生死
姉の『妊娠』のおかげで、母の注目は全部バカに集まって、僕の『疑惑の影』は薄くなってしまいました。
これで良かったのか悪かったのか分かりませんが、『近親相姦疑惑』は何も払拭されないまま、母の怒りの爆風に吹き飛ばされてしまいました。
夜になって父が帰宅しました。父は、出迎えに出た僕の顔を見るなり母の妊娠の事もあってか、照れ臭そうに顔を真っ赤にしてました。でも、とても嬉しそうでした。
そんな幸せを噛み締めてる父を余所に、居間では僕の存在を今だに無視した二人が、戦争状態のまま睨み合ってました。正確に言えば、一方的に『口撃』する母を、バカがガン無視を決め込んだ膠着状態にありました。
「おいおい…、母さん。そんなに大声張り上げたら、お腹に悪いぞ?」
「大声のひとつも、ふたつも、みっつも張り上げたくなるわよっ!?」
父は母にもですけど姉にも、それにしょっちゅう来る『あいこ』にも『激甘』です。女性には誰にでも『激甘』です。逆に僕には『激辛』で接しています。解りやすいエロ親父です。
だから『よっぽどの事』が無いかぎり姉を叱ったりしません。その『よっぽどの事』が起こってしまった事に、まだ何も気付いていなかった父は、普段通りのニヤけた顔をしていました。
「まあまあ、年頃の娘に口喧しく言ったって、聞くもんじゃないだろ? 母さんにだって、ひとつやふたつ、覚えがあるんじゃないのか?」
とか言いながら、理解のある『エロ親父』を余裕で演じてました。ところが、
「アタシはっ、この娘の歳で『妊娠』なんかぁ、し・た・コ・トォありませんからっ!? ………分かりませんよっ!!」
と、バカ姉の態度にキレキレになって、納まりがつかなくなっていた母が、温度差のあり過ぎる父の態度に業を煮やして、怒りに任せてセリフを吐き捨てました。
「……………、ふへぇ?」
母の激しいセリフから、娘の『妊娠』をいきなり知らされた父は、吐き出す息が情けなく鳴らした、『声』にもならない『音』を漏らすと、見る見る内に真っ青になっていきました。
『バカな子ほど可愛い』父は、姉の身の上に起こった『衝撃的事実』を、とても受け止め切れないようでした。さっきの『母の受胎告知』を聞いた姉と同じように、『ポッカ~~~ン』と口を開けたまま固まってしまいました。
「『トシ』くん? ねぇ? ねぇっ? ねぇーっ? 『トシ』くーーーん!?」
(突然ですが、父の名前は『トシカズ』にします。『トシ』の語感が何と無く本名に『近い』からです。『いまさら』ですが、僕を含めて登場人物は全て『(仮名)』です。)
父の驚愕振りに母が驚愕しました。慌てて父に呼び掛けながら駆け寄りました。身体を揺すって正気に戻そうとしましたが、相当なダメージを受けたらしく、なかなか父は戻って来ませんでした。
「…ふえっ?」
何とか自分を取り戻した父が、虚ろな表情で母の呼び掛けに応えた時には、さっき僕に見せていた『桜色』の血色はすっかり消え失せてしまって、一歩間違えたら『死に顔』にしか見えない、『土気色』になっていました。
「『えっ?』じゃないでしょ? ショックなのは解るけど、お父さんからも、この娘に言ってやって下さいよぉ~っ!」
「ふえっ? あ、ああ…」
父は覚束ない足取りで姉の真向かいにヨタヨタと歩いて行くと、爆破解体されたビルが崩れ落ちるように、『ドサッ!』とソファーに座り込みました。
「『まさみ』…、お前、ホントに妊娠してるのか?」
父は力の無いかすれた声を、やっとと言う感じで搾り出して姉を問い質しました。息子の僕が端から見ていても『痛々しい』感じがしました。さっきの『母の時』の僕と同じように『驚愕』し『困惑』しているようでした。
「バレちゃった(笑)!」
バカは自分の置かれている立場と言うものを全く理解せず、と言うか、ガッツリ無視した脳天気で晴々とした笑顔で、父に答えました。弟の僕が見ていても色んな意味で『痛々しい』感じがしました。
バカの答えを『聞いている』のか『聞こえていない』のか、父は一言も発する事無く姉を見つめていました。でも姉をちゃんと『見ている』のか『見えていない』のか、バカの姿を素通しして遠くを見ているような眼差しをしていました。
「『トシ』くん? ねぇ? 大丈夫なのっ? お父さん? お父さん!?」
「あ? ああ…、うん。大丈夫だよ…。大丈夫…」
母の言葉に応えてはいましたが、父は上の空と言うか『抜け殻』のようでした。母の怒鳴り声などには『どこ吹く風』の姉でしたが、この父の『ありえない』反応には、さすがに面食らったようでした。
いつものように父に甘えて、ヘラヘラしていればやり過ごせるとでも思っていたのか、それが『とんだ検討違い』だったとバカでも気付いたみたいでした。今まで見たことも無い『神妙』な顔をして、父と向かい合いました。
「…どうすんだ、お前?」
「産むよっ!」
父は『怒った』でも『ガッカリした』でも『放り出した』でも無い、何か『無感動』でフラットな口調で、静かに姉に話し掛けました。姉は僕が聞いた時と同じ勢いで、同じように食い気味に答えました。
「『産む』って、お前…、相手は何て言ってんだ?」
「えっ? 相手?」
「そうだよ…。その子の『お父さん』の事だよ。」
それは僕が一番気になっていた事でもあるし、いまだに姉がハッキリとさせない為に、母を物凄く怒らせていた事でした。
「うん…。……………、『知らない』って…。」
一瞬、言葉に詰まった姉が漏らしたセリフに、僕は息が詰まりました。父の側で立ち尽くす母は一瞬、『ブルッ!』と身震いすると固まってしまいました。
予想してはいましたが、僕の思った通りの『サイテー』な野郎の子を姉は『妊娠しているんだ…』と、改めて解りました。
僕には『そんな』権利も資格も『まるっきり』無いコトは十分解ってはいましたが、物凄くムカムカと腹が立ってきました。
「……………、そうか…。」
父は、その一言だけ静かに吐き出すと、うなだれました。てっきり僕以上に怒って、姉を怒鳴り付けたりするかと思ったのに意外でした。ただ黙ってうなだれて、小さく小さく固まりました。
「『そうか…』じゃないでしょう、お父さんっ!?」
この父の一言に母の方が食って掛かりました。二人のやり取りの中で、色んな『怒り』が込み上げてきたのは母も同じだったらしく、ぶつけ所の無い感情の爆発を父に向けてしまったようでした。
うなだれた首筋に母の怒声が突き刺さった父は、ゆっくり頭を起こすと母に話し掛けました。
「…母さん、『まさみ』がヤッちまった事は誉められた事じゃ無いけどさ…、デキちまった事は叱り付ける事じゃあねぇだろう? 立派に出来たんだからさ…」
父は母が激昂して放出していた『火花』を、背中を焦がしながら全部受け止めて消していきました。僕は父の言った言葉の意味が解らず、まだカッカしてましたが、母は落ち着きを取り戻したようでした。
「出来ましたよ…。ちゃんと、出来るって解りましたよ。こんな形で…。」
「まあ…なぁ…。順序だてが間違ってるし…、おおっぴらに出来るこっちゃないけどさ…。でも、ちゃんと出来たよ。」
「だからって…。…ただでさえ肩身の狭い思いさせられるんですよ? どうするんですか?」
『肩身の狭い思い』って、バカ姉が親になるから、『バカの子供で産まれて来るから』って意味なのかと、その程度の事かと僕は思ってました。
「でもよ? これ以上、俺らがどうこうして、『間違った方向』へ向かわせるってのは、『違う』と思うんだ…。どうかな?」
「…でも、でも、『トシ』くん…」
今度は母が言葉に詰まりました。中2の僕にでも、母が言いたい事は解りました。物凄く嫌な事でした。僕は言葉にもしたくない事でした。
「じゃあ、どうする? 形だけ取り繕ってやるか? 何の罪も無い子に全部おっかぶせるかっ!? 親の勝手な都合を何にも解らない子供に、無理矢理、全部、押し付けんのかっ!!」
それまで気の抜けたコーラのようだった父が、いきなり沸騰しました。怒鳴り声を上げるなんて僕にも時々しか無いのに、母や姉の前では滅多に無い事でした。蒸し暑かった居間の中が何かヒンヤリとして、静まり返りました。
でも、その父の怒声は母にでも、姉にでも、ましてや僕に向けられたモノでもありませんでした。
今、一歩間違えたら僕たち家族を、寂しく惨めなモノにしてしまうかもしれない、そんな岐路に立たせてしまった父親としての自分を、自分自身で叱っていたのでした。気合いを入れていたのでした。