人間、落ちる時は一瞬だ。
俺は今年、56歳になる。普通の務め人なら老後がある程度具体的に始まる歳だ。実際、同級生達の人生は早期退職だの、関連会社に出向だの何やら騒がしくなって来ている。
そんな騒ぎを横目に俺は最低レベルの生活。いや最早、これを生活とは呼べ無いところまで落ちていた。
傾いた実家の稼業の継承を2人の兄達が要領良く逃げ、これと言った将来の計画も無かった三男の俺が継ぐ事になり、なんだかんだで30年は持たせたが時代の流れに逆らえず地元の商店街で80年続いた呉服屋を潰した。
夜逃げに近い形で地元を後にして、幸か不幸か独身だった俺は都会でその日暮らしの生活を始めた。
3年前、前日に知り合いの仕事をやって日払いで貰った金で、昼間から酒屋の角打ちで安酒を飲んでいたホームレス寸前の生活をしていた俺に、男が声を掛けてきた。
お兄さん、一杯ご馳走させてくださいよ。
世の中の鼻つまみ者の吹き溜まりの様な裏通りの酒屋の立ち飲みカウンター席。
俺は魚の缶詰でカップ酒を煽っていた。
なんだよ?お前誰だ?知らない奴に酒を奢って貰うほど落ちぶれちゃいねーよ。あっち行け。
俺は、声をかけて来た男の顔も見ずに手で追い払う仕草をした。
お兄さん、まぁそう邪険にするもんでも無いですよ。話だけでも聞いてください。男は俺の横に並び、おばちゃん、こっちに同じの2つ出してと言って店の人間に金を渡す。
奴は俺に新しいカップ酒を寄越すと自分のカップを開け、へへへっ兄さん、ま、いいじゃないすか。乾杯してくださいよと俺の手にした酒にカップ酒のコップを合わせる。
何だよ。気持ち悪いやつだな。何だよ?と俺が言うと男は薄ら笑いを浮かべながら、兄さん、気を悪くしないでくださいよ。兄さん、今はこんなとこで呑んでらっしゃるけど、昔はだいぶ良い生活してたんじゃないすか?私には分かるんですよ。
とカップ酒を煽った。
俺は何を言ってんのか良く分からねぇが、酒は有り難く貰っておくよ。有難うな。それで俺が昔、良い暮らしをしてたら何だって言うんだ?と尋ねた。
男はいや、余計なお世話なんすけどね。人間ってのは一回良い暮らしをするとなかなか、生活の質を落とすってのは難しいもんでね。
兄さんは、その点で苦労されてるんじゃ無いかってね。ええ。余計なお世話なんすけど。
私はね。今ちょっとした商売をやってましてね。お兄さんみたいな、時代の流れって言うんですかね、こうちょっと歯車が狂ったばかりに駄目になったけど実はセンスって言うか才能って言うかね。持った人に声を掛けちゃね。ウチの商売を手伝って貰いながら人生やり直すって言うかね。そういう事をやってるんすよ。
俺は相変わらず信用ならない薄ら笑いを浮かべた男に、なんだかワケの分からない話だな。分からないがアンタの与太話は聞いてやったんだ。遠慮なくコレ頂くぜと奴が寄越した酒を開けて呑んだ。
奴は俺が酒に口をつけたのを見ると、へへへっどうも。いい飲みっぷりですね。だけど、お兄さんの飲み方は破滅型だね。もっと酒は陽気に呑むもんだ。兄さん、俺の話を聞けば、も少しご陽気に飲めると思うんだけどね。どうすか?もう少し付き合っちゃくれませんか?
なんだ?言ってみろ。これが堕ちる処まで堕ちた俺が今思えば、良かったのか悪かったのか。生活が一変する始まりだった。