私は、九州は熊本と宮崎の県境の山里で生まれ、18歳までそこで育ちま
した。
父と母と私の三人家族でした。
昭和30年代の頃でした。
我が家の庭先には鶏数羽を放し飼いにして、猫の額ほどの田畑を耕しなが
らの自給自足の生活をしておりました。
集落の皆が、食べていくのがやっとの生活でした。
我が家はそれ以上にどん底の生活でした
母は身体が弱く、病気がちでした。
医者にかかる余裕もなく、私が小学校4年生のとき亡くなりました。
36歳でした。
母に変わり家事全般は、私の役目になりました。
父は寡黙で温和な人でした。
父なりに精一杯の愛情をそそいで私を育ててくれました。
ほとんど現金収入の無い我が家では、年2回の農繁期の出稼ぎが唯一の現
金収入でした。
福岡の米作りのさかんな筑後地方に、春の田植えと秋の稲刈りの時期に、
毎年出稼ぎに行っていました。
昔で言えばその地域の地主さんで、酒造りも盛んで多くの酒蔵がありまし
た。
私も中学を卒業してからは、毎年父に連れられて手伝いにいきました。
同年代の女子と比べても見劣りするやせた身体でしたが、それでも自分の
できる範囲の仕事は一生懸命しました。
いろんな地域からここに働きに来ている人たちは、私と似たような境遇の
人たちでした。
みんな働き者の人たちばかりでした。
手伝い来ている子供たちとは、すぐに仲良くなりました。
一番の楽しみは、食事でした。
おいしいお米が腹いっぱい食べれることでした。
雇い主の方も、そこで働く人たちもみんな優しく親切な人たちばかりでし
た。
雇い主の、既に隠居されたお婆さんには、色々なことを教えてもらいまし
た。
女としての身だしなみから、礼儀作法、裁縫、料理など幅広く教えてくれ
ました。
いまふうに言えば、ちょっとした花嫁修業のようでした。
貧しい地方で育った私たちは、お婆さんからみれば、礼儀ひとつ知らない
不憫な子供に見えたのでしょう。
学歴も礼儀作法も知らない私にとって、このとき習ったことが、後々おお
いに役立つことになりました。
母が亡くなって2年になりました。
母の3回忌の法要の日、二人だけでは大変だろうと、母の妹が福岡から手
伝いに駆けつけてくれました。
わずか数名の親戚の集まりでした。
叔母は日帰りで帰るつもりが、その日の午後から雨風の強い天気になって
しまいました。
交通の便の悪い地域では、車の手配がうまく出来ず、その日は我が家に一
泊することになりました。
叔母とお話しするのは、母が亡くなって以来でした。
叔母は、顔も話す声も母によく似ていました。
私たち家族のことを、いつも心配してくれていました。
叔母には子供はいませんでした。
小さい頃から、自分の子供のようにかわいがってくれた大好きな叔母でし
た。
お正月には、必ずお菓子とお年玉を送ってくれました。
夕食を食べ終えても、父と叔母と3人で時間の経つのも忘れて話していま
した。
知らないうちに寝てしまったのか、気がつくと布団のなかでした。
木戸をたたく風の音に目が覚めてしまいました。
私の隣にはいつも寝ているはずの父の姿がありません。
暗闇の中、隣の部屋には消えているはずの豆電球の薄明かりがみえまし
た。
ふすまを開けようと手を掛けたとき、むせび泣くような声がしました。
叔母の声のようでした。
立て付けの悪いふすまの隙間から中をのぞき見ると、部屋の様子は、薄明
かりのなかでぼんやりとしか見えませんでした。
薄明かりに目が慣れてくるにつれて、重なってうごめく二つの影をみるこ
とができました。
父に組みふされて、背中越しに見え隠れする叔母の姿がありました。
父の動きに合わせるかのように腰を揺らす叔母の姿がみえました。
二人の熱い吐息が伝わってきました。
しばらくすると、激しい父の動きに耐え切れなくなった叔母の叫び声とと
もに、二つの影が大きく波打ち弾けました。
離れようとする父の首に手をかけてなおも顔を引き寄せ、余韻を惜しむか
のように腰に両脚をからませながら背中を反らして腰を震わせる叔母の姿
がみえました。
時折、あごを突き上げ身体を震わせながら、耳元で何かをささやいていま
した。
二人の求め合う熱情的な行為は、私の心の奥深くに刻印されました。
初めてみる大人の男女の営みに全身が熱くなって、震えがとまりませんで
した。
私の体の芯から、熱いものが湧き出てくる感覚に体全体が火照っていまし
た。
気がつくといつもの朝でした。
静かに朝食をとる叔母と父の姿に、なんの変わりもありませんでした。
子供心に、昨夜みたのは私の夢だったと思うようにしました。
3年後、いつも農繁期になると出稼ぎにいく筑後地方の地主さんから、思
わぬ縁談の話がもちあがった。
地主さんの遠い親戚であった。
嫁ぎ先は、東北の雪深い新潟であった。
一度嫁ぐと二度と帰ってくることはできないような遠い地方だった。
嫁ぐ先は専業農家でかなりの土地を所有しており、その地域では裕福な農
家だそうだ。
あることを除いては申し分のない条件のお話でした。
世話をしてくれたご隠居さんにも長いことお世話になり、またこれからも
お世話にならなければならないことを考えると断ることのできない話でし
た。
筑後のご隠居さん宅でのお見合いとなりました。
新潟からはご両親と息子さん、こちらは父と私とご隠居さんでした。
数週間後、新潟のご両親から見合いの返事をいただきました。
一番喜んでくれたのはご隠居さんでした。
数ヵ月後、父と二人で天草を出発しました。
父と天草からバスと汽車を乗り継いで福岡の博多駅に着きました。
博多駅から寝台特急に乗って東京まで、途中いくつも汽車に乗り継ぎなが
ら新潟にむかいました。
父との最後の宿泊地は新潟市内のひなびた温泉宿でした。
温泉宿に宿泊するのは生まれて始めてでした。
夕食は食べきれないほどのご馳走でした。
広々とした温泉にゆっくり入り、二人で最後の夜をすごしました。
寝床に入っても、なかなかすぐには寝つけませんでした。
今日で父ともお別れだと思うと、急に寂しさがこみあげてきました。
父も同じだったと思います。
私の横で何度も寝返りをうつ父を気にしながら、とうとう我慢できなくな
って、父の寝床に入っていきました。
何も言わない父を気にしながら、父の背中に抱きついて、声をだして泣き
ました。
小さく震える背中に、父も声を殺して泣いているのがわかりました。
涙がとまりませんでした。
父が寝返りをうつと同時に、父の胸に顔をうずめました。
父に抱きしめられた安堵感に、我慢していた声がまた静かな部屋に小さく
響きました。
暖かい父の胸に顔を埋めながら、気が済むまで声を枯らして泣き続けまし
た。
二人の体から発せられる熱気は、お互いの体をいとおしむかのように、心
地よい暖かさを与えてくれました。
未知の生活に旅立つ私の心の不安を慰めるかのように、身体の緊張がとか
れていきました。
父が私の身体を引き離そうとしました。
離れたくない私は、父の腕にすがりつきながら太ももに両脚を絡みつかせ
ました。
そのとき、熱く熱する父の体の変化に気づきました。
ふと、数年前のあの夜、叔母と父の姿がよみがえってきました。
あのときの湧きあがるような得たいの知れない熱いものが、あの時と同じ
ように。
今の私には、あのときのことが男女の行為であることは十分わかっていま
した。
父も一人の男であることも少しは理解していたと思います。
父の体の変化を感じたとき、私の心の中にある期待と興奮が湧きあがって
きました。
やせ細った私の身体に父があんなに反応してくれたことに。
父の身体に両手を回して体全体を摺り寄せて、さらに熱く変化したものを
感じ取ることができました。
静まりかえった部屋に、二人の胸の鼓動が聞こえるようでした。
心地よい時間でした。
耳元に父の声がしました。
「幸恵・・・」
「お父さん・・・なに・・・」
私には父が言いたいことがわかっていました。
父から離れると、父の手をとって隣の布団に移りました。
浴衣を脱いで、父を受け入れやすいように、仰向けになって布団の隅で待
ちました。
「幸恵・・・」
「お父さん・・・今まで育ててくれてありがとう・・・」
私は小さくうなずいて、父をむかい容れました。
父はまるで腫れ物を触るように、最後まで優しく接してくれました。
父のものが私の体の中に入ってきたとき、痛みよりも父のものを受け入れ
ることが出来た喜びと安どの気持ちでいっぱいでした。。
その満足感が初めての快感に変わるのに時間はかかりませんでした。
父の動きに呼応するように、私の女の部分が激しく求めることに、驚きと
喜びの混じった声をあげてしまいました。
今思うと、叔母と父のあの時の行為を思い浮べるたび、無意識の中で擬似
体験していたのではないかと思いました。
父の行為が限界に達しょうとしたとき、身体を引き離そうとする父の行為
に逆らうように、私は自らの足を父の腰に絡め両手でしっかり父を抱きし
めていました。
父の体の芯から大きく脈打ち弾けた熱い塊は、私の中に燃えたぎるような
塊となって何度も注がれました。
喜びに満ち溢れた体の芯は、一滴も残すまいと波うっていました。
はじめて経験する快感が、痺れとなって大きな吐息とともに意識が遠のい
ていきました。
嫁ぎ先での生活は、生まれ育った山奥のどん底の生活に比べると天国のよ
うでした。
主人のご両親にも大切にされました。
つらいと思ったことは一度もありませんでした。
幸いにも、嫁いだ次の年には女の子が生まれました。
それからも2人の男の子に恵まれました。
優しい夫と子供たちに恵まれ、幸せな人生を歩むことができました。
ただひとつ心残りだったのが、父に子供たちを会わせることが出来なかっ
たことでした。