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1:果葬(かそう)
投稿者:
いちむらさそり
1
◇ あのとき、白雪姫が口にした真っ赤な毒林檎は、彼女の味覚にどのような疑念を抱かせたのだろうか。 ただ甘いだけの口あたりではなかったはずだ。 小気味良い歯触りの果肉に仕組まれた、おそろしく陰湿な気配を感じながらも、咀嚼(そしゃく)を止めることができなかったのかもしれない。 果たして彼女は自ら毒を摂取し、しんと降り積もる雪のような深い眠りに落ちたあと、思わぬ接吻で目覚めることになるのだ。 けれども私にはわかる。彼女は最初から彼の唇を、心を奪うつもりで、魔女の呪(まじな)いを利用したにすぎないのだと。 色恋に狂った女々しい体を慰めることができるのは、セックスシンボル以外には考えが及ばなかったのだろう。 ほんとうは男女の性交こそが毒だということを疑いもしない、なんて可哀想な姫なのかしら──。 そんなふうに取り留めのない妄想に耽ったまま、花井香純(はないかすみ)は冷蔵庫の扉を開け放ち、その火照った頬に冷気の流れを感じていた。 もうさっきからずっとおなじ姿勢を崩すことなく、左手に乗せた林檎の様子を眺めては、ごくりと生唾を飲み込む仕草に終始しているのだ。 真っ赤に熟した果実は手に余るほど重く、その内部に甘い蜜を分泌させているのが容易に想像できた。 そしてまた喉が鳴る。 二十八歳になったばかりの女は、後ろ髪の結った部分をふうわりと片手でなおし、一呼吸おいて、艶めかしく濡れる唇を林檎の表面に重ねた。 あ、あん──と喘ぎたい気持ちがほんとうになると、息のかかるその接点からは、たちまち卑猥な吐息が漏れはじめる。 そしてただ一口、さくりと歯を立て、あとはもう勢いにまかせて下顎をしゃくった。 もうじき、官能が舌にひろがっていくだろう。 うっとりと瞼を閉じ、二度、三度と噛みほぐしていくと、そこから溢れ出す果汁が口のはじから垂れ、やがて下唇から顎の輪郭をつたって滴り落ちた。 香純は陶酔していた。体のあちこちが種火のようにくすぶり、あわよくば、いますぐにでも慰めに先走りたいと思っている。 女がこれでは始末が悪い。 けれどもどうにもできない恨めしさが、あと一寸のところで理性を働かせているのだ。 毒でもいいから、とにかく楽になりたい、快楽が欲しい──そんな欲求に促され、二口目をかぶりつこうというとき、冷蔵庫の半ドアを知らせるアラームが鳴った。 はっと我に返る香純。 気づけば林檎の蜜が、首から胸元までをぬらぬらと汚していた。 それが誰の仕業なのかがわかると、喪服のおはしょりを丁寧になおし、ハンカチで胸元を拭った。 いけない。買い忘れたものがあったんだ──。 このところの眠れない夜のせいで痩せてしまった頬に、ふたたび体温が灯った。 ひっそりと広い家の中は、女独りきりではなにかと心細く、懐かしい生活音さえ聞こえてこない。 キッチンの隣は十畳ほどの和室になっており、いまは急ごしらえの仏間にさせているのだ。 あちらとこちらを仕切る引き戸の隙間へ目をやれば、亡き人の遺影が無言のまま鎮座して見えていた。 「こんなことになってしまって、ごめんなさい。孝生(たかお)さん」 ほとんど唇を動かさないで、香純は遺影に向かって独り言を呟いた。 そうしてかるく身支度を済ませると、線香の残り香をたなびかせながら家を出た。 ◇
2013/04/16 22:22:43(rIDFYmeq)
投稿者:
いちむらさそり
15―3
◇ あれから十分ほどが経過している。 まさかとは思いつつ北条が腰を上げたとき、変わりない姿の香純がコーヒーを持ってきた。 「今度はブラックにしておきましたから」 「それはどうも」 言って北条は自分の嗜好を見抜かれたことに対し、女性の観察力の鋭さを思い知った。 綺麗に見える一輪の花の中にも、蜜を分泌する花もあれば、毒を分泌する花もある。 果たして北条はカップの中の苦い汁を一口だけ啜り、ふたたび語りだした。 「さっきお話ししたことには続きがあります。花井孝生を殺害したであろう人物を目撃したのは、ある大手銀行に勤める月島麗果という女性でした。彼女は後日、銀行窓口に訪れた女性客に相談を持ちかけられました。近いうちに大金を相続するので、その運用についての相談だったようですが、ついでのつもりの世間話をしているうちに、ホストクラブの話題が出たようなのです。まあ、そこでいろいろと話し合った末に、女性客に薦められるまま月島麗果は一軒の飲食店に向かうわけですが、なぜだかそこで犯罪に巻き込まれてしまったのです」 香純が斜め下を見つめているので、北条はしぜんと彼女の口元に目をやった。唇の凹凸に異性を感じた。 「花井孝生の殺害現場を見られたと思った犯人が、ふたたび闇サイトを利用し、月島麗果を辱めるよう仕向けたのです。青峰由香里のときと同様にね」 「それも私がやったことに?」 「その女性客が来店したときにはマスクをしていたんですが、相談窓口に座った途端、マスクを外したようです。そこで月島麗果にあなたの顔写真を見てもらいました。花井香純さん、あなたに間違いないと彼女は断言しました」 喋り過ぎたので、北条はコーヒーカップを煽(あお)った。そして軽く咳払いをする。 「銀行の防犯カメラの映像にも、確かにあなたが映っていました。あの女性客の話を信用したせいで、自分は乱暴されたのだ──そんなふうに月島麗果の中で、点と線が繋がったのです」 「そう思われても仕方がないですよね」 香純は微笑した。しかしそれは無防備なものではなく、警戒心を悟らせないための作為を含んで見えた。 「罪を認めますね?」と北条は言った。 「あの人が悪いんです」と香純は応えた。 「私に隠れて、ほかの女の人と体の関係を持つなんて、妻として許せませんでした。だから私が夫を、それから相手の女性にも復讐したのです。現場を見られたのは迂闊でした。だからあの銀行員の女性に罪はありません」 「そうおっしゃった上でお訊きしますが、あなたがアクセスした闇サイトの住人、彼らの顔や名前をご存知ですか?」 「いいえ」 香純は表情を曇らせた。 「じつは、ある犯罪組織のメンバー数名がサイト管理を担当していたわけですが、そのうちの一人は大上次郎という男、そしてもう一人が藤川透だと判明しました」 まさか、という台詞を香純は呑み込んだ。 「それじゃあ、藤川さんが彼女たちを襲ったんですか?」 「そうではありません。彼らはただの仲介役です。青峰由香里と月島麗果を客に引き渡し、そこから先は客の意思に委ねるわけですから、レイプの実行犯は客の男ということになります」 それを聞いて、香純は少し気を緩めた。それはつまり、さっきまで気が張りつめていたということだ。 藤川透のことを思うと、時々こういうことが起こる。たとえ犯罪組織の人間だろうが、彼の本質は別のところにあるのだと、香純はそう思えてならなかった。 「失礼なことを窺いますが」と北条は前置きした。 「香純さん。あなた、父親にまつわる暗い過去を持っていますね?」 刑事の向かいで、ついに来たか、と香純は体を萎縮させた。 「我々は、『聖フローラル学園』という児童養護施設を訪ねました。あなたが幼少の頃にあずけられていた場所です。残念ながら、当時の園長はもう亡くなられていましたが、園長からあなたの話を聞いたという女性職員に会えました。そこで初めて知りました、あなたが実の父親から性的暴行を受けていたということを」 聞き手として、話し手として、もっとも辛い状況に直面していた。 「更にそのときの行為が原因で、あなたの腹部には醜い痣が残ってしまった」 北条の視線が気になり、香純は自分の腹部に手を添えた。 「ところがここでもう一つ、新たな事実が浮上してきたのです。あなたは周囲に、早い時期に両親を亡くしていると言っていた。しかし女性職員は、父親はともかく、母親は健在だと明言した。その証拠に、あなたの母親から毎年のように寄付金が届いていると、その封書を我々に見せてくれました。これについて、あなたから言えることがあれば、是非とも聞かせて欲しいですね」 香純は無言のままでいたが、微かに首を横に振った。まさしく喪中の未亡人の姿だった。 「父親は行方不明で、母親は生きている。これを踏まえた上で、我々はもう一度今回の事件を振り返ってみました。ここでふたたび登場するのが、藤川透です」 瞬間、香純の顔が悩ましく歪む。その名前を耳にするだけで、体がかっと熱くなるのだ。 「あなたは、藤川透が刑事であると疑わないまま、彼を自宅に招き入れ、ついにはその肌さえも露出した。もちろん性交を果たすためにです。しかし彼はそれを辞退した。家族のある身なら、それが当然と言えるでしょう。それでもあなたは退かなかった。インターネットの通信販売でアダルトグッズを購入していることを告白し、実物を彼の目に触れさせた。淫らな女だと印象づけるためにです。ほんとうのあなたは、そこまで貧しい心の持ち主ではないと我々は信じています」 北条はこのとき、脇の下にじんわりと湿気を感じていた。追い詰めていたはずの容疑者が、挑むような目でこちらを見ていたからだ。 ◇
13/05/02 15:42
(oSrsNP5i)
投稿者:
いちむらさそり
15―4
◇ 「ほんとうの私のことなんて、何も知らないくせに」と香純が口答えしてきた。 「言い方は古いけど、火遊びをしたくなることだってあるんだから」 「あなたが火遊びか。まったく想像がつきませんね」 「使い古したおもちゃを私がどこに棄てているのか、それだって調べてあるんでしょう?」 付き合いきれないなと思いつつ、北条は頷いた。 「全裸の青峰由香里が見つかった早乙女町の公園、あそこは以前から不法投棄が酷かったと、彼女を発見した主婦が話していました。その主婦にもあなたの顔写真を見せました。そうしたら、卑猥な形をした玩具を投棄しているあなたの姿を見かけたことがあると、そんな台詞が返ってきました。どうです、これで満足ですか?」 そんな刑事の軽薄な一語一句が気に入らなくて、香純は思わず腰を上げた。北条の目線の高さに、香純のくびれのあたりがくる恰好だ。 「私の性癖を教えてあげる」 それは異世界からの囁きのようだった。北条は瞬きもできずに、ただ前だけを直視していた。 女物のカーディガンが見える。前閉じのボタンが外され、花柄のカットソーが覗くと、躊躇うことなくそれがたくし上げられた。 ブラジャーに包まれた乳房、そのすぐ下に、赤い林檎が浮かび上がっている。いや、それこそが近親相姦を物語る忌まわしい痣だった。 肉体は若く美しいままなのに、花井香純にふさわしくないものが沈着していたのだ。 女はさらに色を仕掛ける。スカートに指をかけるだけで、それはいとも容易(たやす)く脱げ落ちた。そこは女の恥部であり、面積の狭いショーツで覆われていた。 片脚ずつ折り曲げながらショーツを下ろしていくと、淫らな花園が姿を現した。裂け目は下を向いているので、北条の位置からでは確認できない。 「待ってください」 北条が沈黙を破った。 けれども香純は従わなかった。後ろのバッグに手を入れ、ふたたび取り出した手には黒いディルドを握っていた。喉が渇いたと言って中座したときに仕込んだのだろう。 歪(いびつ)な男性器をかたどった彫刻のようにも見えるそれを椅子の座面に立てると、下半身のそこに狙いをつけ、わなわなと腰を落としていった。 「もうやめましょう」 そんな北条の制止も虚しく、香純は異物を受け入れた。 あうっ──という香純の儚げな肉声が聞こえた。そこに収まるのが当然であると思えるほど、雨天のようにぐずついた香純の膣は、その黒い具をしっかりとくわえていた。 いじめて欲しくて仕方がない──香純の表情はそういう種類のものだった。いまにも泣き出しそうだ。 体を上下に揺すり、豊かな液を垂らして、そこから聞こえる音もしだいに熟れていく。 ねっとり、ねっとり。 ねち、ねち。 くちゅ、くちゅ。 ちゃぷ、ちゃぷ──。 快楽を訴える声が、香純の口から漏れている。このままでは、彼女はほんとうに果ててしまう。そこで北条はこう言った。 「香純さん。あなたにとって最も残酷な事実を、僕の口から言わなければならないようですね」 そう言われたことで、香純の動きが大人しくなった。刑事が告げようとしている次の言葉を待っているのだ。 「あなたはすでに、子宮を失っている。違いますか?」 香純は息を呑んだ。彼と視線を合わせることもできず、自分の振る舞いが惨めに思えてきたのだ。 痛いところを突かれたというより、『もうこれ以上、自分を偽らなくてもいい』という慰めの言葉にも聞こえた。 じわりじわりと込み上げてくる感情が、香純の目頭を熱くしていく。そして下半身に挟まっている物が床にごろりと転がると、そのままの体を椅子に沈ませた。 「あなたは、子宮を全摘出する大手術を経験した。そうなってしまったのも、外でもない父親から受けた暴行が原因だった。損傷したままの子宮を放置すれば、今度はあなた自身の命に関わる恐れがあった。つまり、あなたに選択の余地はなかったのです。その手術を執刀したのが、木崎ウィメンズクリニックの木崎智也(きさきともや)という医師だった」 ぐったりとうなだれ、剥き出しの両脚を内股に畳んだ香純に向かって、北条なりに優しく喋った。 「手術自体は別の大学病院で行われ、無事に終わった。しかし木崎智也はその後、ある物をクリニックに持ち帰っています」 数秒の沈黙があって、「それは、摘出したあなたの子宮です」と北条は言った。 一瞬、部屋の温度が下がったような気がした。 「もちろんこれは違法にあたります。ですが、それを望んだのは香純さん自身だ。そうしてかけがえのない物を失ったショックから、あなたは恐ろしい行動に出たのです」 そう言いながら北条はキッチンの方向を指差した。 「もし、あなたの体の一部が、あの冷蔵庫の冷凍室に眠っているとしたら、あなたはある意味、魔女よりも恐ろしい人だ」 その言葉は、香純の耳にも届いているはずだった。しかし香純は感情がうまく表現できないでいた。ただ涙を流すだけの、表情のない人形のように見えた。 「木崎智也の存在を我々に知らせてくれたのも、藤川透でした。彼が亡くなった直後、警察宛てに一枚のDVDが届きました。送り主はやはり藤川透でした。収められた映像の中に、青峰由香里や月島麗果を凌辱する木崎智也の姿がありました。あなたの手術に携わっていた医師は、そうとう歪んだ性癖の持ち主なのでしょう。だからこそ、あなたが子宮を要求したときには、彼は快く引き受けたのだと思います。そうしてあるとき、自宅の冷凍室に保管してあった子宮を、夫である花井孝生に見られてしまった。これは何だと、しつこく問い詰められたことでしょう。僕は彼に同情します。小さなクーラーボックスの中から出てきたのが、グロテスクな朱色をした肉片だったんですからね。それが食用の精肉だったなら話は別ですが、まさか人間の臓器だとは彼も信じなかったでしょう」 「私が喋りました。孝生さんには、ほんとうのことを全部告白しました。そうしたらあの人、悪趣味な嫁なんて、子どもが産めない妻なんていらないって、外で浮気をするようになったんです。だから……、だから私……」 遠く彼方へ懺悔するように、香純の声は天に呑まれていった。 ◇
13/05/03 22:55
(b4B8GSTI)
投稿者:
いちむらさそり
15―5
◇ このとき北条は、玄関先に人の気配があるのを感じた。そして何気なくそのこと香純に悟らせ、彼女を玄関に向かわせた。 そのあいだに自分は、彼女がした淫らな行為の痕跡を消しておく。 「お母さん」という声が間もなく聞こえてきた。香純のものだ。 北条がそちらに向かうと、五十嵐に付き添われた婦人が目に入った。花井香純の母親、三枝伊智子その人だった。 さすがにこの場面では化粧を控えてはいるが、それなりの支度を整えれば、十は若返りそうな気がした。 母と娘は互いの体を支え合い、涙混じりの言葉を囁きながら仏間へ上がる。二人そこで泣き崩れると、香純は、どうして、どうして、とくり返すばかりである。その背中に北条は言った。 「花井孝生を殺害したのは、三枝伊智子さん、あなたですね?」 とうとう迎えたこの瞬間に、三枝伊智子の呻きが大きくなった。 直後に北条のポケットが震えた。 「俺だ。……うん、……そうか、……わかった、……ご苦労さま」 北条が携帯電話を仕舞うと、隣の五十嵐が視線をよこしてきた。 「三枝伊智子さんのアパートを捜索したところ、我々の睨んだ通りの物が出てきたそうです。血痕の付着したナイフ。それと黒い傘、黒いウインドブレーカーとズボン、それらにも血液が付いていたとの報告を受けました」 沈む二つの背中に北条が告げた。 向こうで話しましょう、と五十嵐が皆を促した。 四人がリビングに集うと、三枝伊智子が先に口を開いた。 「悪いことをするのは私一人でじゅうぶんだと、娘に言い聞かせました。あの父親も悪かったんです。一族の血を汚すような行為をするから、香純がこんなふうになってしまって、結局私の手も汚れてしまいました。もうおわかりだと思いますが、いちばんの被害者はこの子です。どうか救ってやってください。お願いします」 頭を下げる母親のそばで、香純は自分の口元をハンカチで覆った。だいぶ白髪も増えてきたのだと、母の老いを思った。 「伊智子さん。あなたの夫である三枝靖晴(さえぐさやすはる)さん、つまり香純さんの父親ですが、ずっと行方がわからないままだと我々は聞いています。捜索願は、十年以上も前にあなたが出している。一体どこにおられるんでしょうか。生きているのか、あるいは──」 そう言った北条の目が熱を帯びていることに伊智子は気づいた。 香純が袖にしがみついてくる。黙秘は無意味だと自覚し、その痩せた唇を動かした。 「なかなか働いてくれない主人でしたから、昼も夜も私が仕事をしていました。香純がまだ小学生の頃です。あるとき家に帰ってみると、主人と娘が布団の上で揉み合っていました。酒に酔った主人が、娘を犯していたのです」 話を聞いていた香純は堪らなくなり、声を枯らしながら席を外した。 それを追うでもなく、伊智子は続けた。 「そんなことが何度かあって、私は役場に相談してみました。そのときこそ反省の色を見せていた主人でしたが、私の目の届かないところでは、やはり乱暴をくり返していたのです。警察に届けることも考えましたけど、逆恨みされるのが恐くてできませんでした」 こんな現実があっていいのかと、五十嵐は顔を険しくした。 「日に日に弱っていく香純の身を案じ、私は決心しました。主人が林檎を好きなのを知っていたので、それを利用しました。毎日欠かさず主人に林檎を出しました。あの人は飽きもせずに林檎を食べつづけました。そうしてある日、主人は口から泡を吹いて倒れ、そのまま息絶えました。私が林檎に仕込んだ微量の薬物が、主人の体内で致死量にまで蓄積されたのです。私と香純の目の前で亡くなったあの人のことを山中に埋めたのも、私です」 これまでの積年の思いを吐き出したことで、伊智子の表情からは毒が抜けて見えた。そして香純が戻ってくると、二人して手を取り合った。 すべて終わったのだ。後のことは警察に任せればいい。 そんな空気が迫りつつあったとき、突然、香純の身に異変が起きた。膝から崩れ落ちる様子がスローモーションで再生されているように、それは北条らの目にも明らかだった。 一度は床に手を着き起き上がる意思を見せたが、それも適わず、白雪姫の如く美しい肢体を伏せていった。 五十嵐がその顔色を窺ったとき、彼女の鼻から血がつたい落ちた。 北条は咄嗟にキッチンへ向かい、ダイニングテーブルの上に真っ赤な林檎を見つける。かじったところがまだ新しい。 ちっ、と舌打ちをしてからの行動に猶予はなく、誰からともなく救急へ通報したり、呼吸や脈拍を確かめたりと、すべてが早足で繰り広げられていった。 けれどもそこに居合わせた誰もが、とてつもない無力感に苛(さいな)まれていただろう。 血の気の引いた香純は、ただただ、母の腕の中で無言を守っていた。 ◇
13/05/03 23:04
(b4B8GSTI)
投稿者:
いちむらさそり
16
◇ 娘の名誉を守る為に、三枝伊智子は二つの命を絶った。 一方の花井香純は、二人の女性を罠に嵌めはしたものの、誰の命も奪わなかったのだ。 つまり香純が起こした一連の行動は、すべての疑惑の目を自分一人に向けさせる為のものだったわけだ。 それから、藤川透のバックにある犯罪組織の影は、大上次郎もろとも行方を眩まし、そのネットワークさえも遮断された。今回もまた、その存在を公にすることができなかったのだ。 「でも良かったですね」 晴れ晴れしたふうに五十嵐は言った。 「あの母子のことか?」 北条が返す。 「あのときはどうなることかと思いましたけど、花井香純が気を失った原因が、多量の鼻炎薬を一度に飲んだことによるものだったなんて。俺、焦っちゃいましたよ」 「俺もだ。もしあれが毒性の強い薬だったとしたら、俺たちは刑事失格だな。どうだ、反省会でもやらないか?」と北条は手でお猪口(ちょこ)を真似てみた。 「いいっすね」と五十嵐の目が輝いた。 彼らは病院の中庭を歩いていた。これだけ暖かい日がつづけば、相当量の花粉が飛んでいるだろうと北条は思った。 それでもこうやって普通でいられるのは、自分の免疫力が強いか、もしくは鈍感な構造にできている証拠なのだろう。 くしゅっ、と五十嵐がくしゃみをした。 「まさか、五十嵐も花粉症か?」 「こう見えて俺、あちこちで噂になってるんですよね」 「いい噂を聞いたことがないんだがな」 北条に言われ、五十嵐は顔を酸っぱくして笑った。 * 薬品臭い部屋の中にいた。そこで行われたのは、堕胎手術と子宮摘出手術だった。全身麻酔によって眠っているはずなのに、脳は覚め、内臓をいじくり回す誰かの手の感覚すら鮮明だ。 やめて欲しいと言うつもりでいたが、それは言葉にならなかった。声が出てこないのだ。 そのうちに果物の甘い芳香が漂ってきて、ついでに懐かしい匂いまで混じるようになった。 花井香純が病室のベッドで目覚めたとき、隣に母親の姿を見つけた。まだ記憶がぼんやりとしていて、自分たちがここにいる理由がわからない。 「お母さん」と香純は言った。 おもてを上げた三枝伊智子は、目尻を下げながら腰を伸ばし、「これ、食べるわよね?」と手元を香純に見せた。 右手に果物ナイフ、左手には林檎が乗っている。 香純は頷いたあと、刑事はどこにいるのかと訊いてみた。すると母親は、外に待たせてあるんだと応えた。加えて、香純がこの病院に搬送されるまでの出来事も話した。 我が子を見舞うことができるのも、きっとこれが最後になるだろう──。 そんな名残惜しい思いを表情から消し、伊智子は林檎を剥いていく。そして半月状に切った実を小皿に盛り、香純に差し出した。 窓から入る日差しが、二人の影を床に落としている。 それはまるで、白雪姫と魔女という、因縁の組み合わせを描いているようだった。 ◇ おわり
13/05/03 23:13
(b4B8GSTI)
投稿者:
ミミ
引き込まれて、一気に読ませていただきました。ありがとうございました。
13/05/24 00:20
(z2ZrR.FO)
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