私は、7歳上の兄と3歳上の姉がいる末っ子で、放ったらかされて育ちました。
彼女は小5の頃からいて、ファーストキスは小6、初セックスは中2、高校では2人の同級生の処女膜を破って、後にバレて修羅場を演じたり、典型的なヤンチャ末っ子でした。
大学は、兄と姉は地元の国立大を出ましたが、私は隣の県の政令市にある二流私立大で、兄のお下がりの車で女の子をナンパして、やりたい放題の不良学生でした。
そんな私もマトモに就職して、結婚することも出来ました。
もう、遠い昔の話です。
結婚して10年、私が37歳、子供が生まれてから借りた一軒家に住んでいた頃の話です。
妻が病気で入院したとき、本家から義姉(兄の奥さん)が手伝いに来てくれてました。
当時、義姉は41歳、35歳の妻よりもグッと色っぽい女性でした。
私や子供たちの食事や洗濯、掃除までしてくれて大変助かりました。
ある金曜日、私が残業で戻るとまだ義姉が家にいて、
「さっきまで子供たちと遊んでたの。今日は遅くなっちゃったから、泊めてね。お風呂、湧いてるわよ。」
と言われて、私が先に風呂に入って出ると、
「ビール冷えてるから。おつまみっも作ってあるわよ。」
と言い残して義姉もお風呂へ入りました。
お風呂から出てきた義姉に、
「お義姉さんも一杯どうぞ。」
と、こんなふうに義姉弟で飲み始めたのです。
義姉も私もウイスキー党でしたから、ビールは1本で終えて、ウィスキーへ移行しました。
「ウィスキーも安くなったわよね~。これ、昔の特級ウィスキーよねえ。」
その当時はウィスキーの投球が廃止された後で、つい数年前まで、ウィスキーには特級、一級、二級と酒税法上の区別があり、特級はとても高価でした。
私は、義姉にウィスキーをこさえて、妻不在のお手伝いの労をねぎらいました。
「お義姉さん、本当にありがとうございます。何とお礼を言って良いやら。」
と言ったら、義姉も酔いが回っていたのでしょう、
「お礼なら、身体でしてくれてもいいのよ。」
と、トロンとした目つきでしなだれかかってきました。
色っぽい義姉に、パジャマの上から股間を撫でられ、勃起させられてしまいました。
「お、お義姉さん・・・」
二階の子供部屋が暗いのを確認し、居間の電気を落とし、玄関わきの夫婦の寝室へ義姉と共に入りました。
「お義姉さん・・・」
「誠二さん・・・」
名前を呼び合い、素っ裸で抱き合いました。
妻に比べて豊満な義姉の白い肌、そして豊かな胸を揉みしだき、ドドメ色の陰唇を広げて陰核を味わうと、義姉の色っぽい声が漏れました。
「ああ・・・誠二さんは舐めてくれるのね・・・」
兄はクンニしないのか、義姉は大そう喜んで濡らしてくれました。
義姉のフェラは妻よりも拙く、どうやら兄夫婦は前戯が疎かだと感じました。
「中には出しませんから・・・」
と耳元で囁いて、義姉の膣に生で陰茎を入れました。
「ああ~~・・・」
ゆっくりと義姉の膣内を味わうように腰を振りました。
義姉の骨盤を持って、義姉の膣の上部に亀頭が刺さるような気持ちで突き刺し、義姉の膣の上部を引っ掻くように引き抜きました。
「ああああ~~兄弟でも、全然違う~~」
と乳房を震わせました。
義姉を四つん這いにさせて、尻をがっちり抱えて後から義姉の膣に生の陰茎を挿入して、今度はガンガン腰を振りました。
パチンパチンパチンパチンと音を立てるたび、義姉の背中の肉が波打ちおました。
義姉は四つん這いを保寝なくなり、ガクッと胸を布団に突っ伏して、シーツを握りしめていました。
唸り声を上げる義姉を再び仰向けにして、足をV字に広げて結合部丸晒しの体勢で腰を打ち付けました。
「あ、あ、あああ、あああ、ああ~~」
義姉は激しく仰け反りながら、もんどり打って感じまくっていました。
私も、いつもより更に色っぽい義姉の艶姿に興奮して、
「お義姉さん、出ますっ!」
と言って義姉のお腹にティシュを乗せて、陰茎を抜いて射精しました。
「誠二さん・・・凄く気持ち良かった・・・」
と言って、義姉は恥ずかしそうに微笑みました。
暫くして落ち着いたら、再び居間へ戻って飲み直してから、義姉は客間へ、私は寝室で就寝しました。
その十数日後、妻が退院して日常を撮り戻しましたが、1年後に再び入院すると、今度は帰ってきませんでした。
享年36歳、妻は私と2人の子供たちを残してこの世を去りました。
途方に暮れた私たち親子に手を差し伸べたのは、今度は亡き妻の妹、義妹でした。
義妹は当時32歳でまだ独身、私立幼稚園の教諭をしておりました。
小学校低学年の私の子供たちは、放課後、小学校と私の家の中間にある亡き妻の実家に身を寄せていました。
当面は義母が孫を可愛がっていましたが、義妹が仕事から帰ると、義妹が子供たちの面倒をよく見てくれました。
子供の扱いはプロなので、義母のように甘やかすことなく子供たちを上手にコントロールしていました。