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1:祖母・昭子 その後
投稿者:
雄一
「凄い人ね…」
「だから近場の神社でいいといったのに」 「いいじゃない。あなたも私も東京っ子なのに、日本一の明治神宮に一度もお参りして ないんだから。それに…」 「え?何だって?」 「来年の雄ちゃんに栄光がありますように」 「栄光って?」 「東大の入学試験に合格しますようにって、日本一の神様にお願いするの」 「あ、あれはだな…ものの弾みでいっただけで…」 「だめっ。指切りして約束したんだから」 明治神宮の入り口から御社殿までの参道は、大晦日のこの夜、当然のように人、人、人 でごった返していた。 紀子に無理矢理誘われて、僕は彼女が言うように、まだ一度も来たことのない明治神宮 に来ていた。 一ヶ月ほど前、奥多摩の祖母の家で、初めて紀子を抱いた時、その後の寝物語で、 「俺、まだ将来の夢なんて何もないんだけど、何かのテッペンに立ってみたいから、東 大でも狙ってみようかな?」 と何の脈絡も、勿論、見込みもなしに、ぼそっと言ってしまったことを、紀子のほうが 真に受けてしまって、喜色満面の笑顔で僕に抱きついてきたことを、大晦日のこの日まで 引き摺ってきているのだ。 後で、冗談だよ、と何度も訂正と取り消しの言葉を言ったのだが、紀子はまるで聞く耳 を持とうとしなかった。 今夜のここへの参拝をいい出したのも紀子で、まるで大奥のお局にでもなったように、 僕に自宅まで迎えに来させ、人で混雑するに決まってる大晦日の、中央線から山手線の電 車内でも、人混みと痴漢から自分を守れと言ってきたり、言いたい放題、したい放題の有 様だった。 自惚れていうのではないが、紀子をほんとの女性にしてやったのは僕のほうで、もう少 ししおらしくなるのかと思っていたら、真逆の結果になってしまっていて、人生経験のま だ浅い僕は、女ってわからん、と思うしかなかった。 それにしても、この人の多さはまるで東京中の人が全部集まってきているような喧噪さ で、僕は早く退散したい思いで一杯だったが、紀子のほうは僕の片腕を両手で痛いくらい に掴み取ってきていて、 「お前、そんなにくっついてくるなよ」 とぼやきながら僕がいうと、 「恋人同士だからいいじゃん」 と悪戯っぽく白い歯を見せて笑ってくるだけだった。 少し前にあった紀子の両親の離婚問題も、不倫騒動を起こした父親のほうの全面的謝罪 を母親が、娘のためにと渋々ながら許諾したことで、元の鞘に戻ったようで、その頃は半 泣き状態だった紀子も、生来の小煩い小娘に完全復活していた。 紀子との東北への一泊旅行も滞りなく済ませていて、仙台のシテイホテルで、僕は彼女 とベッドを共にしていた。 僕の祖母のように、長い人生を経験を踏まえた官能的な深さは無論なかったが、清流の 川で弾け泳ぐ若鮎のように清々しさに、他の女性の時にはないような感動にまたしても取 り込まれ、早々の撃沈に陥っていた。 ひたすら陸上競技に打ち込んできている、紀子自身は自分の躍動的な身体の特性にはま だ気づいてはいないようで、 「私たちってまだ十六なのに、こんなことばかりしてたら、不純異性交遊か淫行罪で逮 捕されない?」 などと無邪気な顔をして言ってきたりするのだ。 押し競饅頭のような身動きできない人混みの中で、紀子は最後まで僕の腕を、両手で強 く掴み取ったまま、どうにか本殿の参拝所の前に辿り着き、僕は型通り五円玉を、紀子は と見ると、硬貨で一番大きい五百円玉を惜しげもなく投入していた。 騒然とした人の群れの声と熱気の中で、 「これ、私からの雄ちゃんへの投資だからね。これから受験勉強頑張ってね」 と横の何人かが振り返るような、大きな声を張り上げて言ってきた。 そう言われても、半分は口から出まかせで出た言葉だし、僕には自信の欠片すらなかっ たので、曖昧な笑顔を見せて曖昧に頷いてやるしかなかった。 大鳥居を抜けようやく境内の外に出ても、駅のほうから歩いてくる人の波は引きも切ら なかったが、僕はそこで奥多摩の祖母の顔を、はたと思い出した。 毎年のことだが、大晦日の新年のカウントダウン前後には、いつも祖母に電話をするの が僕の慣例になっていた。 スマホで時刻を見ると、零時に七分前だった。 「婆ちゃんに電話したい」 まだ僕の腕から手を放さずにいる、紀子に独り言のように言って周囲を見廻したが、ど こも蟻の群れのような人だかりで、静寂なスポットなどどこにもあるわけがなかった。 かまわずに、スマホの画面に祖母の番号を出し、発信ボタンを押すと、やはり一回のコ ールで祖母が出た。 「雄ちゃん…」 周囲の喧騒の中でも、祖母のもう泣き出しそうな声が、はっきりと聞こえた。 「婆ちゃん、今、明治神宮に来てる」 片方の耳を抑えて、僕も精一杯声を張り上げて祖母に言った。 横にいる紀子と初めて契りを交わした翌日に、雑貨屋の前の無人駅で言葉を交わして以 来、長い間、会ってはいない、祖母の色白で小さな顔が僕の脳裏に、懐かしくそして妙に 物悲しげに浮かんだ。 あの時は紀子も一緒だった。 二人はともに笑顔で言葉を交わしてはいたが、十六と六十代の女同士の瞬時の視線の交 錯に、鈍感な僕でも気づくくらいの、小さな火花のようなものが散っていたのを思い出し、 僕は思わず目を瞬かせた。 若い紀子はともかくも、年齢を重ねている祖母の女の勘は鋭い。 僕ら二人を駅で見送り、帰宅した祖母はきっと何かを嗅ぎ取るような、そんな気が僕は していた。 狭い歩道を歩く人だかりの中で、カウントダウンを叫ぶ声が合唱のように聞こえてきた。 「婆ちゃん、おめでとう!」 零時になった時、僕はありったけの声でスマホに口を寄せて叫び、横にいる紀子に目を 向けた。 紀子の少し大人ぶって化粧した、艶やかな顔がいきなり僕の顔の前に近づいてきて、周 囲の人だかりを気にもせず、大胆にも唇に唇を強く押し当ててきた。 耳に当てたスマホから、祖母のおめでとうの声がどうにか聞こえたが、紀子の思いがけ ない行動に、僕の気持ちは完全に奪われていた。 僕のマフラーの上に手を廻してきて、重なった唇は十秒近く離れなかった。 唇が離れてすぐに、 「冬休みの終わりに、また行くね」 と祖母に声を張り上げて言って、僕はスマホのオフボタンを、慌てた素振りで押して、 改めて紀子の顔を見た。 「おめでとう。これ私の新年のサービス。…それと」 「何…?」 「あなたのお婆ちゃんへの、小さなジェラシー」 歩道の雑多な流れの一部を止めるように、紀子は少し上気した顔で、僕を本気とも冗 談ともつかぬ顔で見つめてきていた。 祖母とのことについては、紀子には絶対に話せない、大きな秘密を抱えている僕は背 筋を少しヒヤリとさせながら、それでも普通の顔で彼女の目を見返した。 「年越し蕎麦食べよ」 紀子は明るい声でそう言って、まだまだ人通りの絶えない歩道を、原宿のほうに向か って歩き出した。 腕はしっかりと紀子の手で掴まれたままだった。 若者の街といわれる原宿は、普段の平日でも夜の更けるのは、遅いのが当たり前なの だが、大晦日のこの夜は、まさに老若男女を問わない人混みで、雑多なネオンも煌々と していて、元旦の日の出まで、この喧噪は続けっ放しになるのではないかと思えるくら いの賑やかさだった。 僕にミノムシのように、しっかりとくっついている紀子からの声も聞き取りにくく、 こちらも大声を出さないと、会話が成り立たない。 芋洗いの芋になって歩きながら、僕は虫と蛙の鳴き声しか聞こえない、、奥多摩の静 寂の夜をふいに思い出していた。 綿入れを着込んで、蜜柑の置かれた炬燵の前で、一人静かにテレビの紅白歌合戦を見 入っている、祖母の小さな顔が、僕の目の奥のほうに続いて浮かび出てきて、この冬休 みの最後には、絶対に奥多摩へ行こうと、横の紀子には内緒で、そう決心した。 この二日前の、二十九日の午後、僕は国語教師の沢村俶子の住むマンションにいた。 前日の夜、高校教師で三十五歳の俶子から、生徒で十六歳の僕に、相談事があるので、 昼前に自宅に来て欲しいとのメールが入っていたのだ。 (美味しいビーフシチューご馳走するから、明日のお昼前に来て) これまでにこのビーフシチューの誘いで、何回のに肉体労働を見返りに強いられてき たか憶えてないが、続いてのメール送信で、私の結婚のことで…と書かれていたので、 僕は「りょ」と返信して、今、俶子の家のリビングに座っていた。 「お話は食べてから」 そういって、俶子はデミグラスソースのいい匂いのする、ビーフシチューと野菜サラ ダの盛り合わせを目の前に置いてくれた。 年明けの月末に、俶子は隣の市で同じ教師をしている五つ年下の男性と、晴れて華燭 の典を挙げるのだ。 そのことは前から知らされていて、僕はこれまでの二人の関係を抜きにして、心から の祝いの言葉を言って祝福していた。 「私が高校の時の教頭先生の紹介で、昔風のお見合いみたいな場からお付き合いした んだけど、高校では化学を教えている人で、真面目一筋で、誰かさんみたいな戸っぽい 面が一つもなくて…面白味には欠けるけど、私もそうそう贅沢言える顔でも年齢でもな いし、この辺が年貢の治め時かなって思って、プロポーズ受けちゃったの」 口ではそういいながら、眼鏡の奥の目を艶っぽく緩めたりして、僕に話していたのは、 ついまだ最近のことだった。 「よかったじゃないですか。先生が幸せになってくれたら僕も嬉しい」 いつもと違う丁寧語で、僕は俶子に祝福の言葉を送った。 二人のこれまでの関係は、これで自然消滅ということになるのだったが、僕のほうに は何の拘りも未練がましい思いもなかったので、 「明日からは、沢村先生と一生徒に戻って、学校では仲良くしましょ」 といってやると、俶子は目から涙をぼろぼろと零して、 「そんなに明るくいわれると、逆にすごく寂しくなるじゃない」 といって眼鏡を外して、ハンカチで目を拭ってきた。 その俶子からの誘いが、目の間前のビーフシチューだったのだが、何故かあの時のよ うな、恥ずかしながらも嬉しそうだった表情ではないようだったので、 「何かあった?」 と目ざとく僕は尋ねた。 俶子の驚きの告白を聞くまで、多少の時間を要したが、話を聞いた僕も暫くは返答の しようがなかった。 結婚相手が今になってどうこうというのではなく、相手の父親の実の弟の顔を見て、 俶子は愕然としたというのだった。 俶子が大学を出て高校の国語教師として、最初に赴任した高校の先輩教師と、何かの 教育セミナーで県外へ一泊二日で出かけた時、新人の彼女に優しく接してくれ、それが きっかけで男女の関係に陥ったのが、今度結婚することになった相手の叔父になる人物 だったのだ。 叔父という男は、俶子と関係を持った時にはすでに結婚していて、聡子もそれを承知 で、何年も肉体関係を続けたということのようだった。 大学を出たばかりでまだ処女だった俶子に、男は縄で全身を縛り付けたりとか、蝋燭 を熱い蝋を身体に垂らしたりとかの、通常ではない行為で彼女を抱き続け、他にも野外 露出を強要したりとか、排尿や排便するところを見られたりと、恥ずかしいことを散々 に彼女の身体に沁み込ませた元凶のような男だった。 女を女として扱わない、冷徹な甚振りや辱めに、何度も止めてくれるよう懇願し、つ いには別れ話まで進展したのだが、それまでの恥ずかしい写真を種に、ずっと引き摺った その後に、その男は何の病気かは俶子にも記憶はないのだが、職場を休職し一年ほど 病院での入退院を繰り返し、交流は自然消滅のようになった。 それから何年か後、俶子はある男性と結婚をしたのだが、どういう因果なのか、その 男も彼女の最初の男と同じ異常な性嗜好で、俶子自身は、男というのはみんな同じ性嗜 好者であるという曲がった思い込みが観念的に、身体にも心にも宿りついてしまってい たということのようだった。 十日ほど前に、俶子は婚約者から家族と親戚一同が介した集合写真を見せられ、その 時に、自分の処女を捧げた、相手の男の顔を見つけてしまったのだと、聡子は顔面を少 し蒼白にして、僕に話してきたのだ。 婚約者にその男の今の素性を聞くと、現在は教職員を辞めて妻の父親が経営している 不動産会社に、専務という肩書で勤務しているとのことだった。 俶子にとって、自分の女としての人生を捻じ曲げた、淫獣のような男が身内にいると ころへ嫁いでいくのは、屈辱的な人身御供か、悪魔への生贄でしかないというのだった が、話を聞いた聞いた僕もその通りだと思った。 しかし、そのことを結婚式を一ヶ月後に控えた婚約者に、正直に告白する勇気は自分 にはないと俶子はいうのだったが、十六の僕には事情が重すぎて、何とも応える術も手 段も思い浮かばなかった。 見ると、俶子は自分の前に置いたビーフシチューを、一度も口に入れていないようだ った。 「いいの。まだ若いあなたに、どうにかしてもらおうなんて思ってないから…ただ、 誰かに聞いて欲しいと思ったら、あなたの顔しか思い浮かばなかっただけなの。気にし ないでね」 無理そうな笑顔を見せて、俶子は逆に重々しく顔を沈ませている僕を、歳の離れた姉 のような口調で、慰めるように言ってきた。 「で、でも、婚約者に黙ったまま結婚したとしても、きっと幸せな結婚生活にはなら ないと思うけど…」 正直な僕の気持ちを、僕は声を詰まらせながら、どうにか正直に言った。 「そうね、余計な不幸者をまた作ってしまうだけかもね。ありがとう、雄一君。いい 意見を言ってくれて…私のこと真剣に考えてくれてるのが、すごく嬉しい」 俶子のその声が、急に気丈な響きで聞こえてきたので、顔を上げると、 「あなたの助言で、私、決めたわ。これからもあなたの下部で生きてく」 と明るい声で言ってきた。 それもどうか、といおうと思ったが、その時は僕は喉の奥にぐっと詰め込んだ。 「あ、そうだ。あなた、東大目指すんだって?」 「えっ、だ、誰に?」 聞いた瞬間に、犯人が誰かすぐにわかった。 あのバカ、と腹の中で僕は舌打ちしていた。 「いいことよ、あなたなら一生懸命頑張ったら行けると思う。私も全面的に応援する からね」 「どうかな?…僕の学力は片輪みたいなものだから…」 「数学がまるで弱いもんね」 「弱いなんてもんじゃない。それにしても、あのクソバカ」 「いいじゃない。彼女、すっごい嬉しそうな顔していってたよ」 「女の口軽は最低だ」 「未来の奥さんになる人を、そんなに言うもんじゃないわ」 「えっ、そ、そんなことまで、あいつ」 ほどなくして、僕と俶子はいつもの決まりごとのように、彼女の室のベッドにいた。 どうしようもないお喋り娘への、僕の憤怒はまだ収まってはいなかったが、聡子のほ うは、僕との対話で気持ちがすっきり振り切れたのか、 「どこで誰と浮気してたのか、この僕ちゃんは」 聖職の人とは思えないような、艶めかしい目をこちらに向けてきていた。 着ていたセーターとスカートは、すでにカーペットの下に落ちて包まっている。 紺色のブラジャーと揃いのショーツが、僕自身も久しぶりに見る白い裸身に好対照に映 えて、若い僕の下腹部の一ヶ所に集中し始めていることを知らされていた。 「俺が欲しいか、叔母さん?」 僕は徐に俶子が仰向けになっているベッドに駆け上がり、その場で身に付けていた衣服 のすべてを脱ぎ晒して、両足を少し拡げて仁王立ちの姿勢をとった。 「叔母さん、そんなとこで偉そうに寝そべってんじゃないよ。お前の一番欲しいものに、 きちんと挨拶しろよ」 急に芝居がかった声で言う僕の意を理解したかのように、俶子も眼鏡の顔を真顔に引き 締めてきて、おずおずとした動作で上半身を、ベッドから起こしてきた。 どこでどういうスイッチが入ったのか、僕自身もわからないでいたが、俶子の身体への 嗜虐の衝動がどこからともなく湧き上がってきていた。 十六の自分よりも二十近くも年上のこの女には、何をしても許される、という妙な自惚 れめいたものが、聡子と知り合った頃から漠然とだがあった。 僕の二面性の性格の裏側にある、嗜虐の嗜好と、俶子のこれまでの、ある意味、不幸な 男性遍歴で知らぬ間に培われていた、被虐の思いが、歯車の歯が噛み合うように合致して いるのかも知れなかったが、とにかく僕自身が淫猥な気持ちになってくるのは事実だった。 ベッドに座り込んだ俶子の顔のすぐ前の、僕の下腹部のものはすでに半勃起状態になっ ていた。 俶子の両手がそこへ添えられてきて、間髪を置かず彼女の赤い唇が半開きになって、僕 の股間に迫ってきた。 濡れて生温かい感触が心地よかった。 俶子の身体を抱くのはいつ以来だろうと思い返しながら、僕は背中を少し屈めて、彼女 のブラジャーのホックを外しにかかっていた。 室には暖房が入っていて温かかったが、聡子の背中はそれだけではない汗のようなもの で肌は湿っていた。 僕の下腹部のものは、俶子の口の中で早くも臨戦態勢を整えていて、学校のグラウンド にある鉄棒のように固く屹立していた。 満を持した態勢で、僕は俶子の口から刀を抜くように、唾液でしとどに濡れそぼった屹 立を抜き、彼女の上体をベッドに押し倒し、小さな布地のショーツを一気に剥ぎ取り、熟 れて脂の乗り切った太腿を大きく押し広げて、自分の身体をその間に割り込ませた。 「ああっ…う、嬉しい!」 感極まったような声でいいながら、聡子は僕の両腕を両手でがっしと掴み取ってきた。 俶子の大きく拡げられた、股間の漆黒の下に目をやると、薄黒い肉襞が開いていて、そ の中の濃い桜色をした柔らかな肉が、滴り濡れているのがはっきりと見えた。 僕は固く怒張しきった自分のものに手を添え、狙いを定めるようにして、濃し全体を前 に押し進めた。 「あ、ああっ…す、すごい!…は、入ってきてるわ…ああっ」 久し振りに聞く俶子の咆哮の声は、室一杯に響くくらいに大きくけたたましかった。 僕の腕を掴み取っている彼女の手の指も、痙攣を起こした人のように強い力が込められ てきていた。 じわりと締め付けるような圧迫の間に、三十五歳の女の身体から発酵したねっとりとし た脂が潤滑油のようになって、俶子の胎内に僕のものは深く沈み込んだ。 僕の腰が動くと、その潤滑油は温みのある摩擦を、僕のものに心地のいい刺激となって 与えてきて、俶子は俶子で僕の腰の淫靡な動きに幾度となく呼応し、眼鏡の奥の目を瞬か せ、喘ぎと悶えの声を間断なく挙げ続けたのだった。 「は、恥ずかしい…こ、こんな」 「俶子の顔がしっかり見れるから、俺は好きだよ」 僕はベッドに胡坐座りをして、俶子と胸と胸を合わせて重なるように抱き合っていた。 俶子が汗に濡れそぼった裸身を晒して、僕の腰に跨り座っていて、重なった腰の下で、 列車の連結器のように、二人の身体は深く繋がっていた。 顔と顔が否応もなく触れ合い、相手の息遣いまではっきりと聞こえるほどに密着してい て、俶子の胸の膨らみの柔らかな感触が、汗に濡れた僕の胸に心地よく伝わってきていた。 「あ、あなたの汗の匂いって、いい匂い」 「俶子の女の匂いも、俺は好きだよ」 「わ、私って、悪い女?」 「どうして?」 「の、紀子さんのこと知ってて…こんな」 「そしたら、俺は大悪党だ」 「大悪党でも好き!…キスして」 お互いの歯と歯のぶつかる音が聞こえるくらいに、僕は唇を強く俶子の唇に重ねていっ た。 閉じた口の中に広がってくる、俶子の息が、燃え上った身体の熱の上昇を訴えるように、 ひどく熱っぽかった。 結果を先にいうと、国語教師の俶子とその教え子の僕との、身体の交わりはその日が最 後になった…。 続く
2023/06/01 13:19:07(.AwPQuri)
投稿者:
雄一
梅の花で有名な公園の近くにある、広い敷地の料亭だった。
一文字葺きの瓦屋根が、迷路のように入り組んだ平屋建ての建物を覆っていて、間口の広い 玄関から相手の指定した室まで、幾つの廊下を曲がったのかわからないくらいだった。 昨夜の夕刻、私は母の勤務する不動産会社に電話を入れ、横井副社長への、即刻の取次ぎを 申し入れた。 電話に出た女子社員にも、私の声の激昂的な声の激しさが伝わったのか、名前や用件の確認 もそこそこに、電話はすぐに副社長に繋がった。 私の激昂的な興奮ぶりとは裏腹に、副社長の横井の声はひどく鷹揚で落ち着き払っていた。 家からの固定電話ということもあって、私は母の屈辱と汚辱の日記で知り得た事実を、自ら の興奮を隠さないまま、ほとんど一方的にまくし立てた。 婦女暴行罪か人権蹂躙の罪で、警察的か司法的に訴えることもできると、興奮冷めやらぬ声 で叫ぶと、 「わかりました。その件につきましては、私も重々に反省しているところもありますので、 ついてはあなた様にも、面前でどうしてもお詫び申しあげたいので、今後のことにつきまして もぜひとも一度ご面会の場をお願い致したい」 と案に相違して、丁重な謝罪の言葉を、相手は落ち着いた口調で述べてきたのだ。 しかし、母が横井の不埒な姦計に嵌り、人里離れた軽井沢の山奥の別荘で、凌辱の限りを受 けたという事実を、私は忘れてはいなかったので、さらに二の矢三の矢で、横井を糾弾する言 葉を放つと、彼は突然、涙声になって、 「お母様には本当に申し訳ないことをしました。私もついつい権力を嵩に着てしまい、取り 返しのつかないことをしてしまったので、お金でどうこうとかのさもしい考えではなく、真摯 に娘さんであるあなた様の前で、衷心よりお詫びを申しあげたい」 と最初の時にもまして、真摯な涙声で訴えるように言ってきた。 大学を出たばかりで、教師になったとはいえ、世間のせの字も知らない私は、そこで狡猾な 横井の涙声に、脆くも籠絡させられ、その結果が、今日の私の料亭訪問だったのだ。 何度も廊下を折れて曲がり、渡り廊下のようなところを経由して、濃い化粧をした六十代く らいの仲居に案内された室に着くと、横井はまだ来てはいなかった。 三時という約束の時間より、私は十分ほど前に着いていたので、そのことはさして気にはな らなかった。 通された室は八畳の和室で、廊下側の障子戸以外は、三方とも襖戸で仕切られていた。 ほどなくして、先ほどの仲居が盆の上に、蓋のついた湯飲み茶碗載せて入ってきて、 「今、帳場のほうへ、ここへお訪ねの、横井様からお電話がありまして、車の交通事故に巻 き込まれてしまって、十五分ほど遅れるとのことでございます」 と事務的な報告をするように言って、座卓の上にお茶を置いて引き下がっていった。 仕方なく私は出されたお茶を飲んで、まだ陽の明るい障子戸のほうに目を向けた。 そして私の意識は、そこからぷっつりと途絶えた。 眠っている中で、私は夢を見ていた。 これまでに見たこともない、恥ずかしい夢だった。 映画の回想シーンででよくある、周りに白い霧のようなものが漂う中で、母の真美が大きなベ ッドの上で、私の知らない顔の男に、母の真美が抱かれていた。 日焼けした身体の男が、全裸で仰向けになった母の、白い肌に絡みつくように覆い被さってい た。 二人はお互いを愛おしみ合うように、唇を重ね合っていて、母の白い手が男の首に強く巻き付 いていた。 激しく淫靡に絡み合っている、母と男の横に、何故かリクルートスーツ姿の私がいた。 その私の背後に、もう一人顔の知らない男が座り込んでいて、両脇の下から腕を指し伸ばし、 私の胸をまさぐってきていた。 私は抵抗の素振りを何一つ見せず、顔も知らない男のされるがままになっていた。 母を抱いている男もそうだったが、私の乳房を卑猥にまさぐってきている男の顔は、私にはま るで見覚えのない顔で、夢の夢たる所以で、男たちの年齢すら定かではなかった。 淫靡な夢の画面が変わり、母が四つん這いにされて、その背後から男につらぬかれて、汗に濡 れ滴った顔を恍惚的に歪ませて喘いでいた。 夢の中のことで、母には私が見えていないようで、こちらからいくら呼んでも応答はなかった。 私のほうも、背後から伸びてきていた手で、スーツの上着を脱がされ、ブラウスのボタンを全 部外されていた。 男の手が露わになったブラジャーの上から、私の乳房をまさぐり出してきているのだが、何故 か抗いの素振りは一切見せず、男にされるがままになっていた。 私の目の前で男に背後からつらぬかれながら、といっても、私自身はまだ男性体験が、二十三 歳の今日まで一度もなかったので、そういう態勢での行為は知らないでいたのだが、母はこれま でに私には一度も見せたことのないような、何かの昂ぶりにうち震えるような表情を見せて、顔 を上気させて歪ませていた。 私もいつの間にか衣服をすべて脱がされ、母の横で男に覆い被さられていた。 顔も名前も知らなくて、年齢もわからない男に唇を塞がれたり、乳房を揉みしだかれたりして いたのだが、自分にその実感というものがなく、別の男につらぬかれている母の切なげな顔だけ が目に刻まれていた。 暗い茫洋とした中で、意識だけが先に戻った感じで、おぼつかないままの思考を巡らせると、 どうやら私は、柔らかい布団の上のようなところで、私は誰かにか、何かにか身体を揺すられて いるようだった。 最初に意識として感じたのはそれだった。 目を開けようとするのだが、首から頭にかけての神経が麻痺したように、自分の意思と力では 動かなくなっていた。 誰か、人らしいのが、私の身体の上に覆い被さってきているようだった。 何よりも私の朧な意識の中で、これまでの人生で、一度も体験したことのない異種異様な感覚 が、自分の胎内のどこかから湧き出てきている気がしていた。 もう一つ、自分の身体の下のほうにも、何かを突き刺されているような、意味のわからない感 覚が生じてきていた。 糊か接着剤でくっつけられたように開かなかった私の目が、時間の経過もあってか、突然に開 いた。 「き、きゃーっ」 驚愕と慄きの入り混じった叫び声を、私は挙げていた。 自分の置かれている、信じられない状況のすべてが、眼鏡を通して一気に私の目に飛び込んで きていて、私はおぞましい恐怖の坩堝に陥ってしまっていた。 自分の身体が全裸にされているのが、すぐにわかった。 布団の上に仰向けにされていて、大きく開かれた足の間に、見たこともない浅黒い顔の男が割 入ってきていて、裸の胸を見せて覆い被さってきていた。 「だ、誰?…あ、あなたは一体っ」 私は両手で拳を作って、男の胸を叩き続けながら、出るだけの声を振り絞って喚いた。 だが、強い睡眠薬でも飲まされたのか、何をされたのかわからない、私の身体の意識がすべて 正常に戻ってはいなかったようで、片頭痛のような重い痛みと、全身に力の入らない気だるさは、 まだ残っている感じがあって、すぐに息が詰まり、喚いているつもりの声もどこか途切れ途切れ になっている感じだった。 私に覆い被さっている、浅黒い肌をした男とは別に、もう一人男がいるようだった。 私の頭のほうで、上半身が裸になった、白髪の男が座り込んでいた。 夢の時と同じように、私には二人の顔に記憶はなかった。 だが大方の見当はついた。 私とここで会う約束をした、不動産会社の者たちだと直感した。 母を凌辱し続けている副社長というのが、私の頭の上で座り込んでいる白髪の男が、多分、そ の人物なのだろうと、私はもう一人の男に身体をつらぬかれながら確信した。 過日の電話では、私の母への不埒不遜でおぞましい行為を、娘の私に心底から悔いているよう に、涙声まで出して、詫びを入れたいと申し出ていたのは、全くの虚偽で、最初から私を母と同 じように、凌辱の憂き目に遭わそうという魂胆であったことを、私はそこで初めて知らされたの だった。 その副社長の横井という男の狡猾さは、母の日記でわかりすぎるくらいに、わかっていたはず なのに、社会経験のまだほとんどないと言っていい、私は甘々とした性善説に乗ってしまい、つ い横井の涙声を真に受けて、一人でのこのことここに来たことを、強く後悔したのだが、この屈 辱の事態になってはどうすることもできなかった。 「この娘さん、やはりバージンだっただけあって、いい締まりしてますね」 「うむ、そうだな。母親のほうも、旦那しか知らなかったみたいで、あまり使っていなかった らしく、あの歳でも締りはいいぞ」 「そうですか。この子、私が二人目ってこと知ってるんですかね?」 「ふふ、あの母親の血を引いてたらおもしろいがな。おい、見ろ。もういい顔の表情になって きてるぞ」 二人の男が私の頭の上で、意味のわからない、下品そうな口調で喋り合っていた。 その頃には、私自身も、浅黒い肌をした三十代くらいの男に、間違いなく犯されているのはわ かっていた。 自分の下腹部の胎内に、男のものが異物感としてはっきりあったのだ。 同時に、私の身体か気持ちのどこかに、この状況下では起こりうるはずのない、熱を帯びた心 地よさのようなものが、意思とは関係なく、危険そうな火を灯し出してきていることを、私は気 づかされていた。 私に覆い被さってきている男の身体が、下から突き刺すような動きをするたびに、私の身体か 心のどこかに灯った、危険な火の勢いを大きくし始めているのを私は知った。 「あ、ああっ…お、お願い、や、止めて」 男の胸をどうにかして跳ね除けようとしていた私の手が、気づかぬうちに男の二の腕を掴み取 っていた。 堤防に空いた小さな穴が、流れくる水の浸食で、その穴を次第に大きくしていき、最後には決 壊の憂き目に遭うような、得体の知れない怖気を、私は感じながら、それでも歯を食いしばって、 男の手を払い除けようとした。 「ああっ…」 堪えきれない声が、私の口から漏れ出た。 内心で私自身が驚くような、妖しい余韻を残すような声だった。 男二人が顔を見合わせて、ほくそ笑んでいるのが朧に見えた。 全身に感じ出した不穏な心地の良さが、徐々に進化してきて、起きるはずのない快感的な思い が、私の心の中を席巻し始めてきていることで、思いがけないように狼狽と戸惑いの感情が湧き 出てきていた。 そんな私の動揺をまるで見透かしたかのように、男の顔が私の顔のすぐ前に近づけてきていた が、私の抗いの意思表示は、力弱く顔を左右に振ることだけだった。 強く持っていたはずの、卑劣な男たちへの拒絶の意思が、その意に反して、風に吹かれた蝋燭 の火のように、消えかかろうとしていることを私は知って、さらに狼狽と戸惑いの気持ちが大き くなってきていた。 私にのしかかっている男の顔が、私の鼻先にまで近づいてきていたが、私にできることは涙に 濡れた顔を力なく横に振るだけだった。 男の薄い唇が私の唇を苦もなく捉え、緩い力で塞いできた。 キス、というこの行為自体も、私には初体験の出来事で、恥ずかしいことなのかどうか、映画 やテレビドラマで観る表面的な浅い知識しか、私にはなかった。。 塞がれた口の中で、男の舌が私の歯をこじ開けようとしてきた時、それだけで私は目を大きく見 開き、眼鏡越しに間近に見える男の顔を睨みつけていた。 本能的に私は歯を固く閉じ、男の舌の侵入を阻んでいた。 結果的にその、時、慌てふためいていたのは私だけのようで、男は舌の先で私の歯を、まるで恋 人にでもしているかのように、執拗に舐め廻してきていた。 それよりも少し前から、男の片方の手が、私の剥き出しにされた乳房を、強弱をつけた力加減で 丹念に揉みしだいてきていて、そこからの快感に似たような奇妙な感覚にも、私は戸惑いの気持ち を大きくしていた。 「ふふ、お前のそういうしつこさが、女を悦ばせるんだな。さすがだ。娘さんの顔がいい表情に 変わってきた」 間近で胡坐座りをして、好奇な目で覗き込んでいた、副社長の横井と思しき男が、感心したよう な顔で言ってきているのが聞こえた。 顔を左右に振り続け、男の唇からどうにかしてにげようとしていた私だったが、横井の言葉通り に、下腹部への執拗なつらぬきのせいか、身体にも気持ちにも、何か自分が自分でなくなってきて いるような、錯覚的な思いに囚われだしてきていて、意思とか理性といった思考が、道に落ちるよ うに降って溶けていく雪のように霞んでいくのがわかった。 唇を長く塞がれて、息が苦しくなってきたせいもあって、口の中で私の歯と歯の間が少し開いた。 そこを逃すことなく、男の舌が素早く侵入してきて、喉の近くまで潜めていた私の舌は苦もなく 捉えられた。 恥ずかしい告白になるが、そこからの私は、これまでの二十三年間の自分の人生を、全否定する かのように、まるで別人の性格を持った人間になり下がってしまい、初めて顔を合わしたばかりの 男二人の、おぞましく欲情的な毒牙の前に、脆くも屈してしまい、男性経験の一度もなかったにも 拘わらず、生身の女としてのめくるめくような、喘ぎと悶えの境地の坩堝に嵌め落とされてしまっ たのだった。 糸の切れた凧か箍の外れた蝶番のように、私の身体は、いや、身体だけではなく心までが、その 男たち二人によって、未知の奈落へ引き摺り込まれてしまったのだ。 学校で学び教えられてきた道徳心とか、人としての理性心が、木っ端微塵に吹き飛ばされたので ある。 どれくらいの時間が経っているのかわからなかったが、私を下から突き刺してきている男の顔が、 私の鼻先近くにきていて、煙草臭い息が私の頬にかかってきていた。 「お嬢さん、おしっこでもしたかい?すごい濡れようだよ」 男がそういって、また私の唇を塞ぎにきた時、私の歯はもう閉じてはいなかった。 口の中で、私は自分から舌を男の舌に差し出していた。 身体の下から突き上がってくる刺激のある快感に、私は屈服の思いを舌で男に告げた。 もうここまできて、自分の逃げ道はどこにもないと観念したように、私は男の前に身も心も委ね た。 女として初めて感じる、官能的な快感の渦に、もっと溺れたいと私は思っていた。 やがて男の責めに激しくなった。 私の身体を横向けにして、片方の足を高く持ち上げてつらぬいてきたり、四つん這いに這わして 激しく突き立ててきたりした。 そのどれもに私は大きな咆哮の声を挙げて、淫らな反応を繰り返し、最後には名前も素性も知ら ない男に向かって、 「ああっ…き、気持ちいい…し、死にそう」 とか、 「好きっ、好きよっ」 とかの喜悦の極致のような声を発し、男の引き締まった背中にしがみついていたのだ。 男の呻き声を聞くか聞かないかの時くらいに、私は自分の意識が遠のいていくのを感じた。 「今日のことは、最初から全部ビデオ撮影してある。あんたを、最初に抱いたのは儂だよ。処女 だったとはな。でもやっぱり血は争えんもんだな。よがり方や身体の反応の仕方は、母親そっくり だよ。肌の匂いまで一緒だった。ま、どちらにしても、これからは母子二人で儂に尽くすことだ」 横井はそれだけの捨て台詞を残して、自分だけそそくさと室を出て行った。 化粧の異様に濃かった、年増の仲居が持ってきたお茶の中に、睡眠薬が入れられていて、何の疑 いもなく私はそれを飲み、意識を完全に失くした。 ほどなくして、横井が秘書のような男とやってきて、私を別室に連れ込み、意識のない私を横井 が最初に犯した。 私がこれまで一度も見たことのない、淫夢を見たというのも、横井からの凌辱が、その素地にな っていたのは間違いなかった。 横井の秘書としてついてきた男は、自分から黒井と名乗って、 「副社長のいう通り、あんたの母親もそうだったが、二人には相当な淫乱性があるぜ。そのこと をあんたも母親も、知らずに生きてきただけなんだよ。これから、あの副社長にじっくりと磨いて もらうこったな。ああ、下手な動きすると、このビデオ、母親が観ることになるからな」 二番煎じのように秘書の黒井も、捨て台詞のように笑いながら言って、室を出て行った。 一人、悄然と取り残された私は、虚ろな眼差しのまま、自分の人生の終焉だと、その時は思った。 しかし、母のことを思うと、死、という短絡的な結論は、私には出せなかった。 母もそうなのかも知れなかったが、私も悪魔のような男たちに犯されながら、悲しいことに、最 後には、憎悪と嫌悪しかない男たちに迎合して、自らの意思でもあるかのように、はしたなくしが みついてしまっていたのだ。 秘書の黒井がいい残していった、あんたら親子には、自分たちの知らない淫乱の血が流れている、 という言葉が、私の心の中に深く突き刺さって残っていた…。 続く
23/07/14 18:01
(YHU/GU7G)
投稿者:
雄一
学校の昼休み、この前とは逆に、僕が紀子の教室を訪ね、奥の階段の踊り場に呼び出した。
明日の土曜日に、紀子が友達二人を連れて奥多摩へ行く前日だった。 「すまん、俺、婆ちゃんの帽子家に忘れてきた」 後ろをついてきた紀子を振り返り、両手を拝み合わせて、僕は思いきり頭を下げた。 僕の母が祖母のために編んだ毛糸の帽子を、前に僕が奥多摩へ出かけた時、バッグに入れて いって渡すのを忘れたので、明日、奥多摩へ出かける紀子に、渡してもらう約束だったのを、 僕がまた家に忘れてきたことを、平身低頭で詫びを入れたのだ。 「で、どうすんの?」 さもありなんという、微かに蔑んだ目で、紀子が聞いてきたので、 「お前、部活、何時に終わる?」 奥歯を小さく噛んで、僕は縋る目で問い返した。 「四時半」 「俺、家に帰ってとんぼ返りするから、どこかで待ち合わせて…」 僕の言葉を遮って、待ってましたというような口調で、 「雄ちゃんがいつも降りる駅裏にね、パスタとピザの美味しい店オープンしたの知ってる?」 と嬉しそうな笑みを浮かべて言ってきた。 「あ、ああ、クラスの女子どもが言ってた」 「そこで待ってる」 紀子はしてやったりの表情だった。 月末で財布の中身が少し心配だったが、自分で蒔いた種だと僕は諦めた。 「ちょうどよかった。ちょっと相談乗ってほしいこともあるし」 そういって、紀子は何かの勝負に勝ったように、スキップを踏んで戻っていった。 帰宅部の本領発揮で、放課後、一番に校門を出た僕は真っすぐ帰宅し、紙袋に入れた祖母の 帽子を持って、ジーンズとダウンジャケットに着替えて、もう一回家を出た。 駅前のアンダーパスを潜って、坂道を上がり切った正面に、周辺の景色とは異質な感じのイ タリア色丸出しの派手な外装の店が見えた。 去年の年末にオープンしたばかりで、学校の生徒の評判では、色々な野菜を細かく刻んで、 本場のチーズをたっぷり載せた、ピザが美味しいとのことだったが、残念ながら僕は名前を知 らなかった。 店内も外装と同じでイタリア色満載で、客は六割程度の入りで、若い女性客が大半だった。 店の一番奥の、窓に面したテーブルの前で、紺色の丈の長いダウンジャケットを脱いでいる 紀子が見えた。 今、着いたばかりのようで、後ろに束ねた長い髪を揺らせながら、こちらのほうに顔を向け て座り込み、すぐに僕に気づき、白い歯を目一杯見せて両手を大袈裟に振ってきた。 ごく時折だが、僕でもどきりとするような、十六歳の少女らしくない妖艶な表情を見せるこ とのある紀子だったが、今は小学生みたいな、色気も何もない無邪気な笑ってきている。 僕は先に祖母への届け物の紙袋を渡してから、 「何か食べるか?」 と少し気の進まないような声で言うと、 「ミックスベジタブル、ビッグ」 とハナから決め込んでいたように紀子は、メニュー表も見ずに言ってきた。 飲み物も忘れず、緑のソーダ水の上に果物が零れるほど載ったもので、 「このビッグピザ、とてつもなく大きいから半分こしよ」 とまるで自分が奢るような口調で言ってきた。 「で、何だい、お前の相談って?」 お互いにピザが最後の一切れになった時、紀子に目を向けて聞いた。 「え?…あ、ああ、大したことじゃないんだけど…」 言うのをやめようか、どうしようか、という思案顔になって、紀子は小さくはにかんだ。 「何だよ。誰か好きな人でもできたっていうような顔して」 「え?そんな顔してる?…やだ」 勿体ぶった末、紀子が告白したのは、僕の最初の問いかけの逆パターンのようなことで、今年、 卒業していく三年生の男子の一人から、思いも寄らない交際の申し込みをされて、少し弱ってる、 ということだった。 「へぇ、モテる女は違うね」 冗談口調を交えて最初は聞いていたのだが、話を詰めて聞くと、相手はかなり真剣で、誰に聞 いたのか紀子の電話番号やメアドを知っていて、相当な頻度で連絡してきたので、彼女ははっき りと交際申し込みを断り、電話もメールも着信拒否にしますと宣言したにも拘わらず、この頃は 部活をしているところを、遠くから見に来ていたり、学校の登下校の時も意味もなく尾行された りして、最近は少し怖い思いをしているとのことだった。 「何て奴かわかってんの?」 さすがに僕も真剣な声で尋ねると、二年、三年と生徒会の書記をしていた三村則夫という人物 だと紀子は言った。 僕はその人物は、顔だけぼんやり憶えているだけで、学校では一度も喋ったことはなかったが、 関西の京都大学への入学が決まっているとのことのようだった。 髪を真ん中で分けて、アスパラみたいにヒョロリとした体型で、色白の優男風の男だったよう な気がしたが、父親がどこかの銀行の取締役をしているそうで、紀子に最初の頃に着ていたメー ルでは、自分は京都大学へ行くので、君もぜひ、出来れば京大か、京都近辺の大学を受験してほ しい、と独りよがりで身勝手な文言を送ってきていたとのことだ。 学校では男子生徒相手でも、ズケズケと意見を言ったりして、怖いもの知らずだと思っていた 紀子も、この三村という一年先輩の男子からの、まるでストーカーまがいのアタックには手を焼 いているというか、少々怖気づいてる感じだった。 「来週で俺がケリつけてやるよ。だから安心して、奥多摩行ってこい」 頭では全然思ってもいない言葉を、僕は言ってしまっていた。 紀子のほうも少し驚いたような目で、僕を見つめてきた。 引っ込みのつかない言葉を言ってしまって、心の中でしまったと思っていた僕を、紀子がうっ とりした顔で見てきていたので、 「まぁ、自分の彼女に手を出されて、知らないふりしてたら、男の沽券にも拘わるからな」 とまたいわずもがなの台詞を、僕は言ってしまった。 「あなた、喧嘩もあまり強くなさそうだから、無茶なことしないでね」 あてにされているのか、期待されていないのか、わからない言葉を紀子は臆面もなく言ってき たが、目が嬉しそうに笑っていたので、文句は言わないでおいてやった。 財布に二百五十円しか残らなかったが、どうにか食事代は払えて店を出ると、紀子は駅裏にも ある改札口に行かず、僕が帰るアンダーパスの道を、片腕を痛いくらいに掴み取って、僕に密着 して歩いてきた。 「痛いよ、お前。改札口、そこだぜ?」 手を振り払おうとすると、 「表まで恋人歩きしてあげる」 「いいよ、誰かに見られるぞ」 「恋人同士なんだからいいじゃない。それに…」 「それに何だい?」 「私のこと、一番に思ってくれてるのわかったから」 「そんなこと、俺、言ったか」 「目が言ってた。嬉しかったわ」 べたべたとしがみついてきていた、紀子を駅表で見送って家までの道を歩いていると、つい最近 にスマホに登録したばかりの番号から電話が入った。 人通りの少ない路地に入って電話に出ると、まだ聞き覚えのあるあの野太い声が聞こえてきた。 「明日の君の来訪だがね。すまんが、午後の六時にしてくれんか?もっと早い時間にと考えてい たんだが、大学で野暮な会議が急に入ってね。その代わり、家の近所にある鰻屋の特上丼をご馳走 するから、ぜひそうしてくれたまえ」 「あ、ああ、お忙しいんだったら、僕は別の日でもかまいませんよ」 「そうもいかんのだよ、君。君の話をじっくり聞いた後、奥多摩の、高明寺だったかな?そこへ 行ってあの古文書を借り受けてこなければならん。家に泊まっていってもらってもいいから、すま んがよろしく頼む」 ほとんど一方通行みたいに、会話は忙しなく終わっていた。 家に帰ると、父が早く帰ってくるといって、母は夕食作りに大わらわだった。 久し振りに三人での夕食の時、母のほうを向いて、 「明日の夜さ、夕食はいらないからね」 というと、 「どこへ夜遊びに行くの?」 とそっけなく言われたので、早稲田大学の歴史学の教授の家に、去年の奥多摩の平家伝説の件で 興味持たれて、詳しく話を聞きたいと招待されたと言うと、父親のほうが横から口を挟んできて、 「雄一、その教授って、もしかしたら栗田教授っていう人じゃないのか?」 と聞いてきた。 「父さん、知ってるの?」 訝りの表情で問い返すと、そこから暫く、父の独演会みたいになり、栗田教授のこれまでの経歴 を延々と喋り続けたのだった。 栗田教授は、歴史学会では異端児みたいな人で、特に日本の室町時代から江戸時代までの、有名 な歴史上の人物は勿論、これまでの通説とされてきた出来事に、独自の綿密な調査研究を基に、特 異な理論を投げかけて、その類の書物を何冊も出しているという有名人だと言って、そんな人のメ ガネにかかったという僕を、珍しく褒めそやしてきた。 「父さんも歴史学には多少同慶が深くてな。教授の本を何冊か買って読んでるが、調査が緻密で な、読んでいるとほんとにそうかもな、と思わされるところが一杯ある。そんな先生のお招きを受 けるなんてめったにないことだぞ」 父は嬉しそうにそういって、母に手土産をそこそこ失礼のないものを買っておくようにと、箸を 振り廻していいつける始末だった。 「雄一は知ってるか?あの先生の奥さんって、一昔か二昔前には絶世の美人女優と呼ばれた吉野 百合子っていう人なんだぞ。結婚してからは一度も、表舞台には出てきてないけど、古い映画を観 ると多くの作品に出てて、父さんたちのマドンナみたいな女優さんだったなぁ」 母のほうは呆れたような顔をして、父の話を聞いていたが、僕は僕で単純に明日の楽しみが一つ できたと思って、わかったようなわからないような顔をして聞いていた。 自分の室に戻り、ノートパソコンに、吉野百合子の名前を打ち出すと、十以上ものアプリが出て きて、当時のポートレートが幾つも出てきた。 父が口角泡を飛ばして言うだけのことがあるくらいに、十六の僕から見ても、ほおっと頷いてし まうほどの美人だった。 長い髪を肩まで垂らし、真っ白な肌と黒い瞳が際立つ切れ長の目、かたちよく透き通った鼻筋と、 赤い口紅が輪郭をさらにはっきりさせた唇が、何か人恋し気に薄く開いて、奇麗すぎる歯並びの白 い歯が今にも何かを話しかけてきそうな雰囲気を湛えていて、触れただけで折れそうなくらいの細 い顎が、清純にも、また妖艶にも見える。 九州の熊本県の出身で、今の年齢は五十七歳のようだ。 十年ほど前の体型データを見ると、身長百六十三センチで、体重は四十六キロとなっている。 歌劇団を経て女優の道に入ってからは、ずっとスター街道を歩み続けていて、幾多の有名男優と の浮き名も数限りなくあったという。 僕なりの穿った目で見ると、全体の雰囲気というか、顔や目の表情が、奥多摩の祖母に何となく 似ている感じだったので、個人的には普通よりも三倍か五倍以上の好感が持てた。 明日の僕の標的は、歴史学の有名人より、忽然と銀幕から消えたと言われる元女優に向けられそ うな予感があった…。 続く
23/07/15 21:35
(wzTRDSWS)
投稿者:
雄一
土曜日の朝、九時過ぎに起きてリビングに下りていくと、父が一人でテーブルに座って
コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。 おはようと声をかけて、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出して、一口 飲むと、 「ああ、おはよう。母さんは今、隣に回覧廻しに行った。隣の奥さんとは仲いいから、 暫くは帰らんぞ」 新聞に向けていた目を僕に向けてそういって、 「今日の栗田先生とこ行ったら、粗相のないようにな。ほんとはお父さんも一緒に行き たいところだ」 満更、冗談でもないような言ってきた。 「先生に会うのがいいの?それとも元女優さん?」 「バカ、親をからかうんじゃない。ま、いい話聞けたら、また聞かせてくれ」 そういって父は椅子から立ち上がって玄関に向かっていた。 白のポロシャツに、派手な格子柄のブレザーとコットンパンツ姿で、行き先はゴルフの 打ちっ放しとすぐにわかった。 父のいう通り回覧を届に行った、母の帰宅は当分なさそうだったので、一人でトースト でパンを焼き、牛乳を飲んでいたら、テーブルに置いていたスマホが、メール着信の振動 を伝えてきた。 紀子からだった。 (おはよう。電車の中。いい天気。友達大喜び。昨日のピザのお礼に、雄ちゃんちに向 けて投げキッス) しっかりしているようで、紀子の頭の中は中学二年のような幼いようだ。 夕方まで所在なく家でぶらぶらしていた。 俶子から届いている未読メールは、今日は何故か読む気になれず、昼過ぎに思い切って 電話を入れてみた。 結婚式前日で、準備やら人との応対があったりして、多分、出てはもらえないだろうと 思っていたのだが、二回のコールで出たので、逆に僕のほうが慌ててしまい、思わず言葉 を失くしていた。 「もしもし、雄一君?」 「あ、ああ、忙しいと思ってたんで、少しびっくりした」 「ううん、今は家で一人よ。…嬉しい」 俶子はもう泣き声になっていた。 「おめでとうって言っていいんだろ?」 つとめて冷静を装って僕は聞いた。 「ありがとう。これも運命だから。ウエイデイングドレス着て、地獄へ行くんじゃない から」 「だよね。メール読ませてもらってるけど、まだ途中でごめん」 正直に言って僕は詫びた。 「ああいうメール送れるの、あなたしかいないから、逆にごめんね。タイミングのいい 時に電話くれて、正直な気持ちを聞かせてくれる、あなたが、ほんとに好き」 「何もお祝いあげれなくて、もう一回、ごめん」 「この電話が何よりのプレゼントよ、ありがとうね」 「結婚する人に言う言葉じゃないけど、俺は忘れてないし、忘れないからね」 「泣いちゃいそう」 「じゃ」 地下鉄の九段下駅を降りて、靖国神社の裏側に向かうと、それなりに歴史のありそうな 一塊りの住宅区域が見えてきて、その塊りの真ん中ぐらいに、重厚な板塀に囲まれて瓦葺 きの門扉のある、敷地の広そうな、栗田教授の家はあった。 門の横の栗田という表札を二度ほど確認して、僕は喉の奥に唾を一つ飲み込んで、イン ターホンのボタンを押した。 約束の六時に五分ほど前だっったが、インターホンから電話で聴いた野太い声が聞こえ てきたので、僕は少し安心して名前を名乗った。 「おお、上野君か、待っとったぞ。門を開けて入ってきてくれ」 母が買ってきてくれた、どこかの銘菓店の手土産を下げて、木造りの門を開けてはいる と、石畳の通路が間口の広い玄関まで伸びていた。 建物は延べ坪数も相当にある木造二階建てで、重厚そうな日本瓦と、焦げ茶色に塗られ た押し縁下見板に包まれていて、大正か昭和の初め頃に建てられたような、荘厳さが僕に もわかるくらいだった。 二間ほどの間口の玄関の横は、猫の額ほどの我が家の貧相な庭が、五つほども入りそう な広さで、凝った庭石や池もあったりして、何もかもに圧倒された気分で玄関の前に立つ と、引き違いの腰高硝子戸が、中のほうから静かに開いた。 「いらっしゃいませ」 とうやうやしく頭を下げ、挨拶の言葉を言ってきたのは、白地に紫の花柄模様の入った 着物姿の、見るからに容姿端麗な女性だった。 長そうな黒髪をアップにして、白くて細いうなじを覗かせていて、憂いを含んだような 優し気でやや伏し目がちの眼差しに、驚くような妖艶さを漂わせている。 ほっそりとした顔の色が雪のように白く、赤い唇が際立って映えて見え、僕の息が一瞬 止まったようになった。 多分、栗田教授の夫人に違いない妙齢のその夫人が顔を上げ、痴呆のようになっていた はずの僕の顔を見つめてきた時、澄み切った黒い瞳が、小魚が急に跳ねて方向転換したよ うに揺れ動いたのが見えた。 何年も会っていない知己の人に会ったような、小さな驚きの表情だったが、無論、僕に は間違いなく初対面の人である。 夫人はすぐに表情を戻して、玄関前に声を失くして立ち尽くしているだけの僕に、細い 手の指を指し出すようにして、 「どうぞ」 と奇麗な声で、中へ招き入れてくれた。 足を少しもつれさせながら、広い玄関口に入った僕は、僕は少し吃音的な口調で自分の 名を名乗って、靴を脱ぎ上がり込んだ。 くすんだような木目模様の内装の、広くて奥行きのある廊下を夫人に案内されて、右側 のドアを開けて中へ入ると、十畳以上の広さのある応接間があり、ガラステーブルの三方 に、ふわりと柔らかく膨れ上がったようなソファが置かれていて、その横は五、六人が座 れるダイニングテーブルがある。 建物の外観とはまるで違う、洋風の内装になっていて、壁に添うように置かれている家 具類も、外国風の洒落た落ち着きのあるデザインになっている。 帰宅して間もないところだったのか、上着を脱いで蝶ネクタイにワイシャツ姿の、小太 りで丸い体型をした、栗田教授がハンカチで忙しなげに顔を拭きながら、ダイニングテー ブルに座り込んでいた。 テーブルの上には、何本かの赤いバラを差し込んだ花瓶が置かれていて、教授の前とそ の対面に黒い長方形の鰻重が置かれていた。 「やあ、よく来てくれた。この室はちょっと暑いが、外は寒かったろ?何にしても先に 飯だ。おい」 栗田教授は言いながら、殿様然とした顔で、ダイニングの奥でお茶の用意をしている夫 人のほうに顔を向けた。 僕と教授にお茶の用意をしている夫人に、教授はぞんざいな口調で、僕のことを改めて 紹介してくれた。 「ほら、この前、儂が話したろ?十六の若者とは思えないくらいの視点で、古い歴史の 小さな一端を上手く書く奴がいるって。それがこの子だ」 鰻の蒲焼が二層に敷かれた重箱を手に持って、腹を空かせた子供が掻き込むように頬張 りながら、教授が喋るのをテーブルの隅に座って、夫人は何度も頷いたり、小さな笑みを 浮かべたりして、言葉を挟むことなく聞いていた。 夫人の座った場所が、僕から椅子を一つ置いたところだったので、鰻のタレの匂いに混 じって、エアコンの風のせいもあったのか、時折、ひどくいい匂いが僕の鼻先を擽ってき ていた。 僕の自惚れか思い過ごしかも知れなかったが、元女優の夫人の目が、必要以上に何度も 僕に向けられていそうな、その時、そんな気がした。 美味しい鰻重をご馳走になり、食後のコーヒーを出された時、 「そうだ、色々と君の意見や話を聞きたいから、今夜はここに泊っていきなさい」 ととんでもないことを言い出した。 勿論、僕は固辞したが、 「君が書いていた、あの平家伝説で壇ノ浦で入水死した、平宗盛の弟の知盛のまだ幼か った隠し子を連れて、奥多摩の山地まで逃げ延びた武士が、書き遺したという日記をあそ こまで奇麗な純愛物語にした、君のそれこそ隠れた才能に、私は心底惚れ込んだんだよ。 おい、百合子、そういうことにしたから、よろしく頼む」 と嫌も応もなく、勝手に話を進められ、僕は仕方なく、自分の家にその旨を連絡した。 その時、電話に出たのは父で、嬉しそうな羨ましそうな声で了解の返答をしてきた。 それからすぐに、僕は応接室の隣にある教授の書斎へ連れ込まれ、三時間以上も幽閉さ れ、源平合戦のあれこれや、さらに遡って源氏と平家の争いの、そもそもの発端まで聞か される羽目になってしまったのだ。 僕の書いたレポートは、源平のそんな入り組んだ話などではなく、三十代そこそこで世 を去った平知盛の隠し子が、成長して奥多摩に長く住み、村の娘と為さぬ恋に落ち、奥多 摩山地の大岳山の崖で、手を取り合って身投げ自殺をしたと、寺の古文書を勝手に歪曲し て、ほとんど憶測だけで書いただけのものである。 教授のほうは、その悲恋の二人の間に生まれていた子供がいて、途絶えたと言われてい た平家の血筋が、今の世まで脈々と生き続いていると、正しく口角泡を飛ばして言ってく るのだったが、僕のほうが逆に冷静になって、 「先生、僕のほうは、はっきり言って完全な創作ですよ。子供が生まれたとか、そんな ことはあの古文書には、何も書かれてないんですよ」 と諫めることもあったりした。 一度だけ、書斎のドアがノックされて、夫人がコーヒーとショートケーキを運び入れて くれた。 そのわずかな時間の間でも、夫人が夫にはわからないような仕草で、僕に意味ありげな 視線を向けてきていたのを、僕は気づいていた。 教授の講釈と熱弁から解放されたのは十時過ぎだった。 僕の寝室は二階の八畳の客間があてがわれ、我が家の風呂より二倍以上も広い浴室に浸 かって客間へ入ると、中央に大きな布団が敷かれ、スタンドと水差しが整然と置かれてい た。 教授たちは、一階の書斎の奥にある寝室に寝るようだった。 布団に入り暫くして、僕はそういえばこの家に来てから、スマホを弄っていないことに 気づき、壁に掛けた服のポケットを探ってみたのだが、スマホはなく、ズボンのポケット を探してもないことに気づき、すぐに思い出した。 書斎で教授と長く話し込んだ時、平家の何かをネットで調べようとして手に持って、そ のまま椅子の横にあった、サイドテーブルの上に置き忘れてきたことを思い出したのだ。 柱の時計に目をやると、十一時を過ぎていた。 自分の家なら何の躊躇もなく下に降りて、スマホを取りに行けるのだが、初めての、そ れもまだそれほどの面識もない他人の家で、こそこそと動き廻るのは、さすがに僕も気が 刺したが、どうにも落ち着かない気持ちだったので、もう少し、時間をやり過ごして、教 授夫婦らが寝静まってからにしようと決めて、布団に仰向けになっていた。 柱の時計が十二時を過ぎたところで、僕は布団から起き出して、階段に続く廊下の戸を 静かに開けた。 廊下も階段も真っ暗だったので、僕は壁を伝い忍び足を潜ませながら階段をゆっくりと 降りた。 広くて奥の深い廊下に出る。 暗い中をさらに足を忍ばせて、書斎のドアの前まで行く。 ドアノブを掴んで廻すと、施錠はされていなかった。 それこそ抜き足差し足で、暗い室に入っていくと、寝室に続くドアが少し開いていて、 そこから灯りの線が書斎に入ってきていた。 小さな胸騒ぎを感じながら、灯りの漏れているドアのほうへ身体を進めると、ピシッと 鞭を打つような音が突然聞こえてきて、 「お、お願いですっ、奥、奥様、も、もっと私をぶってください」 という悲鳴のような、男のダミ声が、僕の耳に飛び込んできた。 間違いなく栗田教授の声だ。 鞭の音が続いて響いてきた。 「ああっ…き、気持ちいいですっ、お、奥様っ」 胸を昂らせながら、僕は灯りの漏れ出ているドアに近づいて、全身を竦めるようにして、 恐る恐る隙間から覗き込んだ。 洋間の室で、広いベッドが壁に沿って見えた。 素っ裸になった栗田教授の身体が、ドアのほうに剥き出しの臀部を突き上げるようにして、 晒しているのが見えた。 手が後ろに廻され手錠のようなものを嵌められていた。 赤い襦袢を着た細身の女性が、教授の真後ろに立っていて、片方の手に焦げ茶色の革製の、 鞭のようなものを持って、一定の間隔を置いて、栗田教授の臀部や背中を容赦なく打ちすえて いた。 こちらに背中を向けている、赤い襦袢の女性の顔は見えなかったが、長い髪をアップにした 姿から、教授夫人の百合子に違いないと僕は確信した。 「ああ、お、奥様…も、もっと、もっと私を虐めてください」 ベッドに異様な態勢で顔を伏せている、栗田教授の顔は見えないが、鞭を打たれるたびに快 感に酔い痴れるような淫猥な声が、間断なく漏れ聞こえてきていた。 「どスケベ親父、今度はどこ?」 そう聞こえてきた声は、百合子夫人の声に間違いなかった。 僕は驚きをひた隠しながら、ドアの傍に腰を下ろしながら、視線をベッドに集中させた。 豪放磊落な感じだった栗田教授が、奴隷になったような声を挙げ続け、そして元女優の気品 の高さと、しとやかさしか感じなかった、百合子夫人の二人が下卑た声音を出したりと、まる で予想もしていなかった成り行きだった。 去年の夏休み以来の、僕の種々の性の体験が生きているのか、驚きは確かにあったが、それ ほどの動揺も戸惑いも感じることなく、自分でも不思議なくらいに僕は対処できていた。 「お、お尻を…お、犯してください」 「お尻?…ふん、そんな汚いお尻を私に触れっていうの?」 「お、お願いです、い、いつものように…は、恥ずかしく犯してください」 「ふん、しようのない、ど、スケベ親父ね」 百合子が身体を屈めて、ベッドの横の棚から、何かの器具を取り出した。 黒い色をしたシリコン製の、誰が見ても男のものを模したとわかる、大人用の玩具で、普通 の人間のものよりも、太さもあり、長さもあった。 顔がこちらには見えないまま、赤い襦袢の女は、手に取ったそのものを自分の顔の前に翳し たかと思うと、ふん、と蔑んだような小さな鼻息を吐いて、剥き出しになっている栗田教授の 臀部に突き刺すように当てがっていった。 小さなモーター音が聞こえてきた。 襦袢の女の持ったものの先端が、妖しげに蠢き出したのが見えた。 「ああっ…お、奥様…う、嬉しい」 夕食の後、書斎に僕を引き入れて、平家伝説の何たるかを滔々と喋り続けた、教授の磊落な 面影はどこにもない、淫猥に満ちた声が、ドアの隙間を通して僕の耳にはっきりと聞こえてき ていた。 赤い襦袢の女、教授夫人の百合子と断言してもいいが、彼女が手にした黒いシリコンの玩具 は、すでにその先端を臀部の尻穴に何センチかめり込んでいた。 教授の男とは思えないような、下卑た悶えの声だけが耳に入ってきている。 「ああ、き、気持ちいいです…も、もっと恥ずかしい言葉を」 シリコン製の卑猥な器具を、剥き出しの弛んだ臀部の尻穴に突き刺されて、ぜいぜいと息を 吐きながら、教授は我を忘れたように悶え狂っているようだった。 「どこが、どこがいいの?」 今も顔が見えない夫人の、食事時に僕の横に座り、慎ましげに微笑んだりしてきていた、気 品に満ちた表情からは、少し想像できないような棘のある言葉に、僕はまた驚きを大きくして いた。 「あ、あなたの奴隷の…よ、汚れたお尻が」 「あんたみたいな、下品な奴隷なんていらないわよ」 百合子夫人の、投げ捨てるような声を聞いていて、僕の何かよくわからない、直感めいたも のがふいに頭を擡げた。 夫である教授を、辱めて虐げている声には違いなかったが、僕にはそれは本心からではない ような気がした。 もしかするとだが、歪んだ被虐性癖の旺盛な栗田教授が、強制的にそうさせているのではな いか、という疑問が僕に湧いたのだ。 異常ではあるといえ、愛する夫の嗜好のために、元女優の経験で嗜虐的な女として演技をし ているのでは、と僕は自分勝手に思ったのである。 今日の夕刻、玄関先で初めて百合子夫人に会って、僕の頭に直感的に駆け巡ったのは、この 人は被虐の人だという思いだった。 これまでの僕の少ない経験でいうなら、僕の祖母と、尼僧の綾子に似た感慨を、直感的に持 ったのだった。 栗田教授の、およそ学者らしくない、豪放磊落な気性と風貌からは想像もできなかった、驚 きの性癖を図らずも目の当たりにした僕だったが、それだからといって教授への嫌悪の気持ち が、特段に削がれたというのでもなかった。 自分自身の性格の二面性と同じで、人には人それぞれのスタイルがあっていいと、自己弁護 ではなく僕はそう思っているのだ。 二人の行為を最後まで見ることなく、僕は足音を忍ばせて書斎の室から退散した。 布団の中で目を閉じると、頭の中に百合子夫人の赤い襦袢の背中が、何度も浮かんできたが、 端麗な顔はいつまでも見えないままだった。 あくる朝、目を覚まして服を着替えて下に降りていくと、洋装姿の百合子夫人一人がダイニ ングキッチンで、忙しなげに動き廻っていた。 昨日はアップにしていた長い髪を後ろに束ねて、白のセーターに赤い花柄のスカートに水色 のエプロン姿だ。 しなやかそうな細い身体にフィットしたセーターとエプロンの、胸の辺りの膨らみが美しい 曲線を描いているのが、僕の目を少し大きくしていた。 「おはようございます」 と夫人の背中に挨拶の言葉をかけると、彼女は驚いたように振り返ってきて、 「ああ、おはようございます。どうぞ、そちらに」 と少し気恥ずかしそうな笑みを浮かべて、ダイニングのテーブルを手で指してきた。 テーブルには朝食の用意が出来上がっていて、夫人が湯気の立つ味噌汁を盆に載せてキッチ ンを出てきた。 壁に掛かっている時計を見ると、八時過ぎだった。 椅子に座り、僕が周囲を窺うような目をすると、 「ごめんなさい、主人はもう出かけてしまいましたの。今日はゼミの学生たちと静岡のほう に行くとか言って、七時半に出て行きました。あなたによろしくとのことでした」 我が家の朝食とはまるで違って、皿がいくつも並んでいるのに驚きながら、 「こちらこそ、何も知らなかったことを幾つも教えて頂いて、ありがたかったです」 そういいながら夫人のほうに目を向けると、色白のやや彫りの深い感じの顔の、輪郭のはっ きりとした赤い口紅が、最初に僕の印象に残り、その流れで何故か、昨夜の赤い襦袢が頭に浮 かんできて、僕は思わず狼狽していた。 暖房の効いた室の空気が動いたのか、百合子夫人の座っているところから、昨日と同じ花の 香りのような匂いが僕の鼻孔に漂ってきた。 二杯目のお代わりをした僕を、夫人は嬉しそうな笑みを浮かべて見つめてきていた。 味噌汁を啜った後、僕は何げない顔で、 「そういえば昨日初めてお会いした時、僕の顔を見て、少し驚かれたような表情をされてい たみたいに思ったんですけど、何かありました?」 そう聞くと、今度は夫人の顔のほうがうっすらと赤らみ、目を下に俯けた。 長い睫毛を何度も瞬かせて、テーブルに置いた手の、白魚のような細い指を忙しなげに組ん だりしてきていた。 「あ、あのね。あなたが…わ、私が幼い頃から知ってる人に、そっくりだったの」 夫人がその言葉を発するまで、二十秒近くはかかったと思う。 「あ、そうなんですか。こ、光栄だな、大女優の人の知り合いに似ているって言われて」 五十代半ばの妙齢の夫人が、十六のヒヨコの、ませた口を聞く僕に心を許したように、遠い 過去を懐かしむように訥々と話を聞かせてくれた。 夫人が今の僕と同じ年代の頃、同じ学校に通う一学年下の男子と、淡い恋中関係になって楽 しい時を過ごしたことがあるという。 その一学年下の男子は、顔も背格好も今の僕と、まるで生き写しのようだったので、最初の 対面の時に驚いてしまったとのことだ。 しかし、その男子生徒との淡い夢のような交際は、一年と続かなかったと、夫人は少し涙目 になって、悲しげな声で話した。 健康な身体だったその男子が、学校の体育の時間に突然倒れ、救急車で病院に運ばれた時に はもう絶命していたということで、突発性の脳梗塞による動脈破裂ということだった。 それを聞かされた時の、夫人の悲しみと絶望は、誰に話しても真に理解はしてもらえないく らいに大きかったという。 「彼が亡くなる前日にね、私たちデートしててね、隣町にある小さな山に登山してたの。平 日に二人とも、学校ずる休みして、お弁当を頂上で一緒に食べた時、とても美味しかった。そ したら彼がね、突然私に抱きついてきてキスしてきたの。勿論、初めてよ。私、驚いて少し逃 げてしまったんだけど、気持ち的には許してもいいかな、と思ってたんで、身体の力を抜いた 時にね、頂上に駆け上がってきた登山グループが現れて、それで、そのまま立ち消えになって しまって…そのあくる日の突然の訃報だったから、悲しみと昨日の登山の時の後悔で胸が一杯 になってしまって…」 そう話した夫人の切れ長の目の端に、涙の粒がはっきり見えた。 「悲しいけどいい思い出ですね。…僕でよかったら」 と一度、僕は言葉を切って、 「その思い出を、ここで再現してみませんか?」 と、とんでもないことを僕は口走ってしまっていた。 無論、意図して出た言葉ではなく、口が勝手に喋ってしまっていたのだ。 夫人が昔好きだった男性に、僕がそっくりだということで、すっかり気持ちを緩めて話して きている表情や仕草を、僕は何か違う目で見ていたようだった。 僕自身の性格の、裏面が出てきているような気がした。 夫人の声を聞いていて、どういうわけか、何度か奥多摩の祖母と尼僧の綾子の顔が浮かんで きていたのだ。 それまで涙を美しく滲ませていた、百合子夫人の色白の顔に、驚きとも戸惑いともつかぬ表 情が浮かんでいた。 僕の口から勝手に出てしまっていた言葉の意味を、百合子夫人がどう解釈したのか、正確に はわからなかったが、僕の究極的な意図にはどうやら気づいたみたいで、色白の顔に見る間に 赤みが差してきていた。 「役不足は承知ですが、そんなに僕があなたの恋人に似ているのだったら、あなたの恋人に 喜んでなります」 いわずもがなの言葉が、まるで何かの箍が外れたように、自制も効かず、次々と僕の口から 出ていた。 もうノンストップだと、僕は決心して、徐に椅子から立って、夫人の傍に近づいた。 テーブルの上には、朝食の茶碗や皿が散在したままだった。 近づいた僕のほうに、慄いたように慌てて顔を向けてきた、夫人の唇を、僕は身体を折り曲 げて自分の唇で塞ぎにいった。 夫人のほうの目は大きく見開いていたが、手で強く払い除けてくるとか、椅子から立ち上が ってくるということはなかった。 もし、百合子夫人にここで強く拒絶されたら、それはそれで自分の思い違いで済ますつもり でいた。 赤い唇の柔らかな感触だけ確かめるようにして、十秒足らずで、僕のほうから唇を離した。 「寝室は書斎の向こうだったか?」 夫人の額に自分の額を当てて、僕はわかっていることを聞いた。 黙ったまま夫人は、細い顎を頷かせてきた…。 続く った後、僕は応接間の隣にある教授の書斎に連れ込まれた。 、
23/07/20 13:14
(BjulJAtf)
投稿者:
(無名)
続きが楽しみです!!
女優さんって、どんな味がするのでしょうく?!
23/07/21 13:26
(CH0clKmD)
投稿者:
虎
登場人物の性格 外見で露見させない性のベクトル 相反する行動性
描写が大変と想いますが何卒随筆お願い致します ジキルとハイド人間には両面が存在します 楽しみにしております
23/07/21 17:21
(BSu6KGOC)
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