※翠ヶ丘警察署の生活安全課のエリア※
給湯室近くにある自販機の陰、ほんの少し引っ込んだデッドスペースに鈴は背中を預けていた。
ポケットの奥で、数日前に黒瀬にもらった連絡先が微かに熱を帯びているような気がする。
(黒瀬警視長は今、何をしているんだろう……)
仕事の合間にも、あの射抜くような視線や車内でのやりとりがふとした拍子に思い出されて、鈴の胸のうちは甘い緊張と戸惑い。乱れそうな息を整え、目の前に立つ田中に視線を戻す。
「…田中さん。お話しがあるんです」
いつになく真剣で、はっきりとした鈴の声に、田中はヘラっとした愛想笑いを引っ込めた。
田中「ん? なんだよ鈴ちゃん、そんな真面目な顔してさ。書類の不備なら俺が代わりに」
「ううん、そうじゃなくて…。私達、もう終わりにした方がいいと思うの」
静かにその一言を発する、田中は一瞬何が起きたのか理解出来ない、まばたきを二回繰り返した後、顔からスーッと血の気が引いていく。
田中「…は? 終わりって、なにが? 俺たち付き合って……いや、これからもっとさ…。」
「ごめんなさい。私、もう田中さんの気持ちに応えられないの。これ以上中途半端な関係でいるのはお互いのためによくないから…。」
頭を殴られたような衝撃を受けながらも、田中は反射的に鈴の細い腕をガシッと掴んだ。
田中「待ってくれよ、鈴ちゃん! 別れたくないよ! 俺、鈴ちゃんのためならなんだってするし、合同練習だってもっと男らしいところ見せるつもりだったんだ! だから急にそんなこと言わないでくれよ!」
「離して、田中さん、痛い……!」
鈴が必死に腕を引こうと身をよじったその時、コツコツと廊下のタイルを鳴らすヒールの足音が近づいてきた。
先輩女性警官「地域課の田中くん、こんなところでうちの鈴に何をやっているのかしら?」
冷ややかな声とともに姿を現したのは、先輩女性警官だった。スッと鈴と田中の間に割って入り、冷ややかな視線を田中の手に向けさせる。
先輩女性警官「鈴ちゃん、大丈夫? またこのポンコツに勤務中変な絡まれ方してたんじゃないの」
「先輩……!」
田中「ち、違いますよ先輩! 俺はただ、急に別れようなんて言われて納得いかなくて…。」
半泣きになりながら縋り付く田中に先輩は一歩も引かず、冷静にそれを一刀両断する。
先輩女性警官「納得いかないも何も、相手が嫌がってる時点で答えは出てるでしょ。いい歳して女の引き際が見られない男って、一番みっともないわよ。さっさとその手を離しなさい」
しかし、精神的に追い詰められた田中はもう止まらない。
田中「離せるかよ! 俺だって必死なんだよ! どうやったら鈴ちゃんに男として見てもらえるのか、俺だって……」
その時だった。給湯室の前を通りかかった田中の男性同期が、冷めた目を向けながら足を止める。
同期男性警官「おい、田中。何やってんだよ、見苦しいぞ」
やれやれといった溜息を吐きながら、男性同期は田中の背中を軽く叩いた。
同期男性警官「勤務中に何やってんだよ。カッコ悪いところ鈴ちゃんに見せるなよな。お前、こないだも『男の見せ方』であれだけ悩んで相談してたろ、少しは男らしく引き際見せろよ」
田中「なっ……お前、余計なこと……!」
自分の情けない内輪話をサラリと暴露された田中は、顔を真っ赤にして言葉を失う。
先輩女性警官「ほら、聞いたでしょ。これ以上みっともない真似続けるなら、生活安全課総出であなたの素行、徹底的に調べるわよ?」
先輩の容赦ないトドメに、田中はついに精神的な支えを失ったらしい。
田中は「そんなぁ……」と情けない声を漏らし、同期に肩を叩かれてトボトボ去っていった。
静けさを取り戻した給湯室の陰で、先輩はふうと息をつき、ぐっと緊張を解いた鈴の肩に軽く手を置く。
先輩女性警官「やれやれ、面倒な男に絡まれたわね。……で、鈴ちゃん?」
「え……?」
先輩女性警官「最近、その綺麗な首筋のあたりとか、やけに上の階を気にしてる様子……誰か特定の、スマートで危険な大人に可愛がられてるんじゃないの?」
ニヤニヤと意地悪く、だけど核心を突いた笑みを向ける先輩の視線に、鈴は顔を真っ赤に染め上げた。
「な、なんでもありません……っ!」
叫ぶように答えると、逃げるように自分のデスクへ駆け戻っていくのだった。
※寮近くのカフェ、鈴を慰める会※
寮の仲間が利用するカフェ。テーブルにはパンケーキやタルトが並び、心地よいざわめきに包まれて女子会は盛り上がっていた。
同期「それにしても、田中とはよくスッキリ別れられたよね!あのポンコツ、交番に戻った後もずっと落ち込んでたらしいよ」
後輩「見苦しく腕とか掴んでましたし、あの時も黒瀬警視長たちの車を呆然と見送ってて情けなかったですもん」
鈴「うう、私の見る目がなかったというか……ご心配おかけしました」
同僚「若い女の子が変な男に引っかかっただけだって!さ、ケーキ食べよ!」
笑い合う中、先輩はカップを置き、ふっと含みのある笑みを浮かべた。
先輩「みんな気づいてる?田中と別れたのって、あの本庁の黒瀬警視長たちとお出かけした『次の日』だよね?」
同期「あの時、破かれたTシャツの弁償だって言ってタクシーに乗せられて行ったもんね!」
後輩「あの色気と香水の黒瀬警視長と、スマートな青山警視正に挟まれてタクシーって凄すぎます……!」
鈴「実はタクシーの中で二人を幼馴染の悪友だって聞かされて、黒瀬さんのプライベートな話を暴露されたんです……っ!」
先輩「『黒瀬は惚れた女をベタ甘に甘やかす』とか暴露されたの?」
鈴「は、はい……『黒瀬警視長に甘やかされる女性は幸せですね』って私お返ししちゃって……っ!」
同期「それ完全に『私はあなたの女になります』って宣言じゃん!天然でそれ言うの危険すぎるよ!」
後輩「狙われてる本人が一番無自覚なんて、黒瀬警視長も絶対焦ってますよ!」
同僚「あんな大人たちに囲まれたら、田中のことなんて一瞬で冷めるわ!」
先輩「黒瀬警視長みたいな鋭いオトコは一度目をつけたら逃がさないタイプだから覚悟してね」
鈴「もう面白がらないでください……っ!」
真っ赤になって顔を覆う鈴を囲み、楽しげな笑い声が響いていた。
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