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1
2021/05/30 01:59:31 (.yYpQYwM)
みなさま、おはようございます。
小生が国民学校の時分のことでございます。
住まいは棟割長屋でございました。
親父とお袋は子供の小生が横で見ているにも
かかわらず素つ裸になりまして毎夜毎夜
恥も外聞もなく交合しておりました。お袋は隣近所にはばからぬ
大声をあげて咽び泣いておりました。
おかげでその時分の国民学校には性教育などありませんでしたが
毎夜お袋の女陰にサツクをはめた親父の男根がづぶづぶと潜り込んでいくのを
見せつけられどうやつたら子供ができるのかは具体的に
知っておりました。
ある夜も親父とお袋は真つ裸で交合に励んでおりました。
翌日は陸軍記念日でした。
突如拙宅の周囲に焼夷弾が落下しあたり一面は火の海になったので
ございます。それでも親父は交合をやめはせず家に焼夷弾が
落下して燃え始めてもお袋の女陰の中に子種汁を出し切るまでは
腰を振つておりました。やつと我に返つた親父とお袋は素つ裸のまま
外に飛び出していき小生はその後を追つたのでございます。
空にはB29が飛び回つておりました。お袋は裸で長屋から飛び出したのですが
その姿を見た米兵が操縦を誤つたのでございましよう。
何しろ米兵は女の尻と飴玉のことしか関心がないと教えられておりました。
一機のB29が墜落していつたのでございます。お袋も我に返つて
何とか衣服をひつかけておりましたが思わず大日本帝国万歳を叫んだのでございます。
以上でございます。
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2
投稿者:68歳、現役
2021/05/30 10:16:25    (Fm/mDR/n)
やそじさん、ありがとうございます。
やそじさんの話を呼んで両親の事を思い出しました。
私はやそじさんほど年は言っていませんが、父も戦争に行って帰ってきたのでした。
兄妹は5人で玄関と炊事場ともに2畳ほど、4畳半が2間と6畳が1間の長屋でした。
玄関には靴箱と洗濯機を置いたらあとは通路だけ、部屋もタンスや兄弟の机や布団箱を置いたら狭いものでした。
もちろんベッドなどもなく布団を敷いて、居間(と言えるのか)は食卓机を片付けて両親の布団を敷いていました。
風呂もなく冬は3日に一度銭湯へ、夏は炊事場にたらいを置いて行水でした。
もちろん母も3人の姉もなので一番上の姉が結婚を上げる前の晩まで裸は見放題でした。
そんな家なので夜トイレに行くにも両親の寝ている部屋を通らなくてはいけなかったのです。
両親もその所はよく分かっていたようで、私がトイレに行く音がするとすぐに掛け布団を母と父の体に掛けていました。
いまでこそわかるのですがその体位がいつも寝バックだったのです。
裸の体を重ねていたらおかしいと思って、それに母が四つん這いではすぐに行動がとれないのでと思います。
頭はそれぞれの枕で寝ていても母のお尻と父の腰は繋がっていて私がトイレを終わって帰ると腰を動かし再開するのです。
今では孫が来て私たちの部屋で一緒に寝るのですが、家内とそんな体位で寝るときもあります。
今ではいい思い出です。

3
投稿者:
2021/05/31 12:09:50    (E49AeCby)
突撃一番の時代ですね
恩賜の煙草と合わせて
お懐かしゅう御座います
その後が悲惨でした上野、銀座、渋谷等の繁華街に白衣を着た赤十字の箱を下げた傷付いた軍人さんで溢れてました
不忍池周りには蓙を持った女性が多かったと聞き及んでおりました
懐かし話です
4
投稿者:UK   take534yo3219uk
2021/05/31 13:40:03    (IdUW4C.b)
やそじさん、御免なさい。
68歳 現役さんの書き込みに対して、コメント
したかったので、この場をお借り致します。
私の小学4年性頃から1年半、家を建てる為に
家の物置を改造して、3人で寝ていました。

両親は私に気づかれ無い様に、いつも寝バック専
門にしていましたが、母の喘ぎ声が毎晩聞こえる
ので直ぐに分かりましたね。
今思うと、寝たふりしないで、堂々と覗けば良か
ったと後悔しています。

父は、ワザと私に見せつけたり助平な会話聞かせ
るのが大、大、大好きでしたし、私も父の助平
遺伝子そのまま受け継いだので、言葉がなくても
理解し合えましたから。

68歳、現役さんと似た様な環境で育ちましたね。
もし宜しければ、個人的にメール交換したいので
すが、どの様にすれば宜しいでしょうか?
教えて頂けませんでしょうか?
宜しくお願い致します。



5
投稿者:哲也
2021/05/31 20:01:45    (ohZTrFIB)
私も八十路です。終戦の年が小学4年生でした。
東北の田舎の農家でした。
当時の農家では昼食後、1時間ほど休んで(昼寝して)
それから午後の農作業に出て行きました。
夏休みには、子ども達は川へ泳ぎに行ったり、鎮守様のある
森で遊んだりていました。
ある日、私は遊んでいるうちに転んで足をすりむいたので
家に帰ってきました。
昼寝をしていると思った父と母が裸で重なっていました。
父が母の上になって腰をぐいぐいと動かしていました。
びっくり仰天、息を殺して見ていました。
母のおっぱいがゆさゆさと前後にゆれて、父がその乳房を
もんだり、乳首に口をつけたりしていました。
母は苦しそうな顔をしていましたが、そのうちに声を出しました。
「あー、あんー、あー、あいー、ひー、いくー」
父の動きが止まって二人抱き合ってはあはあと息をしていました。
やがて父が母の上から降りると、母が手ぬぐいで父のチンコと
自分の股間を拭いてパンツをはきました。
そこまで見て我に返って逃げ出しました。
その日の夕食で父と母の顔を見るのが恐ろしかった。


















6
投稿者:やそじ
2021/06/01 01:19:56    (HfEzTmaW)
みなさま。
ご感想をありがたうございました。
冥途へのいい土産になりました。あの日、家が焼けましたが、
親父とお袋は焼け跡で人目もはばからず交合に励んでおりました。
食い物も娯楽もなく、国は破れ、楽しみと言えば
まぐわいだけだったと思いますが、親ながら
禽獣と同様な交わりに恥ずかしく、顔を赤らめたものでございます。
7
投稿者:(無名)
2021/06/11 01:15:32    (2IZUu9Kg)
其れは無いでしょう
8
投稿者:琢郎
2021/07/09 20:52:30    (EYjn1XZF)
戦後のことですが、兵隊で戦争に行った父が生死不明でした。
叔父(父の弟)は戦後まもなく復員してきました。
3年たっても父の生死は分からず、戦死したものと思っていました。
ある夜、ボクはトイレに起きて帰るとき変な声が聞こえました。
奥の母の寝室です。行ってのぞいてみました。
叔父が母に抱きついて母が抵抗していました。
ボクは凍り付いて動けないし声も出ません。
叔父は母の寝間着を剥ぎ取って裸にしました。
「だめ、いけません、やめて」
と言って逃げようとする母を押さえつけています。
「いいだろう、お義姉さん、兄貴は戦死したんだよ」
叔父は自分も裸になってそのおちんちんはものすごく大きく
そそり立っていました。
それを母の股間の満中にぐいと突き入れました。
そのままぐいぐいと腰を動かしていました。
はっと気がついたボクはあわてて自分の部屋に逃げ帰りました。
翌朝、朝食の時、恐る恐る行ったら、母も叔父もにこにこ
としていました。













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