あれから一カ月が過ぎた。 沢木とは、その後も友達として普通に付き合っている。人間嫌なことは忘却する性質を持っているのだろうか、それとも麻痺してしまうのだろうか、自分の家族にあれだけの衝撃的なことが起こったはずなのに、『本当にあったのか? 』と脳が疑っているみたいで、自分の中で現実味がないまま日々過ぎていった。学校へ行けば今まで通りみんなと付き合って、沢木とはなんだったらより仲が深まったような気がした。そんな折、沢木の住んでいたマンションが改装工事に入った。別に住めないことはないのだが、工事の音がうるさいのと、なんだか埃っぽいから嫌だと、沢木は友達や女の家に泊まり歩いていた。この日は今付き合っている女の所へ泊る予定だったのだが、急に向こうの両親が来ることになったらしく、行くあてがない、と学食でブツブツ言っていた。 「なあ、お前んとこ泊っていいか」学食のランチサービスの珈琲を飲みながら、沢木が私に聞いてきた。「・・・いいけど、お前はいいのか」あんなことがあったから、私より沢木の方が気にしているんじゃないかと思いそういったのだが、「マジで。悪いな、じゃあなんか買っていこうかな」と嬉しそうな沢木は、私の牽制球に全く気付くことなく、残った珈琲を一気に飲み干した。「お前んとこのおばさん、料理うまいからな。楽しみだ」そう言って無邪気に笑う沢木に問いたかった、『判っているのか? お前が以前したことを』と。ただそんなこと聞いたって煙に巻かれるだけなので、必要最低限の釘だけさしておくことにした。「オヤジ、・・・今日いるぜ」「はは、判ってるよ。なんだよ、まだ気にしてんのかよ。何もないよ、あれから会ってもいないぜ」「いや、別にそういう意味じゃないけど」じゃあどういう意味なのか分からないが、あまりに能天気な沢木を見てると言わずにはいられなかった。久しぶりに沢木が我が家へ来ることになった。公式では二度目。公式とは、私が把握しているということ。考えてみたら、あの時沢木が来たことによって我が家の歯車は大幅に狂わされたのだった。あの時もそうだったが、またしてもやってしまった。沢木の買い物に付き合わされてついぞ忘れていた、家に連絡して許可をとることを。玄関を開け、たまたまそこにいた母の驚く顔をみて思い出したのだった。母は沢木をみるや、驚き、怯え、喜び、興奮、恐怖、安堵、と、どれにも当てはめらないような、それともそれらすべてなのか判らない複雑な表情をしたあと、平静を装いながら言った。「また来たのかい、あんた」「一泊だけお世話になりまーす」明るく元気よく爽やかに、友達のお母さんにする挨拶としては百点だった。ただそれはこの場合には当てはまらない。母は私を見ることもなく、沢木のヘラヘラした顔をじっと見つめていた。「いやあ、突然すみません。実は・・・」と、沢木は今回我が家へ泊まりにきた経緯を説明し出した。母はため息をつくと呆れた顔で、「なんて我儘な理由で泊まり歩いてんだい。人様に迷惑かけるんじゃないよ」 と沢木を叱った。 「はーい」ニコニコしながら申し訳なさそうに頭をかいてみせる姿は、友達のお母さんに言われたら確かにこうなるお手本のようなものだった。だが、この二人は違う。この二人には過去がある。
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この日父は、かなりの酒を飲んだ。沢木からもらった大吟醸などすぐに空にしてしまい、家にあった日本酒やワイン、ウィスキーなど手当たり次第やっつけて、早々にダウンしてしまった。別に父が一人で全部飲んだ訳じゃなく、私や沢木も一緒に飲んでいたのだが、最飲酒量は断トツで父だった。元々酒が好きな父だが、まあまあどうぞどうぞ、と調子よく御酌をする沢木に乗せられ、普段は判で押したように一定の量しか摂取していなかった体がそれに対応しきれず、敢えなくギブアップする羽目になってしまった。呂律の回らない舌で、「私は先に寝るけど、ゆっくりしていってよ」という意味あいのことをおそらく言ったであろう父は、フラフラしながら寝室へと消えていった。私も沢木も結構飲んでいたのだが、まだ飲み足らなかったので、自室へ焼酎のボトル、氷、水、つまみなどを持ち込み、また酒盛りを続けることにした。母は乾杯で一口飲んだきりだったが、父の前で沢木が語る、母の看護時の面白話的なことに突っ込んだりして、会話を盛り上げていた。しかし、父の「何だか息があっていて、夫婦漫才みたいだな」という上機嫌な言葉にマイナス反応をしてしまい、それ以降は突っ込むこともなく、作り笑顔を浮かべながら沢木の好き勝手に話すことを聞いていた。 夜も更けた頃。 私は自分の限界以上に酒を飲んでいた。何故この日はこんなに飲んだのか、今となっては判らないが、凄く楽しかったことは覚えている。沢木ってこんなに面白い奴だったのかと、改めて友を知ったような新鮮な感覚が残っていた。よく笑い、よく喋り、よく共感し。親友とは、かくあるべし、みたいな気持ちになっていたそのとき、自分の不本意な発言が、招かなくてもいい出来事を招いてしまった。口は災いの元・・・。そんな言葉がどこからか聞こえてきそうだった。 「こうしていると、お前とうちの母ちゃんが何かあったなんて信じられないよな」私は濃いめに作った焼酎の水割りを飲みながら、父と同様、呂律が怪しくなってきた口調で沢木へ言った。「もういいじゃん。その話は。だってお前嫌なんだろ、おばさんとの情事を語られたくないんだろ?」 同じくらい飲んでいるはずだが、あまり酔っていない沢木がグラスの氷をカラカラ鳴らしながら言った。 「あ、本当にあったんだったら聞きたくないけどさ、でも結局のところは解らないじゃん。本当にあったのかさ。だって俺見てないもん。お前と母さんがやったとかやってないとか言ってるだけだからさ」 「飲みすぎだぜ」 「いやいや、マジでマジで。だって俺見てないもん」ははは、と軽く笑ったあと、少し真面目な顔で沢木が答えた。「ま、こういっちゃなんだけど、俺は嘘はつかないぜ」「あははは、そう! お前は嘘はつかない。そんなケチな男じゃない。でも、ふざけてさ、俺の母ちゃんと結託してさ、俺を、こう、騙す? みたいなさ、あははは、な、そうなんだろ? 」グラスを空け、更に濃いめの一杯を作りながら私は笑っていた。相当酔っぱらっていた。そんな酔いを吹き飛ばす言葉が、沢木の口から発せられた。
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