ラブホテルの一室で目が覚め、隣には下着姿で俺から昨夜、婚約指輪を貰ったという女、手にしたスマホには昨夜婚約指輪を突き返した元カノなりたての女からの着信。この状況で落ち着けと言う方が無理だ。俺はすっかり慌てて夏美からの着信を受ける。スマホから夏美の声が響く。サクちゃん、大丈夫?昨夜かなりショック受けてたから心配で。俺は夏美の心配しているという声に喜んだ。もしかしたら夏美は昨夜、家に帰って心を変えてくれたのかもしれない。プロポーズなんて急だったから。俺はなんとか気を落ち着かせ、大丈夫。いやこちらこそ昨夜は急に変なコト言ってごめん。びっくりさせたよね。来週でもゆっくり話そうよ。視界の端で、下着姿の女の呆れる意思表示の大袈裟なジェスチャーが見える。俺は視界に入らないように反対を向いて通話口を手で覆ってちょっと今朝はバタバタしてて、来週また連絡するからと言った。通話口が短く沈黙した後、夏美の小さな声が聞こえて来た。サクちゃん、私達もう会わない方が良いと思うの。俺は、頭をガツンと殴られた気がした。どこまで脳天気な男なんだろう。プロポーズを断られ、落ち込んで1人でタクシーにも乗れないくらいに落ち込んでいた男を死なれちゃ困ると心配して翌朝に連絡してきた女に、びっくりさせてゴメンね。来週また話そうって。馬鹿か…。俺は恥ずかしくなり、そりゃそうだよね。来週は話そうとかじゃないよね、何言ってるんだ俺。ごめん、ごめんと慌てている俺のスマホが取り上げられた。振り向くと下着姿の女が俺のスマホを手にしている。女はスマホに向かって大きな声を上げる。ねーあんた、昨夜この男振った女でしょ?何、中途半端にいい人ぶって、振った男に電話してるの?何、俺を捨てないでくれとか、まだ愛してるとでも言わせたいの?俺は慌てて下着姿の女からスマホを奪い返す。スマホから夏美の興奮した声が響く、何?誰?今の女!今どこにいるのっ!何?今の言い方っ!俺が慌てて、夏美ちゃん違うんだ。知らないひとなんだよ。俺の声に被さるように夏美の声が俺の耳をつん裂く。何?貴方、人に昨夜プロポーズしといて翌朝は違う女と一緒に居るんだ!あり得ないっ!通話が切れた。最低の女ね。良かったじゃん。そんな女と結婚しないで。下着女は俺に向き直って言う。なんで勝手に電話出たんだ?俺が言うと何言ってんの。情けない。婚約指輪返した女が中途半端な憐れみで電話してきたんだよ?男ならスッパリ切りなさいよ。と女が言う。確かにその通りだ。それどころか俺のプロポーズを断った彼女の心変わりを期待した。さらにはもう会わない方が良いと、ご丁寧に2日連続で振られた。俺が黙り込むと、元気出しなよ。サクちゃん。と俺の頭を小突いてきた。上品な淡い水色の下着。長い手足の白い肌。肩までの艶やかな黒髪。少し垂れ目気味の大きくて優しげな瞳。わたしの名前、覚えてる?プロポーズした女の名前を忘れちゃうんじゃ、そりゃ振られるわ。仕方ないか昨夜、凄い酔ってたもんね。でもメチャ楽しかったよ。私はカオリ。サクちゃん今日は休み?そう言ってカオリは、にっこりと俺に笑いかけた。俺はごめんなさい。昨夜は色々あって凄い勢いで飲んじゃって。カオリさん。はじめまして、僕は雄一。佐久間雄一でサクちゃんって呼ばれてて。サクちゃんはユウイチって言うんだ。ユウイチって顔じゃないね。私の知ってるユウイチは2人ともマトモじゃない。ユウイチ界にもちゃんとした人居るんだねと言ってカオリがクスッと笑う。いたずらな笑顔が魅力的だった。カオリは、サクちゃん改めユウちゃん。今日が休みなら朝ごはん一緒に食べに行かない?わたし、もうお腹ペコペコ。と言って下着から覗く白い腹をさすった。そうだね。確かにお腹空いてる。もう今日が何曜日なのか分からないくらい二日酔いだけど、土曜日だよね?休みだからどっかご飯行こうか。とお腹をさすっておどけているカオリに言った。決まり。じゃあわたしシャワー浴びてきちゃう。先にシャワー使って良い?カオリはタオルどこにあるんだろうと洗面台あたりを探っている。
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毎朝通勤で使う電車を最寄駅から、ほぼ同じ時間に反対方面にカオリと乗った。土曜日ということもあるが、まるで違う電車に乗った気分になる。天気が良かった、電車の中は光に溢れていて通勤とは逆のくだり電車の車窓は緑に溢れていた。カオリは春先の眩しい陽光の中で明るく笑う。こんなに穏やかな気持ちになったのは、どれくらいぶりだろうか。電車に揺られて俺たちは色々な話をした。カオリが夏美と同じ歳であることや、25歳で6歳年上の隣町の市会議員秘書と結婚して、その旦那が翌年立候補、当選してから議員夫人として支援者や後援会、婦人会に駆けづり回り、その間に子が出来ない事を男親夫婦や支援者に言われ続け、疲れきった時に旦那の女性問題が発覚。丁度、2期目の選挙の時で旦那は謝るどころか、対立候補陣営の陰謀だ、リークだと怒鳴り散らし、後援会からはこんな時こそ旦那を支えるのが妻の務めだと言われて選挙の出陣式には支援者を前に私の不徳の致すところですと頭を下げる旦那の横で、私が至らないばかりにと一緒に頭を下げることになったのだという。当選し連日、支援者や後援会にお礼回りに明け暮れていた時に旦那が未だ女性と切れていない、奥さんからも手を切る様に先生に言ってくれと後援会の重鎮から言われ、最早旦那に対する愛は冷めきっていたものの夫婦で苦労して築き上げた立場を壊さぬ為に、重鎮の指摘を伝えるとお前は黙っていろ、俺がひとりでどれだけ苦労してると思っているんだと始まったのだそうだ。その旦那の顔を見て離婚を決意、翌日に家を出て昔のツテをたどり、結婚前に取った資格を活かしてひとりで生活を始めたのだという。明るい表情で昔のことよと笑い飛ばしながら話してくれたがカオリは相当な苦労をしてきた女性だった。終点のひとつ手前の駅で電車を降りて、カオリが好きだという全然有名じゃない小さい海岸、名前は知らないという海岸に俺たちは向かった。途中のコンビニに寄って俺たちは、缶ビールやサンドイッチ、新聞を買い込んだ。コンビニ脇の細い下り坂を下ると目の前に青い海が広がった。春先のこの時期、海岸はまだヨチヨチ歩きの子供を連れた若い夫婦が波うち際を散歩しているだけ。晴れ渡る空、海は穏やかで遠くから潮騒と子供の笑い声が聞こえる。砂浜に俺たちは新聞紙を広げ、海に向かって並んで腰を下ろした。来て良かったね。カオリは春風に髪をそよがせて俺に微笑んで言った。うん。良かった。昨夜は地獄だったけど、今は天国にいるみたい。海、綺麗だね。俺は答えた。本当に綺麗。カオリは涼やかな瞳で海を見つめて言う。俺に振り返ると、お天気良いし、海は綺麗だし、ユウちゃんは生き返ったし、こりゃ飲まなきゃならんでしょと缶ビールを取り出し俺に寄越してあのいたずらな笑顔を見せた。乾杯!俺たちは缶ビールで乾杯した。何もかも間違えてたなぁ。俺は笑った。もう夏美ちゃんの事も、プロポーズ作戦の失敗も吹っ切れたけど、いずれにせよ俺があんな初めて行った高級レストランでプロポーズしようとか、見栄張って無理して高価な指輪渡したり、付き合い方というか生き方っていうか全然、無理してた。今こうしてると、こういう事かって思うよ。休みの日に電車乗って、のんびり海岸でコンビニの缶ビール飲んで。これで良かったのかも、これが良かったのかも。こんな風に過ごせる人と結婚すべきなんだろうね。そんな穏やかな日常の先にいつか、こんな海岸でこんなふうに過ごしてプロポーズとかするのが平凡だけど最高の幸せなのかもしれないなぁ。俺は幸せそうに波打ち側ではしゃぐ若い子連れの夫婦を見ながら呟いた。そうね。幸せって普通の生活をずっといつまでも普通に出来ることなのかもしれないね。確かにこんな時にプロポーズされたら思わず受けちゃうかもしれないわねと言ってカオリがビールを口にしながら笑う。練習していい?俺はカオリに尋ねる。え?練習?カオリが微笑む。そう。いつかこんなふうに幸せな時に指輪を渡す予行練習。俺はカオリに笑いながら提案した。カオリはまた、あの魅力的ないたずらな笑顔を見せて、良いね!やろう!練習しよ。と言ってくれる。俺は胸のポケットから指輪を取り出した。こっち向いて。俺がカオリに言うとカオリはこちらに向く。ときおり強い春風がカオリの髪を彼女の顔に撫でつける。
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