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1:ヴァギナビーンズ症候群
投稿者:
いちむらさおり
2012/07/29 23:37:55(KzYa21/F)
投稿者:
いちむらさおり
『ヴァギナビーンズ症候群』
1 彼女の興味はすでにショーケースの中に注がれている。 その隣にいる背の高い結婚適齢期の男性は、さり気なく上着の内ポケットに袖を差し込み、ボディーガードさながらの物腰をくずそうとはしない。 「どれでも、千佳ちゃんが好きなのを買ってあげるよ。誕生日は明日だったよね?ええと、いくつになるんだったかな。二十……」 「二十三です。けどいいんですか?なんだかやっぱり悪いような気がするんですけど」 「それは僕に対しての遠慮なのかな?それとも……、お姉さんのことを思って言ってる?」 橘千佳(たちばなちか)は本心をさとられまいと細心の注意をはらいながら、偽りの憂い顔で彼を見返した。そして少し取り繕うように微笑んでごまかしてみせる。 「そんな顔しないでくれよ。明日はずっと一緒にいてあげるからさ」 「三上さんは誰にでも優しいんですね」 「よせよ。ほんとうに優しい人間なら、婚約者に隠れて、その妹とこんなふうに会ったりはしないだろう?」 「やだ、誰かに聞こえちゃいますよ」 その時彼は少女漫画でよく見かけるきらきらした瞳を、実写として目の前で見てしまったのだろう。 彼女の可愛い思惑にまんまとしてやられた三上明徳(みかみあきのり)は、きみさえ良ければいつでも僕を頼るといい、罪なら僕がぜんぶ被ってあげるからと、堂々と自惚れていることにも気付かない。 そのすべては千佳の計算通りであり、同時に姉への裏切り行為でもある。 最初に姉から三上明徳のことを紹介された時など、歳の離れた兄ができた程度にしか思っていなかった。 それから何度が顔を合わせるうちに、彼のほうが自分に特別な感情を抱いているのではないかと、千佳は薄々感じるようになっていった。 しばらくして、三上明徳と婚約したのだと姉から聞かされた時は、千佳は二人のことを心から祝福し、それまでの彼の言動が自分の勘違いだったのだと思い直す。 はじめから恋愛感情も湧いてはいなかったから、気持ちの切り換えをする必要もなかったのだけれど、ある時を境に、どんな食事にも味がしなくなるのだった。 「欲しいものは決まったかい?」 明徳の紳士的な眼差しが、千佳のまるみのある横顔を捉えている。 「いちばん欲しいものは我慢しなきゃね。だって、三上さんはお姉ちゃんの──」 それ以上は言いたくないのか、千佳は言葉を詰まらせて何度も瞬きをしている。 そんな彼女がたまらなく愛おしい。長身の彼は小柄な彼女に寄り添い、姉妹のあいだで揺れ動く気持ちを持て余していた。 それはやはり千佳が味覚に異変を感じはじめたのと同じ時期に、明徳の良心にも縫い針で刺したような痛みがあらわれはじめていたのだった。 若年の二人はショーケースに映りこんだ互いの顔を見つめたまま、恋の火種となった出来事を思い返してみる。 あの日、彼は私を抱きしめてくれた。もう引き返せそうにない、橘千佳はそう思った。 あの日、彼女は僕を抱き返してくれた。もう後戻りできそうにない、三上明徳はそう思った。 * 「ねえ、たまには三人で飲まない?女子会に使えそうなオシャレなお店、見つけちゃったんだよね」 橘千佳の姉、琴美(ことみ)からそんなふうに提案があった時から、何かが起こりそうな予感がしていたことを二人は思い出す。 琴美の誘いを断る理由を、明徳と千佳は持ち合わせていなかった。というより、前向きな気持ちのほうが強かったと記憶している。 「僕が参加したら、女子会とは言わないんじゃないか?」 「だったら女装でもしてみる?」 「よしてくれよ。僕にそんな趣味はない」 「素材はわるくないと思うんだけどなあ」 ははは、と笑う時にさえ息が合う二人を見ているうちに、千佳の心に純真ではないものが染み出してきていた。白でも黒でもなく、それはまだ灰色の感情だったのだろう。 「どうせならどちらかの部屋で家飲みしたらどうかな。お姉ちゃんの手料理のほうが外で食べるより美味しいし、ほら、三上さんだって未来の花嫁の腕前を見ておきたいですよね?」 まさか自分の口からそんな台詞が出てくるなんて、誰より千佳自身がいちばん驚いていた。「どちらかの部屋」というのは、三上明徳が一人暮らしをしているアパートもしくは、橘姉妹が二人で借りているアパートで、という意味である。もちろん何らかのアクシデントが起きることを見越しての発言でもあるし、「それがいいかもね」と言ったときの彼の笑顔に無条件の愛くるしさがあったのを、千佳が見逃すはずがなかった。 自分はこの人のことを好きになってしまうのではないか。そんなまさか……、絶対にありえない。姉の彼氏に好意を持つ妹なんて、私は軽蔑する。 きれいごとを言えばそうやって諦めたふうに装えるけれど、恋に落ちた友人達が盲目になっていくところを何度も見てきた千佳にとって、自分も例外ではないと自覚していくことになる。 「明徳さんがそう言うなら、新妻の予行演習がてらに、今回は私が腕を振るいますか」 琴美は得意げに小鼻をふくらませて、家事とは縁のなさそうな細い指をスナップさせた。 二つ歳の離れた姉を誘導することに成功した千佳と同様、明徳にも下心らしき欲求が芽生えはじめていたのだが、なにも知らないのは琴美だけ。 ランチタイムのファミリーレストランでの企画会議を終えて、「ここは私が」と琴美が伝票を手に席を立つ。 少し遅れて千佳と明徳が腰を上げると、彼のシャツの裾を千佳がくいっと引っ張った。 どうかしたのかという表情で明徳が振り向けば、上目遣いの千佳が息苦しそうな挙動をあらわしている。 「どうかした?」 今度は声に出して尋ねてみる明徳。 「シャツに糸くずがついてたから」 嘘をつくと瞬きが増える千佳。 「ありがとう、千佳ちゃん」 男性のさり気ない笑顔にこれほどまで胸を締めつけられるとは、恋愛経験の少ない千佳には新鮮な刺激だったにちがいない。 ふわっと体温が上がったかと思えば、胸が詰まって頬の内側が酸っぱくなる。 果たしてこれはレモン何個分になるのだろうかと、火照った頭で分析をしてみるけれど、これは無駄に終わった。 「きみが言いたかったことは、なんとなくわかったから」 店の駐車場に停めてあったRV車の運転席側から顔をのぞかせ、明徳は白い歯を見せてそう言った。 「え、私なにか変なこと言った?」 琴美には何のことだかまったく覚えがない代わりに、彼女の後ろに佇む千佳には彼の本意がどこにあるのか見当がついていた。 不意に、清楚なワンピースの裾が風にあおられ、琴美の素足が膝上まで露わにされたというのに、明徳の視線はその背後の千佳を捉えたまま離れられないでいる。 さすがに血を分けた姉妹だけのことはある。しかしこれはかなり厄介な問題に遭遇してしまったようだ。僕はこの二人に対して平等に心を許し、最終的にはどちらか一人を選ばなければならない。不器用な自分にそんなことが出来るとはとても思えない。やっぱり僕は恋愛なんかには向かない人間なのだろうか。 まだ三角関係が成立していないうちからそんな皮算用をしている明徳のことを、姉のほうは曇りのない笑顔で見送り、妹のほうは物恋しい眼で追っていた。 * この数日後、それぞれの事情を抱えた三人は、橘琴美、千佳姉妹が暮らす賃貸アパートの部屋で合流し、打ち合わせ通りに琴美の手料理で三上明徳をもてなした。 * 『ヴァギナビーンズ症候群』
12/07/29 23:54
(KzYa21/F)
投稿者:
いちむらさおり
『ヴァギナビーンズ症候群』
2 アパートのつくりは一階と二階に分かれたメゾネット形式になっていて、一階部分にある和室を千佳が、それから二階部分の洋間一部屋を琴美が保有していた。 もちろんキッチンなどの水回りは一階部分にあるわけで、視たいテレビ番組があると言う千佳のわがままと、導線を考慮した結果、千佳のプライベートルームに酒の席が設けられることとなった。 「見た目は普通の唐揚げなのに、うまく化かしたもんだな」 「それってもしかして、褒めてるつもり?」 「もっとわざとらしいコメントのほうが良かったかな。鶏肉はジューシーで柔らかく、噛めば噛むほどにんにくと香草の風味が口いっぱいにひろがって、サクサクの衣とも相性がいいね」 「まったく素直じゃないんだから。美味しいの、美味しくないの、どっち?」 「最高」 そう言って親指を立てながら肉を頬張る明徳のそばで、本日の料理長でもある琴美はさっそく照れてしまった。 彼女にしてみれば今すぐにでも彼と同棲をしたいところなのだが、嫁入り前の娘だからなどと古臭い考えに縛られている親の反対がある以上、それは挙式が無事に終わるまでの夢物語になってしまったのである。 妹の千佳と一緒に住まわせているのも、都会での女性の一人暮らしがどれほど危険なことか、用心してもし過ぎることはないという親として当然の思いがあってのことだ。 「実家を離れれば、どこに出たって都会みたいなものよ」 自分の就職が決まってから、母親がよくそんなことを口にしていたなと、琴美はふと思い出す。 「三上さんはいつも何を飲んでいるんですか?」 すでに二本目に突入したカクテルの缶を片手に、千佳は顔色も変えずに尋ねてみた。 「僕はだいたいビールだなあ。生ビール、と言いたいところだけど、発泡酒が正解かな。まあ、それなりに酔えれば何だっていいのさ」 「じゃあ、お酒は強いほうなんですね。私もお酒は好き」 最後の「好き」という部分だけ微妙にイントネーションを変えて、千佳は明徳の顔をうかがう。彼からの反応はとくにない。 「そういえば琴美はアルコールに弱いんだったな」 「嫌いってわけじゃないんだけど、少し飲んだだけでもすぐに酔っちゃうから」 「お姉ちゃんは飲むより食べるほうが好きなんだよね?あ、こっちのシーザーサラダも美味しいよ」 「でしょう?料理好きなのだけは、お母さんに似たんだよね」 「私のお酒好きは、お父さん譲りかもね」 「やっぱり女兄弟がいるっていうのはいいな。賑やかだし、ほら、男ばかりだと暑苦しいだけだしさ」 明徳が胡座(あぐら)をくずして後ろに仰け反る。そして缶ビールを一口あおって残りをテーブルに置いた。 「私も一口、いいですか?」 その明徳の飲みかけのビールを味見してみたい千佳。ラベルには『期間限定』の口説き文句が印刷されている。 なるほどこういうのに女の子は弱いんだなあと、明徳は千佳のことを推察していた。 彼から「どうぞ」と渡された缶ビールを手にしてみて、なぜだか急激に胸が高鳴っていくのをおぼえる千佳。完全に異性を意識した動揺が、彼女の体を緊張させようとしていた。 たかだか間接キスぐらいで、なにを今さら躊躇っているのか。 セックスでもなければキスでもない、姉の目の前で彼とおなじものを飲むだけの行為に、明らかに不純な興奮を隠しきれないでいる。 そして明徳の様子を見てみれば、すでに彼は千佳が先ほどまで口をつけていたカクテルに手をのばし、あたりまえのように飲むのだった。 「僕にはちょっと甘すぎるな」 そんな彼の無神経さも手伝って、千佳は思い切って缶ビールを飲み干した。 「苦味が抑えられてて、飲みやすいですね」 そう言ってはみたものの、正直なところほとんど味はしなかった。飲み口に自分の口紅の跡を見つけて、指で軽くぬぐい取る。 これで一歩近づけた、そう思うとまたたまらなく明徳に触れたくなく千佳だった。 琴美も飲めないなりにアルコール度数の低い酎ハイをちびちび舐めては、女シェフを気取ってキッチンと和室を往復している。 「それにしても綺麗に片付いているね」 ぐるりと首をまわして明徳が部屋中を見渡すと、額縁におさまった表彰状やら、金銀のトロフィーなどが壁際に並べられているのに気付く。さらに弦楽器のハードケースも見つけた。 ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、それら四弦楽のうちのどれかだということはシルエットから想像できる。しかし、そのクインテットを背の高い順に並べろと言われたら、そのあたりの知識に欠ける彼にとっては、とうてい無理な話なのである。 「小学校に上がるまえからヴァイオリンを習ってたんです。ぜんぜん上手くならないですけど」 謙遜しながら千佳は言った。 「上手くなくてもこんなに賞をとれるのかい?」 「もう過ぎたことです。今は何の取り柄もなくなっちゃって、男を見る目もないんですよ私」 「彼氏はいないの?」 「じつは二股かけられてて……。だからこっちから振ってやりました」 「今はフリーってわけか。こんなに可愛いのに、もったいない話だな」 「え……?」 明徳はとくべつ込み入った話をしているふうでもないのに、千佳のほうはまるで違う。 「可愛くないですよ、べつに……」 「僕なんかに言われても嬉しくない、か」 彼に返す言葉がない。咄嗟に「ありがとうございます」と言ってはみたものの、余計に変な空気になってしまった。 ちょうどそこへ琴美がやって来て、ラストオーダーは締め切りますよと言い、ようやく腰を落ち着けた。 「なんの話してたの?」 少し酔った顔で琴美は明徳に擦り寄る。 「千佳ちゃんも琴美に似て可愛いねって話してたところだよ」 「この子、最近彼氏と別れたばかりだから、誰かいい人いたら紹介してあげて?」 「お姉ちゃん。私のことはいいから、ちゃんと三上さんのことだけ見てなきゃだめだよ」 「千佳をおいて私だけ幸せになってもいいの?」 「私は、お姉ちゃんと三上さんを見ているだけで幸せなんだから」 「千佳……」 琴美は鼻が詰まりそうになるのをこらえた。 「お姉ちゃん、また泣いてる」 「泣いてないってば」 「あれ、千佳ちゃんも泣いてるの?」 そうして涙ぐむ二人を茶化す明徳。 「泣くなとは言わないけどさ、ちゃんと結婚式の日に泣けるようにしておいてくれよ」 明徳に言われ、琴美も千佳も泣きながら笑っていた。 * どれくらい談笑していただろうか。琴美はぐったりと酔いつぶれて、ソファの上で静かな寝息をたてている。妹の千佳は手に泡を作って食器を洗っているところだ。 今夜はさすがに飲み過ぎたのだろう、明徳も途中でビールを辞退して、今は烏龍茶をやりながらアルバムを眺めている。千佳が初めて賞を貰ったときの、ヴァイオリン演奏会の様子をおさめたものだ。 「あんまりじろじろ見ないでください。恥ずかしいから」 洗い物を終えた千佳が髪からゴムをはずして、明徳と距離をとって座る。 ゴムの跡がついたところだけ少し巻いているが、その長い髪は彼女の魅力を膨らませるにはちょうどいいボリュームを備えていた。 「小さい頃とほとんど変わらないね。いい表情してるし、よく撮れていると思うよ」 「お父さんに撮ってもらったんです。そのときの賞状なんかもほんとうは実家に置いてきたんですけど、親が勝手に送ってくるんです。どう思います?」 「どこも似たようなものさ。子どもはさっさと親離れできるのに、親はなかなか子離れできない。結婚してからもそれは変わらないと思うよ。親子はいつまでたっても親子だからね」 明徳の口から「結婚」という言葉を聞くたびに、千佳の心には微量な嫉妬が堆積していった。 なにかのきっかけがあったなら、それはたちまち千佳自身を飲み込んでしまうほどのエネルギーを溜めていたのだろう。 姉と明徳を別れさせたいわけじゃない。少しだけ彼の気を引いて、今の関係よりも前進させたいだけ。片思いでもいいから彼のそばにいたい、それが千佳の本心だった。 「そういえば、視たいテレビがあるんじゃなかったっけ?」 そういえばそうだったと、千佳は慌ててリモコンのスイッチを押す。 まもなく大きな液晶は作動音もたてずに映像を映し出し、目当てのチャンネルにたどり着く。 眠っている姉を気遣い、そろそろと音量を下げる妹。 ドラマはすでに重要なシーンに差しかかっていて、別れる、別れないと言う男女の台詞が聞こえてきた。 そして現実逃避にも似た表情を浮かべた女は、ついに男の唇を受け入れてしまう。 お互い家庭を持つ身でありながら、それぞれの素性を偽り、その歯肉にまで舌を入れてキスをする。 まさかこんな場面を明徳と見ることになるとは、千佳にはまったく予定外だった。 気まずいと思えば思うほど、さらに気まずくなる二人。 なにか笑えるような話題でも持ちかけてみようと、千佳が明徳のほうを向いた時だった。そこにはもう視界いっぱいにまで彼の顔が迫っていて、おそらく千佳は『うっかり』していたに違いない。 およそ十秒間、いや、それよりもっと長いあいだがあったかもしれない。 明徳の意外な行動に、千佳は呼吸をするのも忘れていた。そしてゆっくりと自分から離れていく明徳に焦点が合うと、その感触が残ったままの唇に千佳は指を添える。 「あ……」 ようやく声らしい声が出た。 「あの……、これって……、何なんですかね……」 感情が溢れ出る前の静けさというものが、彼女のその言葉から読み取れる。 「何って、キスだよ」 こんな時にも明徳は紳士を貫く姿勢をとる。そして彼はもう一度、千佳の唇を奪った。 好きだと言う代わりに、上唇と下唇にだけ神経を費やし、性器同士を密着させるみたいに彼女の口を塞いでいく。 千佳は抵抗しなかった。どんなに目頭が熱くなっても、わけもわからず涙がこぼれても、この状況が理解できるまでずっとこのままでいようと思った。 琴美が眠っているすぐそばで、明徳と千佳は何度もつよく抱きしめ合った。 * 『ヴァギナビーンズ症候群』
12/07/30 00:28
(59Q6AFtt)
投稿者:
ハニー
◆6vL./pYpzY
人は、幸せの中に身を置くと心が麻痺して何が本当の幸せなのか分からなくなる。
人は、不幸せの底に堕ちた時優しさにすがり付きたくなって、それの優しさを独り占めしたくなるもの。 二人とも奈落に堕ちて行くのかな?それともお姉さん踏み台にして幸せになるのかな? とっても面白かったです♪
12/07/30 08:07
(57xS2Ror)
投稿者:
いちむらさおり
『ヴァギナビーンズ症候群』
3 翌朝、橘琴美は妹の部屋を訪れていた。 夕べの記憶がすっかり抜け落ちているということは、先に酔いつぶれてしまった私を彼が部屋まで運んでくれて、それからは千佳と二人きりで飲ませてしまい、つまらない思いをさせていたのだなあと、琴美は申し訳ない気持ちでいた。 だからこうして朝早くから謝りに来てみたのだが、千佳は寝相を乱しながらも熟睡中の様子。 おや、これはなんだろう、と千佳の枕元に見つけたものは、開いたままになっている日記帳だった。 どうやら千佳は最後まで書き終えるまえに眠ってしまったようだ。その綺麗な筆跡を目で追う琴美。 『私は、好きになってはいけない人を好きになってしまった。彼はわるくない、わるいのはきっと私。こんなことなら会わないほうが良かったのに、出会ってしまった事実はもう消せない。会いたい、会いたい、会いたい。どこに行けば二人きりで会えるの?誰からも干渉されたくない。誰も傷つけたくない。もちろん私自身も傷つきたくない。どうかこんな私に夢を見させて欲しい。そうじゃないと私は大切な人を──』 日記はそこで終わっていた。 文字のところどころが滲んでいるのは、きっと涙が落ちた跡なのだと琴美は思う。 それに丸めたティッシュペーパーが二つ三つ転がっている。たぶん涙を拭うのに使ったのだ。 「千佳……」 自分の妹が恋愛のことで悩んでいるというのに、ふさわしいアドバイスがなかなか浮かんでこないのは、おそらく自分が永久就職という場所に甘えている証拠なのだろう。 それでもなんとか彼女にも幸せを手に入れて欲しいと願わずにはいられない琴美だった。 * 千佳が目を覚ましたとき、姉の姿はどこにもなかった。 結婚前の忙しい時期にいる身でありながら、市役所勤めに愚痴のひとつもこぼさない、そんな姉が千佳の誇りだった。 千佳の会社はそこそこ名の知れた程度の文房具メーカーで、まだまだ高校生活の延長のような気分が抜けないまま、社内の同僚に連れ回されては、あらゆる分野の飲み会に顔を出す日々。 だからといって派手な生活をするでもなく、身の丈に合った金銭感覚と、欲の浅い恋愛観だけは常に保っていた。 そこに現れた三上明徳、彼の存在が千佳にとっての分岐点になったのは、言うまでもなく千佳の一目惚れに他ならない。 そんな彼との夕べの出来事が、まだ現実のものだとは思えない。 あのキスはいったい何だったのか。 昨夜は明徳が帰った後もなかなか寝付けず、一線を越えられなかった火照る体をベッドに投げ、途方もなくオナニーを求めたのだった。 けれども自分の体のどこをどう触れば快感が脳につたわるのか、そのあたりはまだまだ初心者だし、俗に言う『イク』とはいったいどんな感覚なのか、はっきりした自覚もない。 もちろんセックスは経験済みだ。痛いばかりの挿入に泣いたこともある。 相手が下手なのか、自分の体が未開発なのか、どちらにしてもセックスが気持ちいいと思ったことは一度もない。 しかし夕べのあのキスは違った。あのまま彼に押し倒され、ズボンの中のものを挿入されていたら、おそらく自分は女としての悦びに震えてしまっただろう。 なぜならあのキスの最中、女性器の奥から漏れてくる下り物には不快感がなかったのだから。 事実、あとでショーツの濡れた部分の匂いを嗅いでみたけれど、それは異臭とは程遠いものだった。 セックスがしたくなると女の体は恍惚に染まり、膣が濡れる。 千佳の場合はそれだけではなく、生理不順になるほどの恋愛体質になってしまっていた。 「おっぱいが張っちゃうんだ」「先月は生理が来なかったのに、今月は二回も来ちゃって」みたいなことを友人にも度々こぼしたり。 極めつけは「何を食べても味がしないんだけど」と打ち明けたことだ。 恋の病、みんなが口をそろえてそう言う。 「最近元気ないね。悩んでるなら私が相談に乗ろうか?」 千佳のことをいちばん近くで見ていた姉の琴美は、妹の表情が日に日に沈んでいくのを心に掛けていた。 「大丈夫、私ひとりでなんとかなるから」 「隠し事はなしだよ」 「うん、ありがとう。ごめんね、心配かけさせちゃって」 お姉ちゃんの婚約者のことが好きになった、だから私はこんなにも悩んでいる、なんてこと言えるわけがなかった。 あのキスをした日以来、千佳は明徳とは会っていない。彼からモーションをかけてくることもない。 あのときは二人とも酔っていたし、適当に盛り上がりたかっただけかもしれない。 彼は姉のことを愛しているのだから、私なんかに気持ちを傾けている余裕なんてないはずだ。 それに、私が彼を誘うような眼をしていたから、きっと彼も勘違いしたのだろう。 千佳は無理矢理にでもそう思うことにした。 次の月経は予定通りに来た。少しずつだが味覚も戻って、夢枕に明徳を思うこともしだいに減っていく。 琴美と明徳の結婚披露宴で述べる予定のスピーチにも、前向きな言葉が目立つようにもなってきている。 この分ならあと数日もすれば熱もすっかり冷めて、新しい恋に挑めるにちがいない。 千佳がそう切り替えようとしていた、まさにそのタイミングだった。 * 『ヴァギナビーンズ症候群』
12/07/30 23:57
(59Q6AFtt)
投稿者:
いちむらさおり
『ヴァギナビーンズ症候群』
4 今日の空模様は雨のち晴れだと、予報ではそんなことを言っていた。 土曜日の朝、橘千佳は落ち着かない様子で衣装ケースやクローゼットの中を引っ掻きまわし、これから着て行く服を決めかねている。 雨ならこっち、晴れならこっちと思っても、会う約束をしている相手が相手なだけに、個人的に気合いが入ってしまうのも可愛げがあるのかなあとも思う。 今朝、姉の琴美は千佳よりも早くに起床し、「夕方には帰るから」とだけ言い残して出掛けて行ったのだった。 毎月市役所が発行しているフリーペーパーに載せる記事を企画したり、それに伴う取材なども琴美が引き受けている。 どちらかといえば、こども家庭課の窓口に立つよりも、そちらのほうがメインになっていると言っていい。 なかなか首を縦に振ってくれない先方から、ようやく取材許可が下りたのだ。 「急な仕事が入ったから、ごめん、私の代わりに行ってきて。この埋め合わせはかならずするから」 琴美がそう言ってきたのが二日前。それでも千佳は嫌な顔ひとつ見せずに、二つ返事でオーケーした。 「もうこんな時間。どうしよう、来ちゃうよ、やばいやばい」 軽いパニックと独り言、それから足の裏がくすぐったいような夢見心地も、千佳には久しぶりの感覚だった。 しばらくしてアパートの外で車のエンジン音が途切れ、それから間もなくチャイムが鳴ると、玄関ドアの外に感じる気配に千佳の心臓はいよいよ止まりそうになる。 ドアを開け、その人物を部屋の中に招き入れた。 「おはよう、千佳ちゃん」 「おはようございます。あの、あと少しで準備できるんで、えっと、何か飲みますか?コーヒーがいいですよね。アイス、アイス、ミルクとシロップどこだったかな──」 緊張を隠すための笑顔をつくりながら、千佳は早口でしゃべりつづける。 三上明徳は至ってクールだ。 「どうぞおかまいなく。なんだか朝早くに目が覚めてさ、そしたら今度は眠れなくなっちゃって。修学旅行の前日じゃあるまいし、笑っちゃうだろう?」 「あ、それわかります。だって私も夕べはなかなか寝付けなくて、羊一万匹も数えちゃいましたから」 千佳の悪ふざけから出た冗談で、二人の笑顔が打ち解けていく。 彼女が羊なら僕は狼で、だとしてもいざという時までは牙を隠しておかなければならないのだと、明徳は思った。 久しぶりに会う千佳はずいぶんメイクも上達していて、エチケットが行き届いたその姿は清潔感に溢れ、性的対象として見ていいものかどうかもわからなくなる。 それほど明徳の心は波立っていた。 「千佳ちゃんだって忙しいのに、僕らのことに付き合わせてしまってごめん」 「私のほうこそ、お姉ちゃんの代わりになれるかどうか」 「そんなことより、僕と千佳ちゃんはどういうふうに見えるだろうね。新郎新婦でもなければ、恋人同士でもないし」 そんなに否定ばかりしなくてもいいのに、と千佳はちょっぴり胸が痛くなった。 そして明徳が咳払いをして「だけど迷惑かけてるのは事実だし。あらためて……、今日一日、千佳ちゃんを僕に貸してください」と言うと、サプライズゲストを見るような表情で「はい」と千佳は頷いた。 ほんとうは今日、明徳と琴美のふたりで結婚式場に行く予定だった。披露宴で出される料理の試食会の為だ。 それなのに琴美は取材の仕事を優先し、その代わりとしてピンチヒッターにふさわしい千佳を送り出したのだ。 こんな巡り合わせがそう何度も訪れるわけがない。 根拠のない自信が千佳の背中を押したり、そして時には引くことも必要なのだと囁く。 「そういえば……、あの時の僕はほんとうにどうかしていたよ。もう忘れてくれていいからさ」 明徳が仄めかしている事が何なのか、千佳にはすぐにわかった。わかった上でこの難解な感情をどうぶつければいいのか、それを解く鍵を彼に求めた。 「三上さん……」 「何だい?」 「あのキスの意味を……、私に教えてもらえませんか?」 * どうしてこう私の人生はツイてない事ばかりなのだろう。ツイてる事といったら三上明徳と出会って婚約までたどり着けた事ぐらいだと、橘琴美は胸のあたりを気にしながら口を尖らせている。 今日は取材が二件も入っていた。肩掛けのバッグには取材用のツールもいくつか入っていたが、そんなに重いものでもない。 それを抱えた拍子に体のどこかで何かが切れる感覚があり、それがブラジャーのストラップだということに気づく。 新しい下着を買っている時間もなく困り果てたが、結局あきらめて人目のないところでブラジャーだけを抜き取った。 まさかノーブラで取材することになるなんて、なんだか落ち着かないな……。 けどまあ、おっぱいが仕事するわけでもないし、これは企業秘密にしておけば誰にも迷惑かからないだろう──などと大胆なことを考えながらも、キャミソールの生地は琴美の胸の先端をこすっている。 顔には出さないものの、生理的な反応は明らかに琴美の貞操を脅かそうとしていた。 オープン間もない洋菓子店の駐車場は、開店早々すでに満車の状態だった。 琴美は仕方なく車を路上駐車させると、捲れた分のスカートを伸ばしてアスファルトに降りる。 シャンパンピンクに輝くコンパクトカーのボディーに、いまにも雨が降り出しそうな空が映っている。 明徳と千佳は無事に結婚式場に着いただろうか。私の勝手で振り回してしまって、私の悪口を言ったりしていないだろうか。 琴美の注意は自分の胸から逸れて、残してきたあの二人に向けられていた。 その洋菓子店には『シュペリエル』というフランス語の名前がつけられていて、店の外にまで溢れるほどの客の行列がその盛況ぶりを象徴している。 看板メニューは、ヴァニラ・ビーンズをたっぷり効かせたカスタードプリンらしい。 様々な客層に当たり障りのない質問をしながらメモを取る琴美。 誰に嫌な顔をされることもなく、男性客の中には逆に琴美に質問を返してくる者もいる。 彼女の容姿と人柄がそうさせていることは、そこにいた誰もが認めていたようだ。 「ネットで調べて県外から来ました」と言う女子大生グループもいれば、「自分へのご褒美に」と微笑む主婦、「彼女に頼まれて代わりに並んでます」なんて苦笑いの若い男性まで、個々の事情とスイーツとの関係について妄想を膨らませるのもまた面白い。 ある程度の情報が揃ったところで、今度は店のスタッフから話を聞くことにした。 こちらは事前に交渉を済ませてあった為、半ば私情を挟みながらも甘党談議は大いに盛り上がった。むしろ盛り上がりすぎたかもしれない。 二件目の取材の時間が迫っていたことに気付いたときには、遅刻を覚悟しなければならなかったのだ。 カスタードプリンを手土産に店の外に出ると、低い空から雨が降っていた。 できるだけ濡れまいと琴美は車まで走ってみたが、服もスカートも予想通りの有り様になった。 ふうっと溜め息をついてバッグからハンカチを取り出し、そこらじゅうの濡れた部分を拭く。 若い女性の濡れた姿に欲情するのか、目の前を行き過ぎる男性の誰もが車内の琴美に向かって色目を送っていく。 男の人はみんなそうだ。どうせ家に帰ったら勝手に妄想をふくらませて、私のヴァギナやクリトリスを常識の外にまで成熟させたり、簡単にイク女に仕立て上げようとするに決まってるのだから。 琴美は不愉快な気分をお腹に溜めたまま、雨足の強くなった中を車で走り出した。 * 『ヴァギナビーンズ症候群』
12/07/31 00:18
(TLoryhAv)
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