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桜前線が順調に北上してくれれば、あと一週間もすればこの辺りのソメイヨシノも一斉に蕾がほころび、長い冬の終わりを告げてくれるはずなのだ。
幾度も訪れた氷河期を乗り越え、ようやく就職できた新社会人たちのフレッシュなスーツ姿が、見慣れた町の風景に華を添えている。
春が終わって夏が過ぎると、短い秋の暮れに憂う間もなく厳しい冬がやって来る。
そうやって月日の流れのように自分も風化していけたなら、どんなに良いことか──。
歩道橋の上に佇み、自分の足下を通り抜けていく車両に目をやりながら、花井香純は思い詰めていた。手提げ袋の中には、買ったばかりの真っ赤な林檎が入っている。
ふとして視界のはじに人影が映り、ゆっくりとこちらに歩いて来るのがわかった。背広を着た背の高い紳士だった。
「まさか、そこから飛び降りるつもりじゃないですよね?」
真横から声をかけられた香純は、「そんなふうに見えました?」と和やかに微笑んだ。
相手の男も冗談ぽく口を曲げている。
「犯人、捕まえられそうですか?」
「ええ、あと少しで。あなたの協力もありましたからね」
「もしかして、藤川という刑事さんのことを言ってます?」
「彼の正体を暴くことができたのは、香純さんのおかげだと思っています」
「大げさですよ」と言って、香純はくすくすと笑った。
「彼は刑事ではありませんでした」
言いながら北条も香純とおなじく歩道橋下を眺めた。
「それに彼はもう、亡くなっています」
そう北条が告げた直後に、香純は数秒だけ息を止めた。言うべき台詞が見つからなかったからだ。
「自害に見せかけた他殺、我々はそう見ています。あなたにも少なからず思うところはあるでしょう」
刑事に言われ、数日前の藤川透の印象を香純は思い返した。
「まさか、あの藤川という男の人が、私の主人を?」
「その可能性は低いでしょう。我々が調べたところ、藤川透は犯罪組織の人間であることがわかりました。ですが、彼らは利益にならない仕事はしないはずなのです。つまり、何ら接点のない花井孝生氏に危害を加えたところで、そこに報酬は生まれない。警察に目をつけられるかも知れないという、リスクが残るだけなのです」
言った北条の隣で、香純はふたたび思い詰めた顔をした。
「藤川透が何故、命を落とさなければならなかったのか。そこには必ず理由があるはずなのです。あなたのご主人についても例外ではない」
「主人は他人から恨みを買うような人ではありません」
「近親者は誰でも皆そうおっしゃいます」
「それなら、どんな理由があると言うんですか?」
気に障ったふうに香純は刑事に言葉を投げかけた。
北条は香純のほうに正面を向け、「あなたのご主人も一人の男だったということです。もちろん、藤川透にも当てはまることですがね」と言った。
花井未亡人の横顔は美しく、また穏やかでもあった。その視線がゆっくりとこちらに注がれ、目と目が合った。
「こんなところでするような話ではありませんね。どこか別の場所へ行きませんか?」
「同感です」と北条は苦笑した。
「よろしければ、私がお茶を淹れますので」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
微妙な笑顔が交錯した。
おっとりしていながら、心の内に紅蓮の炎を秘めているような花井香純という女を、北条大祐(ほうじょうだいすけ)の裸眼が捕らえて放さなかった。
*
花井夫妻の邸宅の一画には、ちょうど車二台分くらいの駐車スペースがあり、そこに黒いワンボックスと白の軽自動車が停めてある。黒いほうが夫のもので、白いほうが自分のものだと、通り魔事件の直後に訪れた折に香純から聞かされていたのだ。
何かにつけて観察してしまうのが刑事の癖なのだと思いつつ、前を行く香純の清楚なシルエットを追うように、北条も花井家の玄関をくぐった。
それぞれが故人に線香をあげ、香純が買い物袋を提げてキッチンへ向かうと、少し遅れて北条も後につづいた。
「他人に中身を見られるのは恥ずかしいので」と冷蔵庫の前で香純が言った。
「それはどうも」と北条は一つ会釈し、仕方がないのでリビングのソファに腰を落ち着けることにした。上等な座り心地がした。
そして、どのような手順で話を進捗(しんちょく)していけばいいのかを、この短時間のうちに練り直していた。
「法事のときの残り物しかなくて、申し訳ありません」
香純はコーヒーカップとソーサーを北条の前に薦めた。
それに北条が笑顔で応じる。
彼の向かいに香純も座った。
ほんとうはブラックが飲みたいのだが──という本音を呑み込み、北条はクリームと砂糖が入ったそれを啜った。
「家の中に男の人がいるだけで、なんていうか、ずいぶん雰囲気が変わるもんですね。主人を亡くして、初めてそのことに気づきました」
「すみません。では外で話しますか?」
「いいんです。そんなつもりで言ったわけじゃありませんから」
何に照れるわけでもなく、香純は頬を紅くした。
ところで、と北条は話を切り出した。
「あなたのご主人は生前、ある女性と深い関係にあったようなのです。いわゆる不倫です」
それを聞いて、香純は逡巡する素振りを見せた。
「何かの間違いです」
「信じられないでしょうけど、これは事実です。そしてその女性のことを調べたところ、青峰由香里という名前が浮上してきました。じつは彼女、孝生さんが事件に遭った数日後に、早乙女町の公園で全裸姿で発見されたのです。幸いにも命は助かりましたが、衰弱するほど乱暴されていました」
「もしかして、主人のときとおなじ犯人が」
「我々もそう考えました。答えはすぐに出ました。おそらく犯人は、孝生さんと青峰由香里が淫らな関係にあったことを知っていて、それが自分にとって都合が悪い人物」
北条は相手の目を見据えた。香純の体が静止している。
「花井香純さん。あなたしかいないのです」
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