松原智恵子に似た美貌の持ち主の妻は、10歳年上だったから結婚を大反対された。
18歳から24歳まで、某代議士の愛人だったとの噂もあったから、超絶美人でも縁談が無かったらしいのだ。
私が高校に通う道すがら、タバコ屋の店番をしている美しい妻に見とれて挨拶するようになり、会話を交わすようになり、恋心が止まらなくなった。
ある雪の日、シャーベット状になった路面の雪を車がはね、妻の店先で私が全身に被ってしまったことがあった。
「まあ、大変。」
店先にいた妻がタオルを持ってきて、
「ちょっとこっちにいらっしゃい。」
と言って店の中へ入り、拭いてくれた。
拭いてくれる妻と接近して、綺麗なお姉さんのいい匂いに勃起、そこをモロに拭かれて妻の手が止まり、
「あら・・・ヤダわ・・・」
この日、私は店の奥の六畳部屋で、妻に17歳の童貞を捧げた。
松原智恵子に似た27歳の美人が、下半身を丸出しにして、私の男根にスキンを被せ、濡れた女陰で跨ってきたのだ。
「硬い・・・大きい・・・ああ、すごい・・・」
噂通りだとすれば、17歳のカチカチの男根は、某代議士のフニャチンしか知らない妻にとって、素敵な生ディルドだったのかもしれない。
この日以来、私は毎日妻のタバコ屋に寄り道して、カチカチの男根で妻を喘がせていた。
妻はスレンダーだったが、貧乳ではなくCカップほどはあった。
妻しか知らない私は、他の女性との比較はできないけれど、女優級の美人と交わす性交は、私にとって天にも昇る快楽だった。
某代議士に使い古されたかもしれない女陰も、私にとっては湿り気を絶やさない柔肉だった。
昭和の色香、そして姦淫に溺れる美貌の悲哀、美しくも仄かに香り立つ大人の女の艶かしさ、私は妻の女体と色香に囚われていきました。
落ち着いた身のこなしで見せる媚薬のような眼差しに、私の淫気は奮い立ち、萎えることなく温かき肉の抱擁を堪能しつくした。
結婚は、私が高校を出て就職2年後、私20歳で妻が30歳だった。
結婚後は生性交、淫気で惑わされて毎晩抜かずの三発、三十路妻は二十歳の若き男根を貪りつくした。
妻は二十歳の淫味に酔い痴れ、滴る精液を吸い尽くし、翌年女児を出産した。
まだ昭和の時代、三十路出産は高齢出産と言われ、第二子は諦めた。
血気盛んな20代の私は、お色気美人の三十路妻を毎晩抱いた。
生理が来ても我慢できず、妻に手コキで連発抜かれた。
あの、射精中と射精後にも止めない扱きは、私を悶絶させた。
私が三十路になると妻は四十路、まだまだ元気な私は、性交の技術も向上し、女盛りの美熟女妻をヨガらせまくった。
私が四十路になると、妻は五十路、お互いに勢力が衰え始めたが、それでも週5回は営んだ。
五十路でも妻の美しさは群を抜いていたが、10歳若い夫に酷使された荒淫女陰は、どす黒く変色してグロテスクだった。
私が五十路になると、妻は還暦を迎え、その女体も緩んできた。
しかし、五十路の私は還暦過ぎた妻を週3回は求め、妻も応じた。
私が還暦を迎えて、妻が古希、それでも週1回の営みは欠かさなかった。
古希の妻の女体はかなり緩んできたが、乳房はまだ垂れてなく、女陰も十分に濡れた。
私も第二の職場で現役を続けていたが、昨年、その職場も65歳で退いた。
毎日、妻と二人で余生を楽んでいたのも束の間・・・・
先月、妻の一周忌だった。
妻の弟、と言っても私より7歳年上と、妻の妹、これまた私より4歳年上だが、それから嫁いで20年になる娘と4人で、妻の思い出を語っていた。
その時、妻の弟が、私と妻の妹の同居を勧めてきた。
妻の妹は25年前、子供が成人した45歳で離婚している。
娘も、俺を心配して同居を勧めてきた。
今、年上の義妹と暮らしている。
先日、私は70歳の義妹を求めた。
「えっ?私を御所望・・・70歳よ・・・」
と言いつつ、頬を染めた。
そして、私は66歳にして、初めて妻以外の女陰を知った。
70歳の義妹と66歳の私が、妻の仏壇を閉じて交わった。
義妹は、25年ぶりの男根に、女陰を濡らし、66歳の精液を受け止めた。
「まさか、私たちがこんな関係になるとは、思ってなかったでしょうね・・・」
と微笑んだ70歳の義妹に、亡き妻の面影が過った・・・