今から20年前の話。俺は小学校5年だった。5年になってからのクラス替えで、俺はあのめんどくさい、荒木唯から解放されて、「やっと今日から放課後に遊べるぞー!!!」と喜んでいた。
その頃、俺は3年から4年の2年間、ただ家が近いから。という理由で強制的に生まれつき足の不自由な、「荒木さんの車いす係」に任命され、俺は放課後に友達とサッカーやドッジボールも出来ず、俺はいつもブツブツ文句を言いながら荒木を家まで送っていたのだった。
いつも荒木は「ごめんね、ありがとう」と俺に言っていたが、俺は荒木の問いかけをすべて無視し、「行くぞ」と「着いたぞ」の2言しか言った記憶がない。
たまに荒木の親が、俺の家に「いつものお礼」ということでお菓子などを持ってきてくれることもあったが、俺はそんなお菓子なんかよりも、ただ放課後に友達と一緒に遊びたかった。俺の小学校3年、4年はそんな感じだった。
そしてクラス替えによって、荒木から解放された俺は、小学校5年、6年という2年間、俺は自由に放課後に遊べる身分となったのだが、6年生の夏休みが始まる前、俺はこの先の人生に大きな影響を与える出来事と直面してしまう。
それは夏休みが始まる最後の授業の日、みんなが帰りの準備をしているときに、隣のクラス(荒木が居るクラス)の女子から、「ねぇねぇ、酒井君。荒木さんが、今日一緒に帰りたいって」と言ってきたのである。
俺は「は?ふざけんな。きもいんじゃ。お前(隣のクラスの車椅子係)が行きたくないから俺に擦り付けようとしてるんだろ」と、そんなセリフを荒木がいる目の前でその女子に言い、俺はすぐその場から立ち去り、明日から夏休み。ということでテンションが上がっている男友達の輪の中に入っていったのだった。
それから長い夏休みはあっという間に終わっていった。
夏休みが明けた時、俺は夏休み明けの最初の登校日、朝の朝礼の時に先生がいったことはこうだった。
「お前ら知ってるな。隣のクラスの事だけど、荒木がお父さんの仕事の都合で、東京へと引っ越した。隣のクラスでは定期的に手紙を書くそうだが、お前らもクラス替えの前とかは荒木と一緒だったので荒木に手紙を書きたいっていう人は、B組の島田のとこに行ってくれ」
と言ってきたのだ。
俺は(え。。。あの時、最後でもう会えないから、俺と一緒に帰りたかったのか・・・なんで?俺と・・?)と思った。俺はそのあと、隣のクラスの島田(元荒木の車椅子係)に、「なぁ・・・」と声をかけると、「話しかけないでよ。最低男」と冷たく突き放されたのである。
聞くところによれば、荒木は常日頃、島田を始めとする一部の中のいい女子に、小学校3年から4年間は、とても安心して家に帰れた。とか、酒井君がいてくれるから悪い男子にいじめられないで済んだ等、そんな俺への感謝の気持ちを語っていたらしい。
そして夏休みが終わったら転校してしまう。という最後の日に、俺に今までの感謝の気持ちを書いた手紙と、ささやかなプレゼントを用意していたとのことだった。
それは島田とは別の女子が預かっていたらしく、俺は数日経って、その現物を手にすることになるのだが、それは俺が当時ハマっていたアニメキャラクターの、筆箱、ペン、下敷き、消しゴム、等の文具用品だった。
そして手紙にはこう書いてあった。
「酒井君。私、夏休みが終わったら東京へ引っ越しするんだ。もう会えなくなっちゃうね。でも、3年生から4年生までの2年間、いつも一緒に帰ることができて、私はとても楽しかったです。あの時の事、覚えている?一緒に車いすでダッシュして笑いながら帰っていた時、いきなり車いすのブレーキが壊れて、車輪が1個動かなくなった時、あの時酒井君は自分の家に自転車を取りに帰ってくれて、私を後ろに乗せて帰ってくれたでしょ。そして車いすもあとでちゃんと取りに行ってくれた
よね。でも荒木君はあの後、私の車椅子でダッシュして壊したっていうことで、(私の)お父さんと先生にも怒られたけど、私には怒られたこと何も言わなかったよね。。あの時の事は私の中でのかけがえのない大切な思い出です。ほんとうにありがとう。夏休みが終わったら私は東京に行ってます。私も頑張るから、酒井君も頑張ってください。」
俺はあれほど、自己嫌悪したことはなかった。涙も出てこなかった。正直、小学校6年の俺の未成熟な精神では、この出来事をどう処理していいかわからなかった。携帯もメールアドレスもない世界の事である。今更何をどうしていいのかもわからなかった。
そして俺は、荒木の事は思い出そうとせず、キャラクターの筆記用具は弟に上げ、、そして手紙は学習机に放置し、気が付けば行方が分からなくなっていた(実は母親が保管していた)
それから俺は中学へと進学し、覚えたのは因数分解ではなく、窃盗。原付を直結する方法、ハサミを使って強制ロック解除する方法。それから他校との喧嘩。そして工場へとシンナーを盗みに入り、逮捕。そして鑑別所。
高校は定時制高校へ進学したが、俺の怠慢な性根で1年目で中退。家庭環境も悪くなってきて、両親は別居。特に母親と仲が悪かった俺は、現場仕事などを寮生活をしながら転々とし、そして最終的には持ち前のプライドの高さから、「俺には現場よりも夜の仕事のほうが向いている」などと思い込み、キャバクラのボーイとして末端の社員として働く。そんな転落人生が待っていた。
そして24歳になった時、(今から6年前)俺は(当時、別居したオヤジが東京で仕事をしていた)実家からとにかく出ようと、オヤジのところに流れ込み、そして東京でも生まれ持っての関西弁を使って「関西弁ホスト」という名目で自分を売り出し、歌舞伎町のさびれた店で、ここでも末端のホストをやっていた。
そしてある日、衝撃的な再会に巡り合ってしまうのだった。
その日、俺は客だった厚化粧のケバい女と朝の新宿でナイト明けで眠たそうにコーヒーを飲んでいた時の話である。調子にのってビルの1階にあるガラス張りのコーヒー専門店で、女と店の愚痴などを言いながらサンドイッチとコーヒーを飲んでいたら、ガラス張りから見える店の前の道路に、20組(車いすと、それを押す人)くらいはいる大量の車椅子集団が俺の視界を横切ろうと遠くから接近してきたのだった。
見た感じ、車いすのなんらかのグループの東京見学っていう感じか、そんな風に見えた。俺は女に「なんかゾロゾロきたぞw」というと、女は「なになに?足の不自由な人の旅行?なにあれ」てな感じで言っていた。
そしてその団体が遠くから店の前に近づいてきたとき、その20組はいる車いす集団の先頭に、自動車いすで自分で運転する、俺と同じ年くらいの、きれいな黒髪で、顔だちの整った美人が、
「今から都庁を見に行きます~!みなさん、邪魔にならないよう、歩道の右側を通ってくださいねー!」と、その車いす集団を指揮(観光案内?)しているのだった。
そして俺は見逃さなかった。その車いすの側面には、名前が書いたステッカーが入っていたのだが、そのステッカーに、「荒木唯」と書いてあるのを!
俺はガバっと!!!席を立ちあがり、思わず店の外に出た。20組の車椅子集団はもう俺の目の前は通り過ぎており、俺からは歩いていく背中しか見えなかった。
ただ、その車いす集団は旗を持っていて、その旗に「自助グループ 〇〇育英会」(仮名)と書いてあるのを見逃さなかった。
(え、、もしかして。。。あの荒木か・・・? まさかな・・・・)と俺は驚愕した。背後で女が、「何急に出て行ってからさー。コーヒー代おごらせようって魂胆だろ。結局はらちゃったけど・・」と背後で何か言っていた。俺は「うるさい」と言って、俺は複雑な、、そんな小学校6年のあの時に似た感覚を持ちながら、俺は一人暮らしの家へと帰っていった。
そして俺はネットで「自助グループ 〇〇育英会」を検索している俺がいたのだった。
つづく