2016/03/20 22:57:40
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第二十六章
数日後、待ち合わせ場所の別のバーで待っていると、彼女が扉を開くのが見えました。
カウンター席で小さく手を挙げた私の姿を認めると、彼女は小さな歩幅で歩み寄り、止り木の脇で頭を下げます。
白いブラウスと膝丈の黒いジャンパースカート、腰まで伸びた黒髪をハーフアップにした彼女の姿は、高校生の令嬢が場末の酒場に迷い込んだようにも見えて、およそこの場には似つかわしくない印象です。私は思わず周囲の目を気にしてしまいました。
「こんばんは、その節は大変お世話になりました」
直接、顔を合わせるのは約半年振りでした。
「こんばんは」
「今日は、私の無理なお願いのために貴重なお時間を割いていただいてありがとうございます」
彼女の物腰は、その容姿から受ける印象とは裏腹にとても落ち着いて見えます。むしろ私のほうが慌てふためき、平常心を失っていました。
「いや、それは全然、構いません。えーと、そうだ、飲み物はどうしようか?」
彼女は私の隣に腰掛けると、自然な仕草でワインクーラーを注文しました。
「すいません、こんな不躾なお願いをする席でお酒を頼むなんて。ただ、お酒の力を借りないと最後までお話できる自信がなかったものですから」
「いいよ、ここはお酒を飲む場所なんだから、気にしないで」
「ありがとうございます」
それから、田中君のラグビーの話題などで少し舌の動きを滑らかにした後、ようやく落ち着きを取り戻した私から、本題を切り出しました。
「それで、田中君から聞いた話なんだけど、僕にはどうにも信じられないんだ。普通、いや別に君が普通じゃないっていってるわけじゃないんだけど、一時的に別れていたとはいえ、自分の彼氏から、そういうアブノーマルな行為を告白された場合、怒って別れるか、黙って受け入れるか、どっちかだと思うんです。ところが、君は同じ行為をしてみたいと言う。それは、その、どうしてなんですか?」
「はい、あの、正直言って、自分でもよくわかりません。たぶんあの時は、私の知らないところで気持ちいい思いをした彼を『ずるい』って、ほんと単純な気持ちでそう言ってしまって。でも、そのときはまさか本当に彼が西村さんにその話をするとは思っていませんでした」
「それは彼に対する嫉妬とは違うの?」
「もちろん、そういう部分もあると思います。西村さんの奥様のことは存じ上げませんが、彼がそのとき、その、すごく魅力的な女性と最高の体験をしたと話すものですから」
妻を褒められるのは悪い気がしませんでしたが、それを聞いたときは、やはり、約束を反故にした田中君を腹立たしく感じました。
「それで君が、彼にも自分と同じ思い、嫉妬心を抱かせたいと考えた、としてもですよ。やっぱり、それは随分無茶な提案じゃありませんか。君みたいに若くて可愛らしいお嬢さんが、いくら彼に嫉妬してほしいからって私みたいな中年親父の相手をすることはないと思うんです。君ならもっと若くて格好いい浮気相手を見つければいいだけなんじゃないかい」
私は一番疑問に感じていた点を彼女に投げかけました。
「いえ、それじゃだめなんです」
「どうして」
「西村さん、私と始めて会われたときのこと覚えていますか?」
「ああ、いまどき珍しいくらいに折り目正しい、とても可憐なお嬢さんだと思ったよ」
私は酒の後押しもあって、そのときの印象をありのままに答えてしまいました。
彼女はすこしはにかむような笑顔を見せて続けます。
「私あの時、すごく感激したんです。帰国したばかりで、日本の大学のシステムもよくわからなくて不安ばっかりで。西村さんが親身になって、奨学金以外のことも相談に乗ってくれたのが、大げさでなく涙が出るくらい嬉しかったんです」
そう、彼女は帰国子女の編入生でした。両親は仕事の都合で今もアメリカにいるらしく、初めての土地、初めての日本の大学生活に心細い思いをしていることを聞き、必要以上に便宜を図ったのは確かでした。
それが単なる親切心だけからくるものではなかったことは自分でも認めています。数年前に田中君にも同様の相談をされていますが、彼女の相談に費やした時間はそのときの10倍以上だったでしょう。
「あの夜、マー君からその話を聞いたとき、これまでにないくらいのショックを受けました。頭が一瞬真っ白になった後、すぐにカーっとなって、私が同じことをするのを見たらマー君はどう思うのだろうって想像したときに、真っ先に浮かんでいたのは西村さんのことだったんです」
彼女の大きなアーモンド形の瞳で見つめられ、私は年甲斐もなくドキドキしてしまいました。明らかに動揺しているのを隠すように、ひとつ咳払いをしてから答えました。
「それは、ええと、僕としても、君にそんなことを言われると、どうしていいか」
あほか、俺は。
自分で自分が情けなくなりました。ただ、あまりに突然に、親子ほど年の離れた女性から好意を告げられたことで、どう答えていいかわからなかったのも事実です。
もちろん、ここに来る前は「毅然と、彼女を傷つけないように今回の話は断ろう」そう考えていたのです。いたのですが、迷いもありました。その煩悩が優柔不断な醜態を晒す原因となりました。
「こうなってしまった以上、正直に全部お話します。私と田中君のお付き合いはとても順調だと思いますし、私も今すごく幸せです。でもセックスだけは、どうしても満足できないんです」
女子高生と言っても違和感のない彼女の口からセックスという言葉が当たり前のようにでてきたことに、面食らいました。
「以前に比べれば、そう、西村さんご夫妻とのことがあってからは随分よくなったんです。その前は苦痛でしかなかったのが、今はオルガズムとはいかないまでも快感を得られるようになりました」
オルガズムの発音が、ネイティブすぎて、耳にした瞬間は意味がわかりませんでした。
「それでも、我慢できないほど不満ってわけではなかったんです。ほかは充足してるんだから、セックスのことだけなら些細な問題として受け入れようって考えました。どうしてもオルガズムを感じたいときは、その、恥ずかしいんですが、マスターベーションで事足りましたし」
再び、発音がよすぎて意味を理解するまで数秒を要しました。理解した後は彼女のそのときの姿を想像して、耳まで赤くなってしまいました。
「でも、彼からあのことを聞いた瞬間、我慢できなくなったんです。そして、西村さんとなら、きっと満ち足りたセックスができるんじゃないかって。『ずるい』って口走ってしまったのは、そんな私の思いがあったからかもしれません」
「どうして、僕となら、その、満ち足りると思ったのかな」
「それは、女の勘っていうか。子宮が反応するんです。正直、今の西村さんの指を見てるだけで少し欲情しています」
目の前で清楚な外見の彼女が発する言葉とのギャップに、私は軽いパニックを起こしていました。「なんだ、この娘はなんなんだ。俺の感覚が古いだけで、今時の女の子は皆こんな感じなのか?それともアメリカ帰りだからなのか?」酒量はさほどでもないはずなのに、足元がふわふわして焦点がぼやけはじめるのを感じながら尋ねました。
「もうひとつ聞きたいことがあるんだけど、答えてもらえるかな」
「はい」
「妻も一緒にっていうのは、どういうことなんだろう?妻が承諾する可能性を考えたら、すごくハードルをあげちゃってる気がするんです。あ、もちろん私だけなら即オーケーってわけではないんだけど」
正直に言うと、即オーケーでした。今、この場で彼女に誘われていたら、断る自信はありません。
「西村さんの奥様がそうだったように、私も一回限りって考えてます。でも、奥様に内緒で私と西村さんの二人、あるいは田中君を交えて三人でしたら、ずるずると続いちゃいそうな気がして。それは、絶対避けないとだめだって思って」
その気持ちには共感できる部分がありました。
この前も、仮に妻と田中君が私の目の届かないところで行為におよんで、それを聞かされるだけだったら、疑心暗鬼にかられ、その後妻と絆を深めることはできなかったかもしれません。
「それは、まぁ、わかるような気もします。でも、それと妻が受け入れるかどうかは別問題だ」
「西村さんは受け入れてくださったんですか」
「んん。それは、その、妻と相談してみないと」
ばかっ、ばかっ、ばかーーーーーー。
どこまでも煮え切らない自分に向かって、心の中で叫びました。
「なら、奥様も交えて、もう一度お話しませんか」
「ええと、僕はかまわないけど、大丈夫かな」
私の態度に業を煮やしたのか、突然彼女の語気が鋭くなりました。
「西村さん、いいかげんにしてください。恥ずかしいのを我慢して、ここまで明け透けにお話したのに、その態度。正直、馬鹿にしてるとしか思えません。これ以上、私に恥をかかせるなら、私も考えますよ。今回のお話、イニシアチブを握っているのは私だってこと、忘れないでください」
酔いがまわったのか、少し頬を赤らめ、大きな瞳を潤ませて私に食って掛かる彼女の表情に気圧されながらも、その様子に見とれている自分がいました。
「怒った表情まで可愛らしい」
そう感じながら、同時に「田中君が彼女に押し切られたのも無理ないな」と妙に納得してしまいました。
今にして思えば、この時点で私は彼女の魅力の軍門に下っていたのでしょう。
傲慢ともとれる二十歳前の娘の主張に、何ひとつ反論できないまま、肩をすくめこう答えるほかなかったのですから。
「はい。すいません」