを開けると、母はベッドで死んだように眠っていた。脱ぎ散らかした上着、ジーパン、靴下が床に散乱していた。口元まで布団を掛けて寝ていた母を見て、ふと母が下着姿で寝ているのだろうか、と思ってしまった。母に対して性的
...省略されました。