2012/12/31 09:47:29
(ErJM5WdP)
涙で目の前がぼやけていた。何か大切なものが失われようとしている・・・、そう思うと、私はその家族を傷つけている敵に向かって駈け出していた。手の自由は奪われていたが、関係ない。雄たけびをあげながら、そいつを吹っ飛ばそうと全身に力を込めた。
敵は笑っていた。
この野郎! 俺の家族に手を出すなああああああ!
敵の腰から下らへんにタックルをしようとしたその時。
目標物であった奴の足が、目の前からスッと消えた。次の瞬間、脳天に大きな衝撃を受けた。私はそのまま気を失った。
「おい、大丈夫か」
遠くから、聞き慣れた声がした。目を開けると父がいた。起き上がろうとすると、後頭部に鈍い痛みが走った。頭を押さえ呻いていると、父が「無理するな。まだ横になっていた方がいい」と私を抱え寝かせてくれた。待っていなさい、と父は部屋から出て行った。すぐにさっきまでの事を思い出した。
沢木は・・・、母は・・・。
思うが、二人は既にここにはいなかった。どこへ行ったのだろうか。動こうと思うが、頭が痛くて動けなかった。縛られていた手は自由になっており、毛布を掛けられていた。父がしてくれたのだろう。痛む頭を動かして、周りを見ると、ここは両親の寝室だった。ベッドの上は布団やら衣類やらがグチャグチャに残されていた。壁際には新聞紙が丸めて置かれてあった。父の吐しゃ物を始末した後だろうか。戻ってきた父が、「冷やすと楽になる」と保冷材をタオルにくるんで渡してくれた。ひんやりとしたそれは痛さを随分和らげてくれた。
「他に痛いところはないか。後で病院へ行った方がいい」私を気遣った言い回しをしていたが、父の顔からは生気が失われていた。
「いや、それより・・・、母さんは? 」
父は目を伏せ、黙って首を横に振った。
え、いない? どういうこと・・・。なに、聞こえない・・・。つ、連れ去られた?
父は静かに頷いた。
「これって・・・、誘拐とかになるのかな」沈黙が嫌で、妙なことを口走ってしまった。
父は又首を横に振った。
どういうこと? 連れ去られていく所をみたの?
父が弱弱しい声で、ぼそぼそと話してくれた。それは、私ら家族の崩壊宣言に等しかった。
私がタックルした瞬間、沢木は私の脳天へ踵落としを喰らわせたのだそうだ。父も腹を思い切り蹴られ動ける状態ではなかった。沢木が母に「ほら、言えよ。あのセリフ。オメー時期が来たら言うっつってたろ。今がその時期だよ」と髪の毛を引っ張りながら促すと、私・・・、公平君のチンポから離れられない。あなたがただ租チンなだけなら百歩譲って相手をしてあげなくもないけど、使用不可のインポチンポじゃ、もう嫌なの! と喘ぎ声を交えて、父に面と向かって言ったのだと。「そういうことなんだよ。糞爺。いや、男の用をなさないテメーは糞ババアかな、あっはっはっは」と、母と結合しながら抱えると、沢木はもう一度父に蹴りを入れていった。そしてそのまま、母を抱て部屋を飛び出して行ったらしい。
「な、何言ってんだよ・・・。そんなの言わされているに決まってるだろ。つ、連れ戻しに行こうよ」
ショックを悟られまいとして強気な私に、意気消沈している父。
「いや・・・、いいんだ・・・。母さんだって・・・、用が済めば帰ってくるよ・・・」
父に対してあれ程献身だった母から、面と向かって言われた言葉。異常な快楽に溺れていた最中だったとしても、話半分という受け取り方をしているのだろう。欲求不満を妻に与えてしまっていた夫であったということを、強く後悔しているという様子で、自分にそれを咎めることはできないということなのか。
「ば、馬鹿いうなよ。お、俺、母さんを連れ戻しに行くよ。多分、あいつのマンションにいるだろうからさ」
タオルを首にあてながらゆっくりと起き上がった。時計を見ると八時前だった。父はその場に立ちすくんだまま、動こうともしなかった。
「父さんはさ、仕事に行きなよ・・・。か、皆勤、無くなっちゃうよ」
父は大病をしたことも、大怪我をしたこともなかった。皆勤が自慢でもあった。この時間であれば、電車に乗らず、タクシーで直接向かえば、まだ遅刻しない筈だ。
私は無気力な父を無理やり着替えさせた。その間に、タクシー会社に電話をして、すぐに来てもらうよう手配をした。程なくしてきたタクシーに父を押しこみ、運転手さんに行き先を告げ、遅刻しないように送ってくださいとお願いした。
手がかりを探すわけでもないが、改めて家の中を見て回った。台所などは、昨日母が片づけていたから綺麗に整っていた。二階へ上がり自室に入ると、昨日の宴がまんま残されていた。
沢木の服や荷物は無くなっていた。ということは、あいつは自分のものはしっかりと持ちかえっていったのだ。やっぱり、奴は自分の家に帰ったのだろう。そういえば、母はどうやって連れていかれたのだろうか。まさか裸のまま外へ・・・ということではあるまい。一瞬、あいつならやりかねないと思ったのだが、脱衣所の洗濯かごの中に入っているはずの、昨日母が来ていた服が無くなっていたので、おそらくこれを着ていったのだろう。ちょっとだけ安堵した私は、着るものもままならないまま、自転車にまたがると沢木のマンションまで全力で漕ぎ出した。頭がズキズキ痛んだ。半分裸のような格好をしていたせいか風邪でも引いたかも知れない、体もだるかった。それでも、必死に自転車を漕ぎ、沢木のマンションにどうにか着くことができた。
着いて愕然としたのは、沢木のマンションは改築工事などしていなかったということだった。
『売却物件』という立て看板が建てられていて、住民は残らず引越していた。
マンションの入り口には施錠がされており中へ入ることができなかった。外付けの階段へ回った。こちらも使用できないようにバリケードをしてあったのだが、何とか乗り越えることができた。五階まで駆け上がり、沢木の部屋の前に着いた。ドアノブを回すと、鍵がかかっていなかった。玄関へ入ったが薄暗く、リビングはもぬけの殻。あるのは塵芥のみだった。
その日から数日間は、沢木の野郎を捕まえる事に駆けずり回った。それこそ浸食を忘れて。友達にも聞いてみたが捕まらなかった。というのも、奴は大学を辞めていたから。お前、知らなかったのか、と友達は呆れた顔で私を見ていたが、一緒の授業は無く、学食でしか会わなかったから、そんなこととは思いもしなかった。考えられる知り合いは全てあたってみた。だが、返ってくる答えは決まっていた。それならばと、子の不始末は親の不始末と思い、奴の実家にも連絡した。お手伝いさんが出て、「ご主人様は出張中でございまして、しばらく不在なのですが」というので、一大事なのです、と事情を説明し泣き落としで頼みまくったら、ようやく奴の親父にコンタクトを取ることができた。しかし「公平は勘当したから居場所なんか分からない。何か不始末があるのなら、もう成人なのだから本人に直接言って欲しい。こちらに言われても何もすることはない」と一方的に突っぱねられてしまった。
当然、警察にもいった。誘拐事件です、というと、受け付けてくれた警官はテキパキと応対してくれたのだが、経緯を説明するうちに、ああ、何だ、ちょっとお待ちを・・・、と刑事課から生活安全課の方へ回された。眠たそうな顔をした担当の方は「状況から言って、それはかけ落ちですね。まあ、捜索願を出されるのであれば、一応受理はしますが・・・」、と何とも心強い事をおっしゃって下さった。
私と父は、一度現実を受け止めることにした。
経緯や今後のことは置いたとして、母が家からいなくなったことは、揺るぎない事実だった。
それに、お互いがその原因について思い当たることがあったので、これ以上動くことが身を切られるようで辛かったのだった。
体は疲弊しきっており、精神的には崖っぷちまで追いつめられていた。
とりあえず、日常生活に戻ることにした。
二月ほど過ぎた頃、一通の封筒が郵便受けに届けらていた。差出人は母。消印は押されていなかった。中に手紙などは無く、ただ離婚届だけが入っていた。それは、既に母の綺麗な字で必要な個所は埋められているものだった。父はしばらくそれを放置していたのだが、考えに考えて、考えあぐねてからだろうか、強い決意の表情で「これ、出してくるよ」と私に離婚届を見せてきた。私は父の性格をよく知っていたから、「そう」とだけ言っておいた。戸籍から母が除籍された。感慨深いことなどなかった。ただ事務的な処理が一つ終わったということだった。
更に一年が過ぎ二年が過ぎ三年が過ぎた。
私も社会人になり、それなりに忙しい日々を送っていた。父は家事の一切ができないので、私が母の代わりを務めていた。会社員ではあるけれど、残業がほとんどないので、こんな生活スタイルも可能なのだと思う。朝は早くから起き洗濯をして食事を作り、夕方はできるだけ早く帰り、風呂を沸かしお酒の準備をして食事を作る。当初は、父の方が早く帰宅しているときもあったけど、寄り道をしてくるのか電車を遅らせているのか、今では父が無駄に待つことは無くなっていた。買い物は週に一回のまとめ買い。細かいものは会社帰りで間に合わせる。休日の午前中は、家中の掃除。おそらく母もこんな感じで家族を支えていたのだと思う。その母がいなくなって、一番寂しい思いをしているのは父だ。これ以上、不安材料を与えたくはなかった。離婚届を出してからは、父も私に気を使っているのが分かる。あれだけ寡黙で、休日になると一日中本を読んでいたのに、最近では「おい、駅前に旨そうなラーメン屋ができたみたいだぞ。お昼はそこへ行ってみるか」なんてチラシに付いてるクーポン券を手に持ち、私の部屋に来ることもあった。
秋に入ったある日、帰宅して郵便受けを見ると分厚い封筒が届いていた。宛名は私。差出人は・・・、「沢木公平」と記されていた。消印は、北海道だった。
その名前を見た瞬間、全身に悪寒が走った。忘れようとしていたあの忌まわしい出来事が、せせら笑う悪魔の手によって、私の記憶の引き出しをこじ開けられ、無理やり引っ張り出されてきた感じだった。中には手紙と大量の写真が入っていた。その場で読みたい衝動を抑え、家の中へ入った。封筒を自室の机の上に置いた。スーツを脱ぎネクタイを外しシャツと靴下を部屋の隅にある洗濯かごに入れた。着古しているトレーナーとスウェットの部屋着に着替えた。気持ちを落ち着かせるために、わざと階下へ下り湯を沸かして、お茶を入れた。一口啜ってから、湯呑みを持ちまた自室へ向かった。椅子に座り机の上の封筒から手紙を取り出した。手紙はパソコンで書かれたものではなく、手書きだった。母の字ではない。おそらく沢木の自筆だろう。
『やあ、大学時代一緒だった沢木という者です。覚えていますか。毎年仲間と旅行をしているのですが、この夏は北海道へ行って来ました。君は行ったことが有りますか。広大な土地、何処までも続く地平線、青い空、新鮮な牛乳や海の幸、ホクホクとしたじゃが芋、そしてビールにジンギスカン。大自然の恵みに囲まれていると、人間も自然界の一員だということを実感させられます。是非一度行って御覧なさい。少ないけど、写真を送ります。北海道の大自然の御裾分けだよ。土産代りだが、ありきたりの例のつまらない菓子折りなんかより、余程気が利いていると思わないかい。これを見ながらウットリとした顔で頬杖をついている君のことが、容易に想像できるよ。いや失敬。変な意味ではないのだよ。みんな気の合う仲間たちばかりで、本当に楽しく素晴らしい旅行だった。ひょっとしたら知っている顔もあるかもしれないな。僕の古くからの仲間ばかりだからね。君も参加したつもりで、写真を見るといい。長くなったけど、健康に気を付けて、頑張ってくれたまえよ。 湖畔の宿にて 沢木公平』
写真は、三、四百枚は入っていただろうか。確かにそれには、美しい風景も十数枚は入っていた。しかし、ほとんどが人物写真だった。口髭を生やした沢木が、輪の中心にいることは、写真を数枚見ただけで、良く分かった。沢木の他にも大勢がこの旅行に参加していた。アングルや枚数から想像すると、基本的には沢木がシャッターを切り、所々誰かが沢木を撮ってくれているようだった。総人数は二、三十人か。仲間内の旅行にしては、かなりの大所帯だろう。しかも殆どが女性だった。男性は沢木の他に数名。大学時代に沢木の取り巻きだった奴もいた。まだ付き合いがあったんだ。
パラパラっと全ての写真を見た感じから受けた印象は、大学のサークルの旅行みたいな感じだった。初日の集合から、交通機関での移動、目的地に着きそれなりのイベントをこなす様子や、旅館やホテルというよりは、ロッジや民宿のような宿での宴会模様。テレビや本などで見たことのある観光名所に行っているものや、地名は知らないが雄大な自然に触れているところ、釣りやバーベキューを楽しんでいるところ、夜は真っ赤な顔で酒を酌み交わしていたりと、まあ、そんな感じ。
分かってはいたことだったが、その中に母がいた。久しぶりに見る母は、やはり綺麗だった。
あの日以来、母が我が家から去って行った日、私は母を性の対象にしている。それ以前からもそうしつつあったのだが、今は完全に一人の麗しき女性として見ている。母の残して行った荷物は、衣類から化粧品、食器やハブラシなどの日用品に至るまで全て取って置いてある。一度、父が処分しようと言いだしたが、了承したフリをして、上手に段ボールに収納して私の押し入れにしまってあるのだった。父が寝静まった後などに、こっそりとその段ボールの中から、母の普段着や下着などを取り出し、ベッドに並べて、あの沢木に嬲られていた母を思い出しては自慰行為に耽っている。母がよそいきの時にしか使っていなかった口紅などは、私の性器に塗ったり舐めたりしていたので、私の方が使用頻度が高い位だ。アルバムの中にあった母の写真は、全てパソコンに取り入れてある。若かりし頃の母から、我が家にいたときまでの母を、ほぼ毎日見ている。さっきお茶を入れた湯呑みも、実は母が晩年使っていたものだった。父は、それを母が使っていたことなど覚えていなかったので、私のものとして日常に使用しているのだった。
写真の中の母は、元気そうだった。
他の女性を見渡しても、おそらく最年長者には違いないが、若さを保っていた。どの写真にも大抵母が写っていることから、姉さん的な存在なのだろうか。集合場所で、若い人たちに声を掛けている写真。おそらく「何やってんの。集合時間過ぎてんだよ。早く来ないと置いて行くよ! 」といっているのだろう。そんな口をしている。移動のバスの中では、沢木の隣。奴にビールの缶を手渡したりしている。「ほら、あんたも飲みなよ。若いんだから」そう言って若い兄ちゃんの肩をポンと叩いている写真。兄ちゃんは口からビールを吹き出している。周りがおしぼりかなんかで拭こうと慌てている。牧場では、腰に手を当てて牛乳を一気飲みしている。牛乳が気になるのか、目は下を向いているのに口は上にとんがっている。周りはその顔に指をさして笑っている。沢木にジンギスカンを食べさせている写真。そう言えば、沢木が右手を怪我している時に母が食べさせてあげていると聞いて、嫉妬したな。そうか、こんな風にして、食べさせてあげていたんだ。海にも行ったのか。浜辺には沢山のテントが並んでいる。テントの中で、これから着替えようとしているのか、ジーパンのチャックに手を掛けている母の写真。怒ったような顔をしているが、本気じゃないのはよく解かる。細身のジーパンを穿くようになったんだ。前はもう少し、緩い感じのパンツ姿だったのに。次の写真は、衝撃だった。母の水着姿。黒いビキニが眩しかった。どこを見ているんだろう。髪をかきあげ、まじめな顔で遠くを見ている。別にポーズをとっている訳ではなさそうだ。偶然の一枚か。お尻がエロすぎる。尻肉のはみ出し具合が、私のドストライクだ。お腹が少し出ていた。良いもの食ってんだろうな。心なしか全体的に丸みを帯びたというか、太ったというか。いや、それでもまだまだ、他の女性よりは細身なのだが。三年前のあの日見た母の裸体は、当然私の記憶に深く刻み込まれていた。しかし、どんな人間でも何年にも渡って記憶時完全再生を維持していく事は不可能に近い。母を思い自慰行為をする為、何らかの動画を見たり画像を見たり、それを想像上での母に照らし合わせてフィニッシュを繰り返しているうちに、果たして私が思い出している母の裸体は、本当にこうだったのか、という疑問が湧いてきた。騙し騙し、薄れていく思い出で行ってきた想像自慰。そこへ来ての水着姿の写真。狂喜乱舞する気持ちも分かるだろ。海での写真はどれも良かった。砂浜でスイカ割りというベタなことも、焼きトウモロコシを齧り付いているのも、水際で海水を皆で掛け合っているのも、疲れてパラソルで寝ているのも、どの写真も水着姿の母は、エロチックだった。他の女性も魅力的で、綺麗な人や可愛い人も大勢いるが、母には叶わなかった。宿に戻り、御馳走を肴に酒宴をしている。総じて言えることは、みんなが心底楽しんでいるということ。腹のそこから笑い、旅行を満喫している。仮に、私が仲間と旅行へ行ったとして、果たしてこんな笑顔をするだろうか。そんなことを思いながら、残り少ない写真を見終えようとしたその時。
誰かが、母を指さしている。その様子から、『ええ! 嘘。聞いてない。聞いてない』とはしゃいでいるように見える。
次の写真では、Tシャツを捲くって、お腹を見せている母が。
あれ?
まさか・・・。
嘘だろ・・・。
次の写真。
数人が垂れ幕のような、長い布のようなものを持ってきている。そこには、みんなからのメッセージが書かれていた。
ああ・・・。
そ、そんな・・・。
『Congratulations Pregnancy 公平パパ&○○ママ』
祝福の拍手。
花束の贈呈。
サプライズな演出による祝宴。
感極まって泣き出す女の子。
一緒になって泣く母。
沢木に頭を撫でられながら。
みんな顔をクシャクシャにして喜んでいる。
代表者が品物を渡す。
中から可愛らしい真っ白な衣装が。
母が涙を拭きながらお礼をする。
温かい拍手。
沢木と母を中心にした集合写真。
沢木は母のお腹を指さし笑っている。
母も片手にプレゼントを持ち、片手でピースなんかしている。
写真を見ながら、涙が止まらなかった。
私が『母』と呼ぶのは、もうやめなければいけないんだね。
幸せそうな母を、私は頬杖を付きながらいつまでも眺めていた。鼻水を啜りながら。