フロアにはもう誰もいないはずだったが、忘れ物をした誰かが戻ってくるかもしれない。
会議室の明かりがついているのを不思議に思い、覗かれでもしたら──
全裸で土下座している部長を見て、いったい何を思うだろう。
おそらく、俊雄の居場所はなくなってしまう。
そんな不安が、じわじわと胸に広がってくる。
自由を拘束されているわけではない。
床に散らばった服を着ようと思えば、いつでも着ることができる。
それでも俊雄は、そのままの姿勢で陽子を待つことを選んだ。
どのくらいの時間が経っただろうか。
実際にはほんの数分にすぎなかったはずだ。
それでも、俊雄の不安を募らせるには十分な長さだった。
床につけた膝から、じわじわと痺れが這い上がってくる。
体勢を変えたくても、勝手に動いてはいけない気がして、指一本動かせない。
感覚の薄れた足元だけが、この姿勢で待ち続けている時間の長さを正確に刻んでいた。
コン、コン──。
ドアがノックされる音に、俊雄の身体がびくりと震えた。
陽子なら、こんなふうにノックなどしないはずだ。
忘れ物を取りに来た誰かかもしれない、という最悪の想像が一瞬で頭をよぎる。
咄嗟にテーブルの下に隠れようかと思ったが、身体は固まったまま動かなかった。
俊雄の返事を待たずに、ドアノブが回る音がする。
顔を上げることができず、視線は床に貼りついたままだった。
「お待たせ」
聞き覚えのある声に、ようやくゆっくりと顔を上げる。
そこには、首輪とリードを手にした陽子が立っていた。
「……取っておいたのよ」
陽子は首輪の金具を指先でつつきながら言った。
口元だけが、わずかに緩んでいる。
「捨てられなかったの。どうしても」
その首輪をひと目見ただけで、俊雄は息を呑んだ。
「……あの頃のままですね」
革についた小さな傷を見つめていると、陽子が一歩、こちらへ近づいた。
手にしていた首輪を持ち直し、俊雄の後ろへと回り込む。
「自分でつけるより、その方が早いでしょう?」
耳元で落ちた声に、俊雄の肩が小さく震えた。
冷たい金具が首筋に触れ、カチリと小さな音を立てる。
その音だけで、二十年前の夜がはっきりと形を取り戻していく気がした。
陽子は前に回り込むと、振り向いて俊雄を見下ろした。
四つん這いで見上げる俊雄の表情には、どこか期待の色がにじんでいる。
口元に、わずかな笑みを浮かべた。
「さあ、散歩の時間よ」
手にしたリードを軽く持ち上げ、会議室のドアノブに手をかける。
ドアが開くと、低くなった目線のせいか、見慣れたはずのフロアが未知の場所のように見えた。
照明だけが白く残り、並んだデスクと椅子が静かに影を落としている。
陽子は振り返らない。
リードをひと引きすると、俊雄は四つん這いのまま、その後をついて行った。
第一章 了
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