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1:果葬(かそう)
投稿者:
いちむらさそり
1
◇ あのとき、白雪姫が口にした真っ赤な毒林檎は、彼女の味覚にどのような疑念を抱かせたのだろうか。 ただ甘いだけの口あたりではなかったはずだ。 小気味良い歯触りの果肉に仕組まれた、おそろしく陰湿な気配を感じながらも、咀嚼(そしゃく)を止めることができなかったのかもしれない。 果たして彼女は自ら毒を摂取し、しんと降り積もる雪のような深い眠りに落ちたあと、思わぬ接吻で目覚めることになるのだ。 けれども私にはわかる。彼女は最初から彼の唇を、心を奪うつもりで、魔女の呪(まじな)いを利用したにすぎないのだと。 色恋に狂った女々しい体を慰めることができるのは、セックスシンボル以外には考えが及ばなかったのだろう。 ほんとうは男女の性交こそが毒だということを疑いもしない、なんて可哀想な姫なのかしら──。 そんなふうに取り留めのない妄想に耽ったまま、花井香純(はないかすみ)は冷蔵庫の扉を開け放ち、その火照った頬に冷気の流れを感じていた。 もうさっきからずっとおなじ姿勢を崩すことなく、左手に乗せた林檎の様子を眺めては、ごくりと生唾を飲み込む仕草に終始しているのだ。 真っ赤に熟した果実は手に余るほど重く、その内部に甘い蜜を分泌させているのが容易に想像できた。 そしてまた喉が鳴る。 二十八歳になったばかりの女は、後ろ髪の結った部分をふうわりと片手でなおし、一呼吸おいて、艶めかしく濡れる唇を林檎の表面に重ねた。 あ、あん──と喘ぎたい気持ちがほんとうになると、息のかかるその接点からは、たちまち卑猥な吐息が漏れはじめる。 そしてただ一口、さくりと歯を立て、あとはもう勢いにまかせて下顎をしゃくった。 もうじき、官能が舌にひろがっていくだろう。 うっとりと瞼を閉じ、二度、三度と噛みほぐしていくと、そこから溢れ出す果汁が口のはじから垂れ、やがて下唇から顎の輪郭をつたって滴り落ちた。 香純は陶酔していた。体のあちこちが種火のようにくすぶり、あわよくば、いますぐにでも慰めに先走りたいと思っている。 女がこれでは始末が悪い。 けれどもどうにもできない恨めしさが、あと一寸のところで理性を働かせているのだ。 毒でもいいから、とにかく楽になりたい、快楽が欲しい──そんな欲求に促され、二口目をかぶりつこうというとき、冷蔵庫の半ドアを知らせるアラームが鳴った。 はっと我に返る香純。 気づけば林檎の蜜が、首から胸元までをぬらぬらと汚していた。 それが誰の仕業なのかがわかると、喪服のおはしょりを丁寧になおし、ハンカチで胸元を拭った。 いけない。買い忘れたものがあったんだ──。 このところの眠れない夜のせいで痩せてしまった頬に、ふたたび体温が灯った。 ひっそりと広い家の中は、女独りきりではなにかと心細く、懐かしい生活音さえ聞こえてこない。 キッチンの隣は十畳ほどの和室になっており、いまは急ごしらえの仏間にさせているのだ。 あちらとこちらを仕切る引き戸の隙間へ目をやれば、亡き人の遺影が無言のまま鎮座して見えていた。 「こんなことになってしまって、ごめんなさい。孝生(たかお)さん」 ほとんど唇を動かさないで、香純は遺影に向かって独り言を呟いた。 そうしてかるく身支度を済ませると、線香の残り香をたなびかせながら家を出た。 ◇
2013/04/16 22:22:43(rIDFYmeq)
投稿者:
いちむらさそり
6
◇ 藤川透は、居心地わるそうに苦い顔をくり返していた。上からの指示とはいえ、自分一人をここへ来させたことに対し、なんて身勝手で不公平な人選なのだろう、と不満を感じていたからだ。 とはいえ、いまテーブルを挟んで向き合っている相手は、全身に憂いを纏ったとびきりの美人なのである。 いつか信号待ちのときに見かけた美しい女が、こうして自分の目の前にいる。 「あのう、ええと、花井香純さん。あなたのご主人、孝生さんのことについて、いくつか質問させてください」 藤川は生唾を飲み込みながら、露骨に動揺を見せていた。 「私のわかることでしたら」 香純は伏し目がちにそう応えた。そしてティーカップに手を伸ばし、ロイヤルミルクティーで喉を潤した。 ここは女性客が多いことで有名な喫茶店のため、平日の今日、こうやってコーヒーを飲んでいる男性客は藤川一人だった。 「ご主人を亡くされたばかりだというのにお呼び立てして、どうもすみません」 「いいえ、そんな。私としても、主人をあんなふうにした犯人を、一日も早く捕まえて欲しいのです」 このときになっても、香純は顔を上げようとはしなかった。その視線はテーブルに注がれている。 「その犯人についてですけど、そういう人物に誰か心当たりはありませんか?」 「心当たり、ですか」 「ええ。例えばそうですね。ご主人の周辺で、あなた以外の女性の気配があったのかどうか、という意味ですけど」 藤川のこの問いに、香純は即答できないでいた。 微かに半開きになった口元に、花井未亡人の白い前歯が見えた。 「なければないで、そう言っていただければ結構です」 「私の知る限り、あの人は女性にだらしない性格ではなかったように思います」 「それじゃあ、金銭的なトラブルは抱えていませんでしたか?」 「ありません」 そこで香純は鼻の下に指を添え、ぐすっと鼻を鳴らし、恥ずかしそうにお辞儀した。 植物のように優美なその仕草は、藤川の脳に鮮烈な印象をあたえた。 「花粉症を患っているので」 と彼女から告白され、藤川はようやく自分の誤解に気づく。泣いていたわけじゃないことを知り、安堵とともに鼻息をついた。 「我々もこういう仕事をしていると、人に嫌われることのほうが多くて。そのあたりはご容赦ください」 藤川がなめらかにそう言うと、水を得た草花のように香純がゆっくりと顔を上げる。そして相手の目を真っ直ぐ見つめ、 「藤川さんは、優しい方なんですね」 と微笑んだ。 今日初めて目を合わせたこの瞬間、藤川は口の中に甘酸っぱいものを感じた。心拍数が急激に上がっていくのがわかる。 「えっと、話を戻しましょうか」 心の内を見透かされる前に、藤川は慌てて目を逸らせた。 「私、怖いんです」 香純の細い声がした。 藤川がそちらに目を向けると、 「あたりまえに有ったものが欠けてしまって、心寂しいというか、物足りない感じがするんです」 と香純が訴えかけてくる。その気持ちは藤川にもよくわかった。 「女性が独りで暮らしていくとなると、何かと心細いでしょうね」 「はい。両親も早くに亡くしていますので、いまは頼るところがなくて」 香純は一度、目を伏せた。睫毛の束が下を向くと、その長さがいっそう際立つ。 こんなふうに対座しているだけで、いよいよ大人しくしていられなくなる予感がして、藤川は話を切り上げようと手帳を閉じた。 「もうご存知かと思いますが、じつは昨日、早乙女町の公園でちょっとした事件がありまして」 喋りだした紳士の話に興味を示し、香純は頷いた。 「あなたとおなじくらいの年齢の女性が、そこに棄ててあったごみ袋の中から全裸の姿で発見されています。しかも彼女、どうやら強姦された後だったようです」 「知ってます」 香純の瞳に軽蔑の色が浮かぶ。 「夜に外出しなきゃいけないことだってあるでしょうから、花井さん、あなたも気をつけたほうがいい」 言いながら藤川は下心を隠していた。 「いいんです」 と香純は言った。 「どうせ私なんかが襲われたって、気にかけてくれる人は誰もいませんから」 「いけません!」 藤川は声を上げた。客の何人かがこちらを注目している。 「すみません、大声を出してしまって。けど、あなたがそんなことを言ってはいけない。これからあなたはご主人の分まで、ちゃんと生きて行かなきゃならない。自分を粗末にしないでください。少なくとも俺は、あなたという人間に興味があります。だから叱ります」 失礼します、という台詞を置いて、藤川は席を立った。 一人残された香純は、空になった目の前の椅子を茫然と見つめていた。 * レジで支払いを済ませて店を出ると、いきなり頭上から冷たいものが降ってきた。傘を持ち合わせていないことに気づき、藤川はしかめっ面で空を仰いだ。 まったく、雨が降るなんて聞いてないぞ。これだから雨男は困る──。 彼は自虐に浸った。するとその頭に黒い傘がそっと差し出され、 「風邪、ひいちゃいますよ」 と背後で声がした。振り返るのが躊躇われるほど、その声には誘惑の甘みが漂っていた。 藤川はゆっくりとした動作で、体をそちらに向けた。彼の期待した通りの美しい未亡人が佇んでいた。 雨はまだ降り始めたばかりらしく、傘を打つ音にも激しさがない。 じっと見つめ合ったまま黙り込む二人。 やがて、重要なことを告げようとしている香純の雰囲気を察して、藤川は半歩だけ前へ出た。そして香純の紅い唇に注目していると、そこからとんでもない事実が漏らされた。 「私、じつは………………なんです」 こんなときに限って、春雷による稲光と雷鳴が、ごうごうと辺りを包み込んでしまった。 それをきっかけに雨足は強まり、しだいにアスファルトを煙らせていく。 しかし藤川は確かに聞いた。花井香純という女がほんとうに言いたかった、その言葉を。 ◇
13/04/20 00:13
(QTZ2gF8d)
投稿者:
いちむらさそり
7
◇ 神楽町で起きた通り魔事件では、花井孝生という警備員の男性が殺害された。 早乙女町で起きた強姦事件では、青峰由香里という主婦が被害に遭っている。 それぞれの町で起きたこの二つの事件に共通点はない──。 北条にとって、これは一種の賭けであった。刑事の直感とも言えるかもしれない。 双方の現場の位置関係が近距離にあること、発生日時が近いこと、たったこれだけの材料で決めつけてしまうわけにはいかないが、二つの事件はきっとどこかで繋がっているのだと彼は睨んでいた。 だとしたら、その犯人はいったい誰なのか。山積している課題を地道に調べ上げていけば、おのずと解答は得られるはずなのだ。 通り魔事件の現場となった路上に彼は立っていた。アスファルトを掘り起こした跡があちこちにあり、キルト生地を縫い合わせるようにして四角く舗装されている。 それは北条の目から見ても、けして丁寧な仕事とは思えなかった。 花井氏が刺されたとみられる夜の十一時頃に、その付近で犯人らしき人物を目撃したという女性がいた。警察にその一報が入ったのは、事件発覚からおよそ一時間後のことだった。 彼女の証言によれば、自分はちょうど帰宅途中で、現場方向へ歩いていたところ、不審な人物とすれ違ったと言う。 不審な点は二つあった。 一つは、その人物は上下とも黒い服装をしていて、夜中に出歩くにはふさわしくない恰好だったこと。 そしてもう一つ、黒い折りたたみ傘のような物を所持していたことだ。事件当夜は雨など降っていなかったのだ。 また、性別などもわからないと付け加えていた。 その人物が犯人かどうかは不明だが、重要参考人としてマークする必要がありそうだと北条は思った。 「おっとっと」 彼がそんなふうにひょうきんな声を発したのは、内ポケットの携帯電話が震えだしたからだ。相手の番号を確認した上で、北条は電話に出た。 「もしもし、北条です。……ええ、……そろそろあなたから連絡が来るだろうと思っていたところです。……はい、……やはりそうでしたか。……ご協力、ありがとうございました」 電話の相手に礼を述べると、北条はすぐに手帳へ何かを書き加えた。その流れで閉じた手帳で今度は、ぱしん、と手のひらをしっぺ打ちした。 余白のページが数行埋まったことにより、少しだけ重みが増したようにも感じる。 いや、気のせいか──。 そうやっておどける刑事の耳の奥に、先ほどの電話でやりとりした女の声が、まるで蜘蛛の巣のようにねっとりと絡まっていた。 ◇
13/04/20 23:14
(QTZ2gF8d)
投稿者:
いちむらさそり
8
◇ 林檎に毒を盛った魔女と、まんまとそれを利用した白雪姫。いまの自分の中には、果たしてどちらの『女』が存在しているのだろうか──。 通話を終えたばかりの携帯電話をダイニングテーブルに置き、香純は悩ましくため息をついた。発信履歴には『北条』と表示されている。 夫を亡くしてからというもの、自分を取り巻く環境は目まぐるしく変化しているというのに、その中心にいる自分だけが取り残されているようで、香純は言いようのない孤独を感じていた。 通夜や告別式こそ気丈に振る舞っていたのだが、初七日法要を終えた頃になると、夫の遺骨を前に物思いに耽ることが多くなっていた。 この現実を受け入れるには、もうしばらく時間が必要な気がした。 「あなたはもういないのですね」 香純は呟きながら遺影の正面に立ち、ゆっくりと両膝を折っていく。そして線香をあげて合掌すると、すうっと立ち上がり、両肩を抱きすくめるようにして着衣を脱ぎ落とした。 黒のワンピースの次に、おなじく黒いスリップを、ついには黒で揃えた下着をするりと脱いでしまった。色白の裸体の足元で、黒い衣がとぐろを巻いている。 「この痣(あざ)が消えてなくなったとしても、あの頃の私にはもう戻れない。せっかく女として生まれてこれたのに、こんな体、誰も愛してくれないでしょう」 そう言いながら香純は自分の腹部に視線を流し、そこに残る醜い痣を指でなぞった。赤紫色のそれは、ちょうど林檎大くらいのまるい形を浮き上がらせている。 痛くも痒くもないが、一生消えることはないと医師からも告げられていた。忘れたくても忘れられない忌まわしい記憶が、香純の美しい皮膚に寄生しているのだ。 涙は、遠いむかしに置いてきたつもりだった。こんなふうに裸体を晒すことに抵抗を感じなくなるまで、どれくらいの時間を費やしただろう。 それを思うと、抑えていた感情が涙となってぽろぽろと溢れ出してきた。と同時に、膣に微熱を感じる。 濡れている──香純はそう思った。指先の感覚だけで確かめてみると、ほんとうに濡れていた。 家には自分独りきりなのだ。今ここで、秘め事を楽しみたいと思っている。 喪に服した身でありながら、香純は畳の上に寝そべり、両膝を立てて開脚した。そしてその中心にある皮膚の花びらへ右手を伸ばし、左手で乳房をむずむずとまさぐった。 さっきよりも息が荒くなってきている。指の腹で乳首をころがすと、そこは銀杏みたいに硬かった。それでいて快感が詰まっている。 あっ、と反応する自分の声に恥じらいながらも、下半身の割れ目を容赦なくこねくりまわす。 ぴちゃぴちゃと音をたてる指と陰唇、ときどきクリトリス。莢豌豆(さやえんどう)の豆を剥き出し、甘い刺激をあたえた。 しだいに敏感になって、神経が毛羽立っていくような感覚を知る。上唇と下唇とをすり合わせ、うっとりと目を閉じると、実体のない人影に犯されている場面を想像した。 執念深い指使いが、体中を這いずりまわる舌の動きが、凶暴な男性器から注がれる歪んだ欲望が、香純のイメージ通りに快感を浴びせてくる。 強姦された暗い過去は封印したはずなのに、妄想の中の自分は、その禁断の味に悦びを感じているのだ。 憎たらしい男を受け入れることで、女の部分を満たし喘いでいる。 狂っている──香純はそう自嘲した。家の外に出れば貞淑な良妻の顔を通しているけれど、こんなふうに人目を遮断してしまえば、あとはもう行き着くところまでどこまでも堕落していくのだ。 気がつけば三本もの指が膣を出入りしていた。動きは大人しめでありながら、得られる快感は果てしなく、病的なまでに身を滅ぼしていく。 気持ちが良すぎて、しんでしまいそう──。 香純は身を起こした。そして膣から指を引き抜き、白濁の糸を引いたそれを口にふくみ、味わうようにしゃぶる。そこでも糸が垂れた。 体の芯が物足りなさで疼いていた。火照りが冷めないうちにその足で玄関に向かい、棚に飾られた民芸品を物色した。 ふとして靴脱ぎの先に目をやると、そこには紳士用の履き物があった。夫である孝生のものだ。 その靴を履いてこちらを振り返る孝生の姿が目に浮かぶが、香純はすぐにその光景を払拭し、民芸品の一つを手に取った。自慰のつづきを、これに頼るつもりなのだ。 香純はしばらく手の中で、その『こけし』を可愛がるように扱った。 それに飽きると今度は玄関ドアを正面にして立ち、片足を壁にかけ、片手で反対側の壁を支えにいく。利き手には『こけし』が握られている。 昼下がりに乱れ散る哀れな未亡人のことを覗き見る者はいない。それでもドアの向こうに人の気配を期待しながら、香純は『こけし』を握りなおし、調わない呼吸に肩で息をする。 ここが入れるタイミング──そう思った瞬間、香純のおもちゃは鈍い音をたてて、膣深くにまで埋没した。 はあああ、と長い吐息で緊張を抜く。そうして『こけし』を握った手をひくひくと動かせば、極まった快感が膣と脳とをつないで痺れさせた。 爪先にまで力が込もっているせいで、微かに指先が白い。 知らず知らず込み上げてくる声は、いやらしいピンク色に染まって耳にとどく。 湿る肌、猥褻な唇、揺さぶられる乳房、あらゆる部位が無防備に露出している。 もしもこの姿が人目に触れたなら、自分はあっという間に絶頂へ達してしまうだろうと香純は思った。 いくう……、いくう……、あああいくう──。 骨盤が小刻みに震え、挿入をくり返す姫穴から吐き出されるものが、板張りの床に液溜まりをつくっていく。つつつと滴ったり、ぽたぽたと撒き散らしたり、行儀の悪い女を演じているのだ。 そうして意識の糸が切れるまで、膣の口径を広げながらいじくり尽くしていく。 やめてください……、私には主人が……、ああもうだめになりそうなんです……、何も言えなくなってしまう……、どうか許して……、だめ、だめ、あああ、いい、いく、いく──。 下腹部がよじれ、胸はきゅんとくすぐったい。 そうして香純はその場に崩れ落ち、巾着を絞めるように局部を痙攣させていた。 こんなことまでしているのだから、アブノーマルな女だという自覚はある。しかしこんな体質になってしまったのは、あの事件を体験したからではないのか、と香純はまた古い記憶を思い起こして遠くを見つめた。 そんな時、家のインターホンが鳴った。玄関口の小さな窓に人影がある。 香純は汚れにまみれた『こけし』を床に転がし、全裸のまま受話器を取った。 「はい」 と応答しながら壁に寄りかかる。 「宅配便です。花井香純さんはご在宅でしょうか?」 「私ですけど」 体育会系の雰囲気がある声を相手に、香純は気持ち良く応対した。 「印鑑、いただけますか?」 「少しお待ちください」 香純は丁寧に受話器を戻すと、さっき脱いだ黒色のワンピースだけを着て、印鑑を手に玄関ドアを開けた。暖かい陽気を浴びた外の空気が、香純の足首を撫でた。 宅配業者の人間は若い男だった。 「ごくろうさまです」 「こちらに印鑑だけ、お願いします」 香純は伝票に押印し、荷物を受け取った。 たったこれだけのやりとりのうちに、香純は彼の視線が気になっていた。前屈みの姿勢で印鑑を押した時には、彼の視線は胸元にあてられていて、だから香純は胸元を手で隠す仕草をした。それからしゃがんで荷物を受け取った時などは、擦り上がったワンピースの裾から中身を覗き込む彼の目に気づき、さり気なく着衣をなおした。 下着を着けていないことが彼に知られたら、きっとただでは済まないだろう。しかも体の芯はまだ興奮が冷めないでいるのだ。 「あの……」 と男の口が動いた。 香純は目の表情だけで、何か?と聞き返す。 男は目の前の美女から視線を逸らし、棚の『こけし』に注目した。妄想はすぐに膨らんだ。 いまここでこの人を押し倒して、あれを体に突っ込んだり、めちゃくちゃにレイプして気絶するほど逝かせてみたい。それが無理なら、あれを使ってオナニーに狂うこの人の姿を見てみたい。いや、きっとどちらも叶いっこない。外見が綺麗な女の人はそれなりに節操があるし、下手な誘いには見向きもしないだろう。自分とは住む世界が違う。そういう目には見えない境界線を越えた時、自分は犯罪者になっているはずだ──。 「どうかされました?」 ワンピース姿のお姉さんに声をかけられ、男はようやく妄想から覚めた。みっともない顔をしていたに違いなかった。 「ありがとうございました」 男はすぐに仕事の顔を取り戻し、花井家を出た。 最後に口から出た礼は、妄想のヒロインになってくれてありがとうございました、という意味で言ったつもりだった。 ◇
13/04/20 23:29
(QTZ2gF8d)
投稿者:
いちむらさそり
9
◇ 『雀荘ドラゴンヘッド』の看板に灯りが灯ったのは、陽も暮れかけた午後五時くらいのことだった。 五分ほど前に三人の男らが店内へ入っていくのを目撃しているので、北条は同行の人間に合図を送り、二人して行動を開始した。 薄暗い店の通路はかなり狭くなっており、よっぽどの理由でもないかぎり、一般人が好んで足を踏み入れるとは思えないほど汚れている。 「幽霊屋敷みたいですね」 と愚痴ったのは、北条の前を行く五十嵐(いがらし)という刑事だ。三十八歳の北条から見たら、ちょうど五年後輩ということになる。 「さっそく怖じ気づいたのか?」 と北条。 「いいえ、わくわくしているところですよ」 「相手は幽霊なんかよりたちが悪いかもしれないんだ。油断するなよ?」 「もちろんです」 気合いを入れなおしたところで、二人は軽快に階段を上がり、目的の部屋へと踏み込んだ。 学校の教室ほどの広さがある部屋に、点々と雀卓が置かれていて、すでに何人かの客が麻雀に興じていた。看板に灯りがなくても、営業自体はすでにやっていたようだ。 「お楽しみのところ、申し訳ありません。ここのマネージャーに会わせてください」 五十嵐は手帳をちらつかせながら、フロア全体に声を響かせた。 客は皆一様にこちらを振り返り、ある者はその目に殺気さえ滲ませていた。 間もなく奥のドアが開き、髭面の男が顔を覗かせた。そして二人の刑事を睨みつけたあと、こっちへ来いというふうに顎で示し、北条と五十嵐を事務所へ招き入れた。 「我々がここに来た理由については、説明を省かせてもらいます」 がらの悪い三人の男を前に、北条は凛とした態度で切り出した。 「俺がマネージャーの馬渕(まぶち)だ」 と髭の男が偉そうな口調で言った。椅子に座ったまま、両脚を机の上に投げ出している。 北条は一枚の写真をその机の上に出し、 「この女性がここに訪れたことがあるはずなんですが、見覚えはありませんか?」 と馬渕を見下ろしながら尋ねた。 ほかの仲間二人は馬渕の出方を窺っている様子で、なかなか口を開こうとはしない。 「嘘の証言をしても、どうせ後でわかることだ」 五十嵐はやや強めに警告した。 「この写真の女性、名前は青峰由香里、二十五歳の専業主婦だそうです」 北条がそう念を押すと、 「確かにここへ来た」 と馬渕が口を割った。続けて、 「ここには来たが、ほかの客に混じって麻雀をした、ただそれだけだ」 と断言した。 「じつは彼女、この雀荘を訪れたと思われる翌日の早朝、早乙女町の公園で発見されています」 「だから何だ?」 「喋れなくなるほど性的暴行を加えられたあと、ごみ袋に入れられた状態で放置されていたのです」 北条のこの言葉に、馬渕を含めた三人の顔に動揺の色があらわれた。 「俺らはほんとうに何も知らないんだ。ちゃんと調べてくれ」 馬渕が目を剥いて訴えてくるのを北条は手で制し、新たな写真二枚を提示して、 「そこでです」 と改まった。 「この男性二人の顔に見覚えは?」 「ああ、この刑事ならよく覚えてるよ。こっちが大上で、こっちが藤川、だろ?」 馬渕の証言を聞くなり、北条と五十嵐は顔を見合わせた。 「彼らはここで何をしていたのでしょう?」 北条がさらに追求する。 「何って、そりゃあ、あんたらとおなじ刑事なんだ。そっちで話はついてるはずだろう?」 「先ほどの青峰由香里絡みの内容、というわけですね?」 「とぼけやがって」 そう言って馬渕は、ふん、と鼻から息を吹いた。 今度は自分の目の前で二人の刑事がこそこそやり始めたもんだから、それが余計に気に入らない。 税金の無駄遣いばかりしやがってと言わんばかりに、馬渕は煙草に火をつけ、その煙で彼らを追い払おうと目論んだ。しかし効果はあまりなさそうだった。 「すみません、最後の質問です」 この台詞を言ったとき、北条は目に意識を集中させた。そして冷静に相手を見据え、 「青峰由香里は、どのような経緯でこの雀荘を訪れる気になったのでしょうか?」 と迫った。 相手の返答しだいでは、吉にも凶にも転ぶ可能性がある。 「顔見知りの女に薦められたみたいだぜ」 馬渕が喋ったこの事実を聞いて、ここが事件のターニングポイントになるだろうと、北条は手応えを感じていた。 ◇
13/04/21 11:38
(KPm9hl7g)
投稿者:
いちむらさそり
10
◇ 銀行員としてのキャリアがまだまだ不足しているのだと、つい先日、月島麗果(つきしまれいか)は上司から叱責されたばかりだった。 毎日おなじ窓口に立ち、相手の顔色を窺いながら愛想笑いをつくる、それがどうも自分には向いていないんじゃないかと思うようになっていた。 大学を経て、大手銀行に就職が決まったまでは良かったのだが、その後はずっと下り坂だった。 職場でのセクシャルハラスメントは特に酷かった。 胸やお尻を撫でられることが何度か続き、そういうことはやめてくださいと反抗すると、今度は個室に呼び出されるのだ。 予想通り、仕事とはまったく関係のない質問責めに遭った。 恋人はいるのか、処女喪失は何歳で相手は誰か、自慰行為の頻度や特別な嗜好品があるのかどうか、およそ女性が答えられないようなことばかり訊かれたりした。 上司からの命令だと凄まれたら、すべて正直に告白するしかなかった。 そしてある日、麗果は仕事でミスをした。金額を一桁間違って入力してしまったのだ。それには理由があった。 麗果がミスをしたその日、彼女の膣内にはバイブレーターが仕込んであった。当然、上司がそうするように命じたのだ。 そして麗果が澄まし顔で接客している最中(さなか)、玩具は遠隔操作され、彼女はそこで人知れず快感を味わっていた。 そこでミスが起きたのだった。 麗果はふたたび上司に呼び出され、愛液で汚れたショーツを手に、言葉の圧力を受けた。 システムの誤作動によるものならまだしも、これがヒューマンエラーなら君の責任は重大だ、と。 そして彼女の救済方法として、男性上司はオーラルセックスを要求してきた。 麗果は戸惑いながらも、その条件を呑む意外に選択肢はないのだと思い込んでいた。 稚拙なフェラチオで精液を飲まされたあと、今度は麗果が舐められる側になった。 濃密で汚らしいクンニリングスの果てに、麗果は何度か絶頂した。 そうやって今日までの出来事を振り返ってみて、退職願も出せないでいる自分自身がとても情けなかった。 いまの仕事を辞めて永久就職をしようにも、相手の男性にまったくその気がないのだ。 こんなふうだから、仕事にも私生活にも嫌気が差していた。 仕事帰りの夜道を一人で歩き、なんとなく見覚えのある歓楽街にたどり着くと、麗果は一軒の店に目星をつけてそのドアをくぐった。 淫靡な匂いに包まれた店内は何とも言えず独特で、一寸先も見通せない表社会とは裏腹に、どこか金銭感覚を麻痺させる毒素が漂っているようにも見えた。 「いらっしゃい。このあいだはどうも」 とニューハーフのママがこちらに愛想を送ってくる。 麗果は会釈を返し、 「おいしいお酒、今日もおねがい」 と気取った文句を添えた。 「うちのお店に、まずいお酒なんてあったかしら」 「確かに、ここの人は男か女かはっきりしていないけれど、お酒の味だけははっきりしてる」 そうやって洒落を利かせて笑顔になったあと、麗果は空席に腰掛けた。 すると彼女の両隣もすぐに埋まる。どちらもニューハーフだ。 「麗ちゃん、また来てくれたのね。嬉しいわ」 ブロンドのかつらを着けたナオミがグラスにシャンパンを注ぐ。 「あたしも、麗ちゃんと再会できて、興奮で髭が伸びちゃうかも」 そんな自作のジョークに爆笑するのはローズだ。 そうやって笑いが絶えないまま乾杯が終わり、それぞれに言いたいことを喋っては、食べて、飲んで、また談笑した。 こういうお金の使い方もあるのだと提案してきたのは、銀行の窓口に訪れた一人の女性客だった。 近いうちにかなりの額のお金を相続するかもしれないということで、その運用方法についての相談を受けていたのだ。 そして何かの拍子で世間話になり、そこでホストクラブの話題が持ち上がった。 いきなり免疫のない高級店に行くのは危険なので、まずはニューハーフあたりを相手に場数を踏み、雰囲気に馴染んでおいてからのほうがいいかもしれないと、その女性客は親切に助言してくれたのだった。 まわりから性的嫌がらせを受けていた時期と重なり、麗果はそこに現実逃避への抜け道を見出していた。 遊ぶ金はすぐに準備できた。彼女は銀行の金を着服したのだ。 もうおしまいだという罪悪感が消えることはなかったが、とにかく現実から逃げ出したかった。 「そんなに思い詰めた顔しちゃって。彼氏と喧嘩でもしたの?」 我に返った自分のすぐそばに、ナオミの厚化粧の顔があったので、麗果は無理矢理笑ってみせた。私情を悟られるわけにはいかないからだ。 「ううん。なんでもない」 「そういう男関係の愚痴なら、いくらでも聞いてあげるからさ。なんてったってあたしたち、中身は乙女なんだもの」 ローズもそうやって麗果を気遣う。 湿っぽく飲むためにここに来たわけじゃないことを思い出し、麗果は明るく振る舞った。 「ありがとう。それじゃあ今夜は、とことん飲んじゃう」 みんなでグラスを重ねると、嫌なことがぜんぶ吹き飛んでいくような気がした。 「いらっしゃ……」 途中まで言いかけて、店のママであるアゲハは表情を曇らせた。 新たな来客があったにもかかわらず、歓迎ムードがまるでない。 新顔は男二人。どうやら酒を飲みに来たわけではなさそうだと、店内の誰もがそう推測した。 彼らはカウンターまで一直線に歩いて行くと、アゲハに向かって、 「こういう者だ」 と手帳を振りかざした。 「この店に、月島麗果という女性が来ているはずなんだけどね」 藤川透はカウンターに身を乗り出して尋ねた。 「あたしは知らないわよ。だいたい客の名前なんて、そんなのいちいち覚えてらんないわ」 アゲハは煙管(きせる)片手に軽くあしらった。そしてさり気なく、ナオミとローズに合図を送る。 「ここにいるっていう匿名のタレコミがあってね。我々としても動かないわけにはいかくなった、とまあそういうことだ」 大上次郎は、わざと抑揚のない物言いをした。 「その女の人が何をしたのか知らないけど、冤罪を生むのだけはもう勘弁してよね。あなたたち警察の人間はね、一般市民から反面教師にされているのよ。これって、どういう意味だかわかるかしら?」 たかがニューハーフのママからそんな説教を聞かされ、大上と藤川はリアクションに困った。酒の一杯でも飲みたい気分だった。 その時、店内の照明がふっと消え、次の瞬間には悲鳴が飛び交っていた。 グラスをひっくり返す音、走りまわる足音、そしてドアが閉まる音がした。 それから数秒のあと、何の前触れもなく店内はまた明るくなり、騒ぎもおさまった。 カウンターの奥でただ一人、アゲハだけがポーカーフェイスで佇んでいる。 背後の壁には照明のスイッチがあり、そこに目をつけた大上は、 「やりやがった」 と歯ぎしりをした。いまの停電の騒ぎに紛れて、月島麗果は店の外へと逃がされていたのだ。 大上はそのまま藤川を連れて、振り返ることなく店を出た。 「ざまあみやがれ」 というブーイングが、藤川の背中に命中した。 ◇
13/04/21 11:51
(KPm9hl7g)
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