母の縄は厳しかった。柔軟な子供の身体といえども容赦なく縛り上げてきた。最初は、痛くて苦しくて辛くて母を恨んだりもした。畳の上に転がされ足首迄も縛られた。「これから買い出しに行ってくるから、、逃げられないようにしておかないと、、」母の顔は紅潮していた。自らの言葉に興奮しているようであった。抱き抱えられて母の部屋迄運ばれた私であった。畳に横たえさせられて、新たな縄加わった。柱へと繋がれた。そうして母は無造作に私の跨いで部屋を出て行った。スカートが翻り、覗けた中、母は黒色の下着を着けていた。当時、私の知識の中では、男物も女物もパンツと言葉していた。のちに、母と祖母の会話の中に「パンティ」といった言葉が出て来ていたことで女物はパンティであると知った。その時の母が穿いていた黒色の布地が私の脳裏に鮮烈に突き刺さった。ある日の事、お風呂場の脱衣場で、その黒色のパンティを見つけた。心臓が激しく打ち鳴らされた。気づいた時には、パンティに顔を埋めていた。初めて知った母親の匂いであった。食物の饐えたような独特の匂い。それでいて、どこか切ないような甘酸っぱい芳香に私の嗅覚は満たされていた。脱衣場に母が入って来た事にも気付かずにいた私なのであった。その後、当然に厳しいお仕置き(折檻)が待っていた。その夜、厳しく縛り上げられた私は、茶の間に据えられていました。嫌な予感が的中しました。そこへ祖母が現れたのであった。私は動揺した。祖母も仰天、その場に固まってた。母から理由を聞かされた祖母は納得の表情とともに笑みを浮かべて頷いた。この日から、私は、母親と祖母からの縄を受けることになったのである。祖母と母親ば実の親子です。私の父親は母のもとに婿入りしたのでしたが、夫婦としての折り合いが悪く、離婚して家を出て行ったのであった。そして私は母親の許で育てられたてきていたのでした。私の顔や性格が、別れた父親に似ているということもあってか、余り可愛がられた記憶がない。逆に、何か憎しみのようなものを感じていたのを子供心に覚えている。当時母は、40歳を過ぎた位。祖母は65歳位だったかと記憶している。母が留守の時には、祖母の部屋の柱に括りつけられて過ごす日常でした。65歳の老人とは思えぬ力強い縄の締め付けに涙を強いらる日々が続いた。この頃から、私は、母から祖母へと引き渡されるようになって行ったのあった。母は再婚したのでした。新しい男性が我が家に入っての生活が始まった。さすがに、夫となった者の前で、私を縛ることは適わず、悶々とした日々を送っていた母であった。私は、祖母の離れの部屋の中で過ごす日が殆どとなっていた。父親となった人は、子供には全く関心がなく、祖母の部屋で寝起きをしている私のとこなど気にも留めていなかった。もうその頃には祖母縛られる喜びに浸っていた私であった。嫉妬からなのか、時折り祖母の部屋に顔を出して来た母は、悔しそうに私の体の縄目に触れて、「随分とキツい縛りだこと、、私のものよりおばあちゃんの方が良いのかしら、気持ちいいの?」そんな言葉に反応するかのように、祖母は嬉しそうにほくそ笑んで、煙管の煙草をふかすのであった。正直、祖母からの縄欲しさに学校から帰ると、母屋にランドセルを投げ出して、祖母の待つ離れに一目散の私。部屋の内、押し入れの中から、自らの手で取り出した縄を祖母に手渡し、縛りを催促する程、祖母に恋焦がれていた私なのでした。それからというもの、祖母から受けた調教紛いの折檻に、幼きして私の人格は被虐の過程へと追いやられて行くのであった。日に日に変貌してゆく異端な少年。天性として生まれ持ってきていた被虐だったのでしょうか?家庭訪問当日、担任の先生に目撃された日のことは衝撃的なものであった。忘れもうにも忘れられないものであった。ましてや、女教師だったのですから。恥ずかしさで顔が燃え尽きてしまうのではないのかと思うほどに熱くほてった頬。その日は、祖母が外出していた為、久しぶりに母からの縛りに身を委ねていた母屋の中でのこと。「かあちゃん、ごめんなさい。ばあちゃんばかりに縛られていて。本当はかあちゃんに縛って欲しいんだよ」強く縛ってもらいたいが為に、そんなお世辞を使って、母をその気にさせたりしたものでした。案の定、その言葉に喜んだ母は。今までにない量の縄を使って縛り上げてきてくれたのでした。そんな最中、玄関で声をかけた先生の声に気付かずにいた私たち二人。庭先に面した縁側、その奥の日本間の畳の上で後ろ手に手足を縛られて転がされていた教え子の姿を発見。気の強い先生であった為、庭先から駆け上がってきて、私
...省略されました。