2025/07/15 17:35:50
(OrHwdjAS)
広瀬から渡された紙切れを握り締めた俺の右手はまるでそこに心臓が有るのでは無いかと思うほどに感じられた。
広瀬は既に立ち去っていた。俺はその場に立っているのがやっとな程、動悸が高まり、全身から汗が吹き出ていた。
いつも親切に接してくれる若い刑務官が田中さん、大丈夫ですか?と尋ねてくる。俺はなんとか乾いた唇から大丈夫ですと答えて洗い場に戻った。
緊張して右手が固まって開かない。俺は周りに気付かれない様に左手で固まった右手指を押し広げて広瀬が寄越した紙切れを手元にあった作業日報のノートのページの隙間に押し込んだ。
それからは洗い場で作業をしながら、刑務官に今、報告すべきではないのか。紙切れには何が書いてあるのか。手だけは長年の経験から機械的に動いていたが、視界が時々霞む程に頭の中は色々な想定をして身体の震えが止まらなかった。
帰りが同じ方向で初日から気さくに声を掛けてくれた同僚の三橋さんが、田中さん、大丈夫か?具合悪そうだぞ。もうこのバットやれば終わりだから先に上がれよ。あとやっておくからと気遣ってくれた。
俺は身体の震えが止まらず、三橋の好意に甘えて先に上がらせてもらう事になった。他の同僚も俺の尋常じゃない様子を見て早く上がれと即す。
俺は広瀬から渡された紙切れを挟んだノートを掴んで、なんとか控室に戻った。
息をするのも苦しい程の有様だった俺は、控室前にいた刑務官に挨拶をして控室に入ると倒れ込むように床にへたり込んだ。
ノートを開くと、そこに広瀬が寄越した小さな紙切れがあった。俺は震える手でそれを掴み、そこに丁寧に書かれた小さな文字を読んだ。
そこには住所が書かれていた。住所の下に俺の女房、様子を見てきてくれ。と書いてあった。
俺は脅迫などの先ずは最悪な想定が外れた安堵感で、やっと動悸が収まり小刻みな身体の震えが止まった。
俺はなんとか息を整えて着替ると、鞄の中から札入れを取り出して広瀬が寄越した紙切れを札の間に挟みこんだ。
通用門から出る時に、少し緊張したが俺はなんとか平静を装い通用門を抜けるといつもより一本前のバスに乗り込んだ。
駅について電車を待つ間、俺は札入れを鞄から取り出して、広瀬の丁寧で綺麗な小さな文字で書かれた住所を見つめた。
広瀬がどんな罪を犯したのかは分からない。雰囲気からすると俺とあまり歳の変わらない男に見える。
女房の様子を見てきてくれ。
どんな事情か分からないが広瀬の妻は面会に来てないのだろうか。この住所は犯罪を犯した時に夫婦で暮らしていた場所なのだろうか。
もしそうだとしたら、彼の妻はもうそこには住んでいないのではないだろうか。
そんな事を紙切れを見つめながら考えていると、到着した電車から学生達が降りてきた。
扉の前で突っ立ている中年男を邪魔だとばかりに一瞥して女子高生の2人組が俺の鞄にぶつかりながら電車から降りてくる。俺は我に帰って発車アナウンスが流れたホームから電車に小走りで乗り込んだ。
電車の吊り革に手を伸ばすと、電車の路線図が目に入った。広瀬が寄越した紙切れに書いてあった住所は俺の最寄り駅の隣で降りて商店街を抜けて暫く歩いたあたりだ。
女房の様子を見てきてくれ。
そんな事を頼まれても、事情も分からない、ましてや依頼してきた男は囚人、急に尋ねていってどんな反応をされるかも分からない、それに前提として仕事中に囚人とは必要以上の接触は禁止されている。
どう考えても、こんな頼みを聞くわけにはいかない。しかし、紙切れを寄越した時の広瀬の真剣な何かすがる様な目つき。刑務官に俺が報告したら、それこそ大変なことになるだろうに、それでも俺に託したのには何か理由があるのだろう。
電車の車内アナウンスが俺の降りる駅の名を告げていた。扉が開く。俺の足は動かない。
もう一度、紙切れの住所を見る。扉が締まる。
俺はスマホを取り出して、画面に住所を入力した。
〜つづく