「さあ、散歩はまだ終わってないわよ」
陽子はスマホをポケットにしまうと、再びリードを引いて歩き始めた。
俊雄は四つん這いのまま、その後をついていく。
陽子の足は、エレベーターホールの方角へ向かっていた。
総務部のフロアを抜け、廊下に出たところで、俊雄の胸にふっと不安がよぎる。
(えっ、どこまで行くの?)
総務部のフロアには、もう誰もいなかったからよかったけれど、経理や営業のフロアには、まだ人が残っているかもしれない。
陽子は、そんな不安を見通しているかのように、何も言わずに廊下を進んでいった。
カツン、カツン。
陽子のヒールの音と、リードの金具がかすかに触れ合う音だけが、やけに大きく響いた。
俊雄は、這うたびに床に当たる自分の手の音まで気になってくる。
やがて、エレベーターホールに出た。
そこには誰の姿もない。
灯りだけが白く落ちていて、閉じた扉が四枚、黙って並んでいる。
「静かね」
陽子は、閉じたエレベーターの扉を一通り眺めてから、ぽつりと言った。
ふと顔を上げると、エレベーターの階数表示が目に入った。
「6」の数字が赤く灯っている。
ピッ。
「5」に変わる。
(誰か、降りてくる……?)
陽子が、かすかに笑ったように見えた。
リードが、ぐいと引かれて俊雄の首元に食い込む。
ここで扉が開けば、隠れる場所はどこにもない。
俊雄は、頭上の小さな数字と、陽子の横顔を交互に見上げていた。
ピッ。
「4」。
その時、陽子が何気ない仕草で「3」のボタンの方へ手を伸ばす。
(押すな、押さないでくれ……)
祈りを面白がるように、陽子はゆっくりと俊雄を見下ろした。
目が合った瞬間、俊雄の中で何かが反転する。
ボタンを押されてもいい、とふいに思ってしまう。
(陽子様。……押しても、いいですよ)
俊雄の気持ちを見透かしたかのように、一瞬、陽子の指が動いたように見えた。
俊雄は、覚悟を決めて目を閉じる。
しばらくの静寂のあと、そっと目を開けると、「1」のランプが赤く灯っていた。
陽子は、安堵とも期待外れとも取れる俊雄の表情を見て、口元だけをわずかに緩める。
「押して欲しかった?」
俊雄は、言葉が出てこない。
「まだ、誰かいるみたいね。階段にしましょうか」
陽子はリードを軽く引くと、ホールの端にある階段の扉へ向かった。
金属製の扉が、ゆっくりと開いていく。
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