「今日よろしくね、斎藤くん。私が色々教えることになった、花崎瑞樹です。えっと、今日はフロアとか仕事内容の簡単な説明と、午後は私の営業周りについてきてもらって、雰囲気を見てもらおうかな。…実はさ、職場の雰囲気あんまり良くないんだよね。だから、私たちだけでも仲良くやろうねっ。」第一志望から第三希望、それ以降もことごとく御祈りメールが届き、もはや縋るように受けた面接にやっと合格した斎藤。緊張しながら出社した彼を待っていたのは、栗色の髪を緩くふわふわにウェーブをかけた、女先輩だった。「んーっと、じゃあ、席に案内するね。私の隣だから、なんかあったらすぐになんでも聞いていいからね。」職場の雰囲気が悪い。そう言われて、少し緊張しながらも席に荷物を置き、午前は色々説明やら何やらを受け、午後は外回りについていく。「はい、ええ、はい。…えーっ!?社長、お世辞ばっかりお上手になって…っ!」名刺交換させた斎藤の横で、取引先の社長と雑談を交わす花崎。ブラウスにパンツスタイルのスーツだが、初見の斎藤でもわかるくらい胸元がパツパツに張っており、パンツスーツの臀部はぷりぷりに膨れている。案の定、取引先の相手は胸元に視線がいっており、厭らしい目つきに思えた。「はあ、疲れた疲れた。あの社長は大口契約結構してくれるし、基本はいい人なんだけどさ。…毎回食事だの飲みだの行ってくるんだよねー…、結構それがしんどいっていうかさ。」帰りの電車に乗りながら、緊張をほぐすように努めて話しかける。実は同期で年下の可愛がっていた後輩が辞めていき、転職先を探していたのだが、押し付けるように新人教育を頼まれた。新卒ということだけは聞いていたので、女子だったら守らねばならないし、男子なら『他の連中』みたいにはなってほしくなかった。(斎藤くんは良い子そうだし、要領も良さそう…。上の人に可愛がられるタイプっぽくもあるし、ある程度教え込んで、あの職場でも負けないくらいの力をつけてもらって、私は転職って感じかな…。)斎藤の面倒を見切ってから職場を辞める。そう決めたのだったが、それが仇になるとは思いもしていなかった。それからというもの、花崎はほとんど付きっきりで斎藤をサポートし、20時過ぎくらいから自身の仕事を片付ける生活が始まった。「うん、…うん。契約書できたね。じゃあ、あしたこれ先方に送って確認してもらおっか。今日はもう帰って良いよ、気をつけてねー。」(これからメール片付けて、ああ…、○○社長に請求書作って送らないと…。このままだと営業成績やばいかもな…。でも、斎藤くんほっとくわけにいかないし…。なんとか中位くらいを目指して今月はやり過ごそう…。)斎藤のサポートはかなりの重荷になっていた。他の人間には頼れないし、任せられない。かといって、自分の仕事もしないと、営業成績がまずい。心配し、「手伝う」という斎藤を半ば無理やり帰し、ふう、と大きくため息をついてパソコンに向き合う。これまでほぼトップ層に居続けた花崎への嫌がらせ目的の新人教育押し付けだったが、かなりの効果が出ていた。他の職場の人間は、花崎から言わせて貰えば、『クズ』しかいない。「…ざけてんのかっ!電話もまともに取れねえんなら、学生からやり直せっ!!」トイレをしていた花崎にすら聞こえる怒号。慌ててトイレから飛び出て、頭を下げていふ斎藤の元にかけつける。「な、なんですかっ!?この騒ぎは…っ!」聞くと、斎藤が電話の取り次ぐ先を間違えたらしい。まだ入社したばかりで人の名前を覚えていないうえ、花崎が意図的に他の社員から離しているせいもある。「そもそもお前みたいな小娘の分際で、人に物教えるなんて早いんだよ。だから、コイツもダメなんじゃねえのか?」「電話の取次くらいであんなに怒鳴る必要ないでしょう。それに、コイツとかいうのはやめてください。斎藤くん、です。…斎藤くん、取引先の約束、12時からでしょ?そろそろ行かないとまずいんじゃない?」
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「あ、はい…。2か月に1回の飲み会は全員参加…とお聞きしました…。」4月入社の斎藤。魅力的な教育係に恵まれた、と思ったのも束の間。挨拶ついでに聞いていた職場環境の悪さを肌で感じている中で初めて迎える、恒例の飲み会、なるものについての話だった。飲み会そのものが嫌いなわけではなかったが、普段から柔らかい笑顔を崩すことのない花崎の少し曇った表情を見ていれば、ミスを重ねる新入社員とてある程度は想像ができてしまう。ろくでもない飲み会なのだろうな…と言うことは。先輩とは言っても、年齢はさほど変わらないと聞いている。何度も、こんなに良い人がなぜこんな会社に残って頑張っているのか、聞きたくなるほどいい意味で浮いた存在に映っていた。一周回ってなんで怒鳴られているのかもわからなくなってしまう職場環境の中で、自分のミスも自分事のように。真摯に、ひたむきに接してくれる花崎という先輩。「あの…、何かあっても、ほら…だいたい俺のミスが原因じゃないですか…。ちゃんと、謝ります。先輩の所為じゃないですから、むしろそれをかばって一緒に謝ってくれて…、ほんと…何時もすいません。だから先輩は…、かっこ悪くなんかないです…。かっこ悪いのは…あいつらじゃないですか…。」あいつら…、と口にしながら、普段から何かにつけて罵詈雑言を浴びせてくる諸先輩方に視線を送る。もちろん、面と向かって口答えするほどの経験もなければ、男としての意地、のようなものもない。体裁を繕うように、そう言ってはみたものの、自分の代わりに怒鳴られている花崎の間に入って謝罪、という行動に結びついたことは一度もなかった。仕事自体は真面目に取り組んでいる。普通の会社で、普通の環境に恵まれれば、普通の結果を残し、普通の生活ができるタイプの人間ではあると思う。しかし、肝心なところでは委縮してしまい、開いた口からは言葉は出てこず、そのまま閉じてしまうのだ。そんなたらればを、入社から何度口にしたことか。そんな根っこの弱さ…、それが結果花崎の心をさらに追い込む形になってしまうとは、花崎はおろか、斎藤自身もわかっていない。………「やっと飲み会月じゃないか…。先月、今月と花崎の成績…把握してるよな…?」「あぁ…、上手くいったんじゃないか…?あの斎藤とか言う新人…、頑張っちゃいるが…、その頑張りがちょうどいいネタ、になってくれそうだもんな…?」「確かに。それにつけて、花崎のあの無駄に高いプライド…、へし折るにはいい機会じゃないか…。唯一の拠り所だった、同期も…止めちまったしな…?何ちゃんだっけ…?」「忘れちまったな…。ちょっと飲み会でふざけただけなのによ…?その付けも、花崎に清算してもらうとするか…?楽しみだねぇ…。」花崎たちの飲み会への懸念は的中していた。いや、それ以上の状況が巻き起ころうしてしているかもしれない。社御用達の居酒屋。そこで行われる定期的な飲み会は、関係者以外がほぼ立ち入り禁止のブラックボックスのようなもの。それが、じわりじわりと暑さも増してくるこの季節に、やってこようとしているのだ。「おい、花崎。今回の飲み会は斎藤の歓迎も兼ねてんだ。遅れんなよ?先行ってるからな?」いつものように膨大な業務を花崎…ではなく、斎藤に押し付けることで、それを良しとしない花崎が身代わりになることを想定した業務振り。確実に間に合わない飲み会開始時間からの参加は、狙った引き金のように男たちをにやつかせ、我先にと社を後のしていった。「お、俺も急ぎます。俺のせいで先輩ばっかり怒られるのはほんと、勘弁なんでっ。」
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「いいのいいの、斎藤くんは気にしなくてさ。そもそも契約書とかちゃんとチェックできてなかった私の責任だし。せっかく契約取り付けたのに、ケチつけちゃって本当ごめんね。」斎藤がミスを犯した契約も、自分の成績を少しでも上げようと、ちょっと任せきりにしてしまった部分があった。そのせいで、チェックが漏れていたこともあり、単純な数値ミスとはいえ、花崎の性格からして、完全に斎藤のせいにもできない。「あははっ、その気持ちだけで十分だよ。とりあえず、お昼食べて飲み会のことは忘れちゃおっか。景気付けにお寿司でも奢ってあげるからさ」自分のために憤ってくれる斎藤に優しく微笑みつつ、腕を引いてこっそり社外に出る。二人揃って外出するところを見られると、「またサボりか」「ホテルで教育でもしてのか?」と悪口が飛んでくるためだ。花崎はもう飲み会のことはなるべく考えず、自己の契約はさておいて、斎藤の契約本数を伸ばすことにした。………「…ねえ、なんで私トイレ行ってる間にこんなに仕事振られてるわけー…?」今日は飲み会当日。強制参加であるため、各々午後は基本的に簡単な仕事のみ行う。御多分に洩れず花崎達も軽い書類整理や取引先面談のフィードバックを行なって定時に終わるつもりだったが、花崎がトイレに行っている間に、大量の仕事を任せられた…、もとい押し付けられて右往左往している斎藤がいた。ゲンナリとした表情を浮かべつつ、机に広がる書類に手をつける。「ごめんなさい…」と間に受けて謝る斎藤の頭を軽く撫でつつ、「嘘嘘、冗談だって。それより、こっちこそごめんね…。ほら、私職場で浮いてるというか、孤立してるし…、それが先輩になったからには、こういうとばっちりもあるよねえ…。」花崎からすれば、自分のことで斎藤を巻き込んでしまっている感覚だった。昨年まで妹のように可愛がっていた同期の結衣ちゃん。小柄で愛嬌のあるタイプで、本当に可愛らしかった。しかし、ここでは狼の群れに混じる子羊であり、目を離すとセクハラされたり、嫌がらせを受けていたため、何度も間に入っては守ってきたのだった。(結衣ちゃんどうしてるかな…。少なくともここよりかはいいところで働けてると思うけど)仕事を押し付けておきながら、偉そうにノシノシ退社する男達を睨みつけつつ、嫌味なセリフにも無言で対応する。「遅れんなよ」というくせに、明らかに終わらない量を与えてきている。しかし、放って飲み会に向かえば、明日大きなトラブルが待っていること間違いない。「はあ…、あとはえーっと…?コピーして、ホチキス留め…、30組み…!?終わるわけないじゃんこんなのー…、ねえー…。」預けられた仕事はほぼ単純作業。どう考えても今日やらなきゃいけないことではないが、やらなければ槍玉に挙げられるのは、任せられた斎藤。ぶつぶつ二人で愚痴を言いつつ、ちょっとふざけ合いつつ、仕事を片付けていく。「ねえ、斎藤くんってさ、彼女とかいるの?…えー、意外っ。結構モテそうなのに。からかってるわけじゃないって!真面目で優しくて好青年じゃん、女の子は放っとかないって。」ぱちっぱちっとホチキスを綴じる音だけがオフィスに響く。時計の針は飲み会開始時間を指していた。「ん?私?…彼氏いないよー。こんな職場じゃ出会いもなければ、出会いに行く時間もないって。」告白されたことは何度もあるが、その度にあんまりピンと来ることがなかった。雑談の流れでお互いの恋愛事情に触れてしまい、ちょっとだけ気まずい空気が流れる。「もう間に合わないね…。ねえ、飲み会バックれちゃってさ、ウチで二人で飲む?」クスクス笑って隣に座る斎藤を見つめる。少し顔を赤らめて狼狽えた彼を見て、あははっと破顔し、ゆっくり首を振る。「本当にそうできたらいいんだけどね、そっちの方が1000倍楽しいしね。…けどまあ、行かなきゃまずいことになるだろ
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