はじめに:沼崎論文をめぐって> 沼崎一郎氏は、論考「孕ませる性の自己責任」(1) において、これまで見逃されてきた男性の「孕ませる性」としての暴力性を直視した。そして、中絶問題を障害者問題と安易に結びつけるような、過度に抽象化した中絶論議の問題点を明確に指摘し、また、女性の自己決定権の主張のもつ意味と重要性を歴史的な文脈で捉え直した(2)。本稿では、沼崎のこれらの主張に基本的に賛同したうえで、あえてその限界を指摘し、議論の批判的発展を試みたいと思う(3)。 とりあえずの疑問点は3つある。 第一に、沼崎は孕ませる性としての男性の責任のみを強調しているが、避妊に対する女性の責任を問わなくてよいのかという点である。もちろん、これまで女性側の避妊責任ばかり問われてきた歴史にバランスを取り戻す必要はある。しかし、過度に男性の責任を求めることは女性を脱主体化することにつながりかねない。女性側の責任を理論的に空白にするのではなく、男性と女性でどう責任をわけあっていくか、その負担の範囲を考えていくべきではないのか。これは、第二点に直接関わる。 第二は、孕ませない責任をどう実体化しうるのかということである。個々の男性の自覚を待っていられない現状が、女性には存在する。孕ませた責任さえとらない男性が多い中、「孕ませない責任を自覚しよう」というかけ声だけでは困るのである。どうすれば男性が孕ませない責任を実行するようになるのか。メンズムーブメントの意識覚醒グループをこえて、一般男性の認識をどう変革させるのか。男女をめぐる文化のあり方をどう変えるのか。例えば、新たな法的制度を設定し、強制的に責任をとらせるのか、否か。この点について沼崎氏は方向性を全く示していない。また、孕ませる性の責任を重視し制度に組み入れているような社会が実際にあるのか、あるとしたらどのような社会なのかといったあたりも、文化人類学者である沼崎に示してほしかった気がする。 第三に、孕ませる性を持つ人間と孕む性を持つ人間との間の性倫理を考えていくには、妊娠だけでなく、不妊、性行為感染症も視野に入れる必要があるのではないかという点である。妊娠と性行為感染症を一緒に論じることは、理論レベルでは、混乱につながるかもしれない。しかし、実際に避妊手段と性病の予防手段は大きく重なっている。そもそも、ピルの解禁が遅れているのも、エイズ感染予防のためのコンドーム推奨が直接要因となっていることは周知の事実である。また、男性は、孕ませる性だけではなく、孕ませなくする性という暴力のあり方ももっている。中絶は、特にそれが安全な方法でなかったり、度重なる場合、女性の不妊症の原因となりうる。性行為感染症も、全てが不妊につながるわけではないが、感染した場合に生殖能力が傷害される確率は男性より女性に高い。相手の生殖可能性を奪うことも十分「暴力」である。「石女」という言葉がまだ死語になっていない社会において、女性の不妊の代償は高い。日本よりもっと不妊の代償の高い国も多くある(4)。孕ませる性ほど頻度は高くないかもしれないが、孕ませなくする性は、より重大な影響を女性に及ぼしうる。 <避妊の半々の責任> 妊娠を望まない場合、避妊する義務が男性には当然ある。けれど、女性に全然責任がないというわけにはいかない。そのあたりをどう理論化するのか。 とりあえず男女とも半々の責任がある。そう割り切った上で、それでは半々の責任とはどういうことなのかを考え、決めていく必要があるのではないか。沼崎も「女性にも男性にも同等の避妊責任が問われるべきだ」と書いている(5)。この「同等の避妊責任」の内容をはっきりしておかないと、後で述べる責任の実体化、とくに新たな法的規制なり解釈の変更が困難になる。 半々の責任とは、妊娠という事態を防ぐための負担を半々が負うということと、妊娠という事態が起こってしまった場合の不利益を半々が負うという
...省略されました。