2023/06/07 17:48:56
(Spzv7Kml)
昼に家内からLINEの返信があった。
ありがとう。では来週水曜18時にQ'sで。
Q'sというのは、俺たち夫婦が結婚前によく行った老舗のレストランバー。
結婚前の楽しかった思い出がある店を家内が指定して来た事が俺には嬉しかった。
俺はその日から次の水曜日が来るのを一日千秋の思いで待った。水曜日は生憎、朝から雨が降っていた。天気予報では夜半には止むという事だったが会社を久しぶりに定時に上がって、駅からQ'sへ向かう間、雨脚は強くなっていた。
俺はびしょ濡れになったコートを脱いで店内に入る。テーブル席を超えた奥の長いカウンター席に家内が座っているのが見える。
まだ付き合っている時分、デートの待ち合わせはいつもこの店だった。家内はテーブル席よりもカウンター席を好み、いつも長いカウンター席の端に座って営業職で待ち合わせ時刻にいつも遅刻する俺を待っていてくれていた。
カウンター席の後ろ姿の家内の名を呼ぶと、笑顔で家内は俺に手を振った。
家内の笑顔を見るのは何年ぶりいや十何年振りだろう。俺は交際期間中の家内のことを思い出していた。
いつもは混雑している店内が、今夜は雨模様で客もまばらだ。俺は家内に手を振り返したあと、隣に座った。
悪い。待ったか?ごめん。これでも急いで来たんだけど。俺が笑顔の家内に言うと、家内は笑いながら
全然待ってないわ。嘘みたい。あの遅刻魔の貴方が約束の時間前に来るなんて。貴方もヤキが回ったのね。と言ってクスクス笑う。
そんな事、言ったらクノだって何も飲んでない、食べてないで待ってるなんて、ヤキが回ってんじゃないのか?
クノ。結婚してからお前と呼んでいた家内の名前だ。家内の名前は久乃、ヒサノ。友達からはクノというあだ名で呼ばれていた。
交際期間中は、家内を俺はあだ名のクノと呼んでいた。
交際期間中によく来た店の、いつもと同じカウンター、いつものシチュエーションに俺は自然と家内をクノと懐かしい呼び名で呼んでいた。
クノ。久しぶりに声に出すと愛しさが込み上げた。
残念でした。もう飲みものも食べ物も、先に自分のは頼んじゃいました。とクノが笑う。
笑ったそばから、彼女がオーダーしたジントニックとクラブハウスサンドが運ばれてきた。
クノはグラスを受け取ると
では、いつも通りお先にと笑いながらジントニックのグラスを煽って、クラブハウスサンドを一口齧って微笑んだ。
懐かしい光景だった。クノは毎回遅刻する俺を待ちきれず、いつもジントニックと彼女の大好物のこの店のクラブハウスサンドを美味しそうに頬張って俺を待ってくれていた。
クノは結婚前はとても陽気な明るい娘だった。ショートカットに大きな瞳が印象的な元気印の女の子だった。このカウンターで楽しげに笑っていた印象が思い出される。
今夜の彼女は、憔悴し切っていた先日の様子から一変して何か吹っ切れた様子で、まるで昔の様な明るい魅力を携えて微笑んでいた。
俺は何という馬鹿だったんだろう。
こんな素敵で魅力的な女性を傷つけて、追い込み、自ら手放した。
俺がオーダーしたウォッカソーダが届いた。
クノと乾杯する。クノはグラスを煽り、少し話し辛そうな仕草を見せたあと口を開いた。
こないだはごめんなさい。
貴方が突然現れて驚いてしまって。
でも、後から少し嬉しくなって…。