真面目で清楚な女性は、幼い頃から御両親に大切に育てられたはずです。
また、良家の御嬢様の場合などは、世間体もありますから、「どこに出しても恥ずかしくない娘であってもらいたい!」との想いから、性に対して「淫らで汚らわしい事!」と、性に関して否定的な考え方を植え付け、思春期になってもセックスに興味を持たないように育てようとする傾向が強くなります。
こうして育てられた女性たちの多くは、次のような教育をされているようです。
「男女の性の交わりは、あくまでも夫婦の間での出来事であり、子供を授かる一種の儀式である。」
「セックスに快感がある訳ではない。あるいは、性的な快楽の世界があるとしても、そうした汚らわしい快楽に身を任せてはならない。」
「淫欲に溺れることは、恥ずべきことである。」
「男性は自慰行為をするにしても、女はそうした行為をするものではない。」
「肌を男性の目に晒すことによって、男性を性的に挑発するなど、ふしだらで汚らわしい行為である。」
などです。
しかし、親元にいる間は、性に対して無関心であったとしても、次第に性の世界に興味を持ち、性の快楽に目覚めてしまうのは自明の理です。
ただ、性的な快楽の世界を知ってしまったとしても、親の教育を鵜呑みにして長く生きてきた為、性的な快楽を求めることに強い「罪悪感」を持ってしまう。
この「罪悪感」こそが、彼女たちを苦しめることになります。
大人となり・・・
「恋人と同士や夫婦が性の世界を楽しむことは、子供を作るかどうかにかかわらず、男女の絆を深める大切なことであり、性的な快楽を求めてもいい。」
と言う知識を得たとしても、心のどこかで「罪悪感」を拭い切れない。
男性の前(人前)で足を開くなど、幼い頃から「いけないこと!」として厳しく躾けられてきた女性が、恋人や夫の前では足を開いてもいい・・・と言われても、「いけないこと」「恥ずかしいこと」「汚らわしいこと」と教えられて来た意識が抜け切れず、どうしても恥ずかしさを拭い切れない。
「性的な快楽に溺れてもいい」と言われても、快楽に溺れてしまい、我を忘れるほどに乱れてしまうと、どうしても「淫らで汚らわしい女に堕ちてしまった!」と言う「罪悪感」が付き纏う。
「悪魔の囁き」と言う言葉があります。
「人間を不健全な道や楽な道に進ませて堕落させるために、悪魔が発する甘言や誘惑」と言う意味です。
ただ、「悪の道に進んではいけない!」と言う気持ちがありながらも、悪の世界には、まっとうな道を歩む者にとっては無縁である「甘い蜜の世界」が待っている!
人は弱い者で、どうしてもこうした「悪魔の囁き」に惑わされ、その甘美な世界を求めてしまう。
彼女たち清楚な女性たちにとって、「性的な快楽」は、まさに悪魔の甘言に惑わされ、その本来なら求めてはならない快楽を得てしまった!
と言う意識があると思われます。
だからこそ、性的な快楽を得てしまうことは、「背徳的な快楽」であるはずです。
「背徳的な快楽」だからこそ、どうしても「罪悪感」を抱かざるを得ない。
夫婦となった場合、「この人の前でだけは、淫らな女になってもいいんだ!」と言うことに気付き、夫の求めるままに性の世界へとのめり込むことが出来る。
それでも、どこかには「罪悪感」を抱えているはずです。
(ちなみに・・・同じ御嬢様であっても、帰国子女の場合、キスやハグが当たり前の世界を経験しているので、日本の箱入り娘とは性に考え方が全く異なります。)
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