私こと植村チヒロ(34)には幼馴染と親戚の条件を兼ね備えた植村瑛士(34)という存在がいます。
私が植村家の長男の娘。
瑛士は植村家の次男の息子。という関係です。
瑛士と私は物心ついた頃から中学校3年生までは毎年の夏休みに広島県の呉市にある祖母の家に遊びに行くのが恒例でした。
大阪に住む私たち一家と福岡に住む瑛士たち一家の盆休みと夏休みを利用した年に一度の顔合わせの家族親戚行事です。
本当に小さい頃は私のリカちゃんと瑛士の仮面ライダーを戦わせ、瑛士がいじわるな事をしてきていつも私が泣いたりしていました。
また祖父母に連れられて昆虫をとりにいったり梶ケ浜海水浴場に連れていってもらったり、まるで絵に描いたような小学生の夏休みを満喫していたと思います。
ですがここで赤裸々な告白をさせて頂くと、私の初体験の相手は瑛士でした。そして昨年、2024年のお盆にも再び瑛士とカラダの関係を持ってしまったのです。。
これからお話しするお話はどちらを先に書くか迷いました。2024年の話を先に書いて後から初体験を付け加えるか、それとも初体験を先に書いて2024年の話を後に書くか。
どちらの書き方にも描きやすさとデメリットが存在し迷ったのですが、時系列で書けばただの記録となる恐れもあることから2024年の話を先に書き出す事にしました。
ですから読書においては、「よくわからないが過去に瑛士との関係があったんだな」とだけ念頭に置いた上で読んでくれたらありがたいです。
2024年8月
私たちの家庭では8月になれば広島に行く事が恒例行事となっています。広島にいく目的は祖母宅への訪問や墓参り、そして戦没者や原爆の被災者への慰霊の旅を兼ねています。祖父母から私へ。そして私から娘へと原爆の事実を語っていかなければならないとの責任を感じているからです。
ただ、2024年の夏休みでは異例の展開が待っていました。私たち大阪植村家と瑛士の福岡植村家は、、ある問題、、がきっかけで疎遠になっていたのですが、2024年に限っては祖母からの強い希望で「ひ孫を二人同時に見てみたい。昔のチーちちゃんやエーくんみたいに」と言い出したのです。
齢90歳を超える祖母からすれば、まるで避けるように孫やひ孫が交代に訪れるのではなく、昔のように沢山の家族が揃っての世代を超えた団欒風景を見てみたいとの事だったのです。
その異例の展開が実現したのは、ある問題がおきた過去を祖母が年齢を重ねて既に忘れ去っていた事。そして私と瑛士の当事者の他に最も渦中の人であった私の父が他界していた背景があるからです。
結果、直接の連絡先を知らない私は、母親に間にはいってもらいながら祖母の「孫とひ孫に囲まれる」という最後の夢を
叶える為、瑛士一家と日程を合わせ2024年8月12日(月)に祖母宅へ集まる事になったのです。
では祖母宅に集合した私たち家族と瑛士の家族。初日は子供を連れて「てつのくじらかん」「大和ミュージアム」と呉の軍港を見学し、昼過ぎからは梶ケ浜海水浴場へと行きました。
あまり社交的ではない私の夫は単独行動で博物館見学をし、海水浴場にきたら「運転で疲れたから車で寝とくよ」とさっそく空気の読めないヒト感を出していました。
いっぽう瑛士の方はというと、、、正直かっこいい。顔もイケメンだしお腹は割れてるしファッションセンスなども夫とぜんぜん違う。
なんといっても私の娘と一緒に子供目線で遊んでくれたり食事でも飲み物でも、すぐに「俺から買ってくるよ!」と出てくれるフットワークの軽さには奥さんが羨ましいなと思いました。
また美人で色白の瑛士の奥さんは最初から海なんかに入る予定もなく、かといって私の夫が寝てる車にいるわけにもいかず、太陽の当たらない屋根がある場所で携帯電話でできる副業というのをして時間を過ごしていました。
この時、私は強烈なセンチメンタルとノスタルジアを感じたのでした。
(まるで私と瑛士が夫婦みたい。。そして二人の子供が瑛士と私の子供みたい。。)
つまり胸キュン状態になってしまったのです。
子供の頃に瑛士と一緒に遊んだ梶ケ浜海水浴場。今はお互い別の世界で生きているにも関わらず、時がとまったままのこの場所で再会している。
なぜか不思議と涙が出てきました。ですがその涙は子供たちがかけてくる水鉄砲で誰にもみられる事はありませんでした。
瑛士「チーちゃん!沖いこうぜ!」
千尋「え、、う、、うん!」
瑛士「ユージ!ちゃんと(娘の事)みててな!」
ユージ君「まかせて!」
娘「ママいってらっしゃい気をつけてねー」
「沖に行こうぜ」瑛士は無意識に言ったのかもしれませんがこの言葉は過去の再来でした。私は子供の頃、瑛士がひっぱる浮き輪に捕まって沖まで連れていってもらってたのです。
泳ぎの上手な瑛士は昔と変わらず、子供の浮き輪に捕まった私を引っ張って沖にある水面に浮かぶお城のような遊具がある場所まで連れて言ってくれました。
この時、私は(幼馴染なんだから、、緊張してても仕方ないよ、、)と少しずつ心のわだかまりが解けていくのを感じました。そして私は思う存分!!!瑛士と海で戯れたのです。懐かしいあの頃のように。
そして3泊の旅行の二日目、最後の夜がやってきました。
その日も広島市内、厳島と歩きに歩き回っていた日なので私と瑛士以外は完全に早い段階から各々部屋に戻って熟睡していました。私と瑛士は何故か不思議と体力が残っており、家族みんなが寝静まっても私たちは祖母宅のリビングで話をしていたのです。
すると少し酔った瑛士は「チーちゃん、浜辺行かないか?」と切り出してきたのです。
浜辺というのは私たちがまだ大人なりきれてないあの時、初めて互いを知った場所でした。
私はこの時、正直に申せば浜辺に行くという言葉がどういう意味を成すのかわかっていました。結局、私たちは幼馴染であり初恋の相手であり初体験の相手なのです。どれだけ今は家庭があろうと子供がいようと「特別」な存在である事には違いありません。
そんな特別の存在と同じ場所で再会し、そして二人っきりになれるチャンスも与えられた。そして今のチャンスを逃すともしかすると2度とやってこないかもしれません。
過去に無理やり引き裂かれた恋。その結末を見る事なく私たちは離れてしまいました。せめて少しの間だけでいいからあの頃に戻りたい!浜辺に残してきたままの私たちの青春を取り返しにいきたいと思ったのです。
そして浜辺へと向かうなか、、瑛士は私の手をギュッと握ってきました。
私もギュッと強く握り返しました。あの日あの頃と全く同じ。とてつもない感動の涙が溢れてきて私はまともに前を向いて歩けませんでした。
そして浜辺のベンチへと到着。私たちは呉から見える瀬戸内海の穏やかな海辺を見ながらキスをしました。キスまでの流れはとても自然なものでした。
ちなみに私たちが体験したのは⚪︎⚪︎歳の時の話です。性交同意年齢が当時は13歳〜。法改正されて現在は16歳〜とはなっているので合法ではありますが、具体的な年齢はサイトの特性上控えさせて頂きますね。
浜辺にて私はあの頃を思い出し、そして懐かしみ瑛士との何年振りものキスを交わしていました。
思い出すのはただあの頃は初めてのキスと初めての行為が同時にやってきた事で興奮と緊張が混ざり合い全て瑛士リードで瑛士任せにしていたと思います。
ただあれから時が過ぎ私も以前の私ではなくなってしまったのか、、明確に(今夜だけは瑛士と一つになりたい)と思っていました。
キスをするだけで濡れてくる、こんな激しい興奮を覚えたのはこの日が初めてかもしれません。私は瑛士が私のワンピースの裾から膝に触れてきた時は自分からスッと足を広げていきました。言葉に出来ないからこそ、、動作で気持ちをアピールしたつもりです。
すると私の許しを得た瑛士は、スーーと内腿をなぞりながら滑らせてきて手のひらで優しく恥丘全体を包み込んできたのです。そして同時に私の性器の形に指を合わせるように敏感な場所を刺激をしてきたのでした。
残念ながら夫ではこのような恋愛情緒溢れた行為はしてくれません。何年もこうした情緒溢れた行為を渇望していた私は思わず「あぁ、、!」と声をあげて下半身を瑛士に崩されていきました。
そして瑛士も私が知る瑛士ではありせんでした。彼も彼なりに私との体験を済ませた後、見た目や性格の良さから様々な経験を積む機会に恵まれた人生を歩んだ事でしょう。初めての頃のようなぎこちなさはなく、、経験豊富でまるでオンナの体を知り尽くしたかのような高度な技巧で私の気持ちを高揚させていきました。
ただでさえ高揚している私に瑛士の高度な技巧が重なって私は出だしの行為だけで何度もイッてしまいました。そして1度目、2度目のオルガスムを迎えた時はすぐに手を離してくれたのに、3度目の時は私がまさにオルガスムの真っ最中も継続的に刺激を続けられました。
この行為中、私は快感で気が付かなかったのですが、後にワンピースのお尻の部分まで範囲的に濡れており、どうやらこの時に少量の小水を零してしまってたみたいです。
そして私は瑛士の攻めがひと段落した空気を感じ取り、私は瑛士の股間から硬い陰部を出していきました。私はこの時興奮し過ぎて思考が過激になっており、心の中で何度も(これは私の!本当は私のになるはずだったんだから!!)と心で叫びながらフェラをしました。同時にあの色白で美人な奥さんがとても羨ましく思えました。こんなにカッコよくて包容力ある瑛士に、、求められてるあの人。。きっと夜は瑛士と激しく、、、(あぁ!!!!)と気が狂いそうになったのです。
瑛士「チーちゃん激しっ、、イ、イっちゃうよ!」
すると生暖かい瑛士の精液が口一般に広がっていくのがわかりました。嬉しかったのは私との行為に瑛士もとても興奮してくれているのがわかった事。私がいままで口で受け止めてきた精液の中でも最も濃厚で量が多かったのです。
この時、私は本気で瑛士に中出ししてほしいと思っていました。瑛士と夫の血液型は幸い同じA型。瑛士との子供を夫との子供と生涯偽って育てていくのもありなんじゃないかと、そんな衝動に駆られていました。それだけ興奮していました。顔には出さずとも日頃の欲求不満、瑛士への渇愛、奥さんへの嫉妬、あらゆるものが爆発していたと思います。
私はにフェラが終わると瑛士の次の行動を待ちました。私の欲求が爆発しているからとはいえ無理に私から貪欲に求めていってこの儚い美しい思い出をたんなる私の淫気な歴史に刻み込みたくなかったのです。
瑛士「入れていい、、の?」
千尋「うん、、」
言葉はそれだけでした。すると瑛士は私を立ち上がらせるとベンチ背後にあった木に手をつかせ背後からパンツを脱がそうとしてきました。この時、私のワンピースのお尻部分に楕円形のシミが出来ているのを瑛士が発見し、、「さっきやりすぎちゃった?」と聞かれて判明したのです。
私は「ぜんぜん気が付かなかった、、」と返事しました。
そして私は自分で下着を下ろし、あまりにも濡れていたので瑛士の言ってる意味をさらに実感し、カバンに入れるのもなんだか嫌なのでベンチの角に下着を置きました。そして改めて木に手をついて瑛士をまったのです。
するとワンピースの裾がクルクルと巻いてたくしあげられ、、(瑛士が入ってくる、、!)と高揚感がMAXになっていきました。
そして瑛士の先端が私の体に触れ、、その直後!擬音語や擬態語のカタカナでは到底言い表せない、とてつもなく大きく、硬く、そして私が求めていたあらゆる想いが凝縮されたものが私の中に突き進んできたのです。
(やばいい!立てないくらい気持ちいい!!)それから私は「あぁっ、、瑛士!!好き!好きだよ!!」とおもわず声が出てしまいました。瑛士も「うん!ありがとう!俺もあの日からずっとチーちゃんの事がすきだったんだよ!」と答えてくれました。
ですが、そんなひとときの濃厚な愛ですら一気に吹き飛ばす現象が待っていました。とにかく瑛士のが大き過ぎて、、カリという部分のエッジが鋭利過ぎて、、まだ30過ぎてまだ開拓されていない私の未到達の部分までこじ広げてくるのです!
千尋「嗚呼!!!気持ちい、、!嗚呼!アアッ!!瑛士!!」
瑛士「うん!あの頃と同じ、、懐かしい!俺もずっとチーちゃんの中に帰ってきたかった、、!!」
そして立ちバックではキスができない事に気がつく二人。すぐにお互いの気持ちが一致し、立ちバックから立ったまま片足を担ぎ上げて今度は正面から入れていきました。
この時にキスをしながら交わしたセリフはもう恥ずかし過ぎてこれ以上は書けません笑
瑛士「はぁっっ、、はぁっっ、、」
瑛士も本気で動いていたしお酒も入っているので疲れが出ている様子でした。
私は瑛士を座らせて大胆だけど瑛士の上を跨いで自分から中に導き腰を落としたのです。
(せめて最後くらい!!)私はもう恥ずかしいとか緊張するとかはありませんでした。瑛士の首にしっかりと手を回し、これでもか!これでもか!!ってくらい全力を込めて素早く腰を振りました。もちろんこの時のセリフも今は恥ずかしくて書けません笑
それでも最後のセリフだけは紹介しますと、、、
瑛士「そろそろイクから!」
千尋「大丈夫!そのまま出してもいいから!!!」
瑛士「ま、マジかよ」
この言葉を最後に交わし、、私の中が「さらに濡れて」きたのです。
中出しの経験をされた方ならわかると思いますが単純に膣の中で分泌されてる愛液にさらに精液まで加わるのですから一気に膣の中の滑走度合いが高まるのです。
この時私は(今、、瑛士と一つになってる、、なんの後悔もない、、、)と感無量でした。
そして私たちは過去に浜辺に置いてきた青春を取り戻したのです。
そして翌日、多少寝不足気味でしたが私たちは広島から西と東へと別れていきました。私には何の後悔もありませんでした。妊娠してたらしてたで、、それはその時考えようと考えも割り切れていました。むしろ夫や娘にとっても、もっといい妻であり母にならないと!と前向きな気持ちですらあったのです。
ですが妊娠はしませんでした。
あの日から瑛士の奥さんとも連絡先を交換し、しばらくは頻繁に連絡をとりあう日々が続いた頃、ちょうどアッチの話になったとき、、「うちはもう次は考えてないんですよ。だから瑛士も精管除去済ませててね、だから楽なのは楽なのですよね笑」と言われたのです。
私は瑛士が奥さんにいつも生で入れて中出ししているのか!っていう夜の営みも充実している夫婦仲を想像してしまい、またメラメラメラ!!と嫉妬心が湧かないあがってきましたとさ。笑
では2024年の話は終わりです。