2022/03/06 14:04:22
(L1mrsq/k)
続き(第三回)
「世の中には、いろんな人が居るもんだ。
悪い人では無さそうだし。縛られる方の立場の者なんだから心配はないだろう。
ばあさんや、そうしてあげたらどうじゃ。
こんな山奥まで一人で来たんじゃ、、余程の決心がなければ
、、余程に思い詰めていたんじゃろう。」
夫は、妻のことを「ばあさん」と呼んでいた。
その言葉にも、私の胸は熱くなった。
第一回でも話したように、私は若い女性には全くと言って良いほど興味がない。
熟女好みである。それも、60歳以上の老婆に憧れている。
その訳は、幼少期から少年期に遡る。
悪戯盛りであった私。同居していた母方の祖母との間に原因があった。
訳あって、ひとつ屋根の下で生活していながらも、父母との触れ合いは無きに等しく、
中学を卒業する迄、祖母の手によって育てられてきた私なのであった。
厳格な祖母の厳しい教育の中で育てられて来た私であった。
私の悪戯を咎める為と言っては、祖母の部屋の押し入れに閉じ込められることが毎日の慣わしでした。
無論、押し入れに錠前などは無く、何度となく逃げだしたのです。
そうした逃亡が、尚更に、祖母の怒りを買ってしまいました。
逃げ出せないようにと、祖母が持ち出して来た荒縄で、手足を括られてしまったのでした。
余りの悔しさに泣きわめく私の口には、猿轡を噛ませてきた祖母だったのでした。
ひとつ家の中、子供の私に対して、祖母がしている行為は、両親にも分かっていたのですが、
父親は、祖母には、何ひとつ言えないでいました。
母親の方は、「許してあげて下さい」と必死にお願いしていたのですが、
祖母には聞き入れらることはありませんでした。
短い時間でも半日。長い時では丸一日、縛られたままの状態で、押し入れの中で過ごしました。
例えば、朝に押し入れに閉じ込められたならば、夕飯まではご飯は充てがわれませんでした。
さすがに飲み水の方は、日に何度かは、飲ませて貰いました。
猿轡を解かれて、祖母抱きかかえられるようにして、茶碗から水を飲ませてもらったのでした。
猿轡を解かれたことで、ようやく自由になった口で、精一杯に訴えたのでした。
「おばあちゃん、ごめんなさい。もう、いたずらはしないので、ここから出して、、、
かんにんしてよ、手が痛いんだよ。息が苦しいんだよ。暗くて怖いんだよ。」
そうした私の訴えても空しく、祖母は薄笑いを浮かべて、意気地のないことを言わないの。
男の子だったら、これくらいのこと我慢しなさい。」
そうして、歳月は流れて、私が中学も間もなく卒業する頃。
祖母は突然に亡くなってしまいました。
その時も私は、祖母の部屋の押し入れの中で両手足と猿轡の身で転がされていたのでした。
祖母の死は脳溢血でした。
祖母を発見した者は母でした。
母は祖母は親子であり、この家のひとり娘であり、跡取りなのでした。
この時には、父親は母と離婚をしていて、家を出ていたのでした。
と言うよりも、追い出された。と聞かされていました。
幼少期から中学生にかけての凡そ十年間、人間の人格が形成される最も大切な時期に、私は、祖母の縄と轡で育成されて来た15歳の春でした。
無論、幼年期では、抵抗するも、祖母の力に敵うこともなく、なんなりと縛り上げられてしまっていたのですが。
中学生ともなれば、男の私の方が祖母よりも力では優っていました。
が然し、その頃の私は、もう既に祖母の虜であり、縄による拘束。
「縛られる」ことに魅力されてしまっていたのでした。
所謂「マゾヒスト」と成り果てていたのでした。
「マゾヒスト」時点では、その様な言葉は知るよしもなかったのですが、祖母からの縄を求める日々なのでした。
無論、祖母が亡くなる日迄、母親もえそうした行為が続いていることは承知していたものでした。
母親の目の前で、ブリーフ一枚にされた私は、祖母に縄掛けされてゆくことも少なからずありました。
異常と言えば異常ですね。
親子三世代に渡って、その様な行為が平然と行われていたのですから。
その母も既に他界しています。
祖母が亡くなり、嘆き悲しんでいる私を憐れんだ母親が、
「私で良ければ縛って上げてもいいわよ。おばあちゃんの様に上手に縛れるかどうか分からないけど、、」
その後何度か、母親の手で、縛ってもらいましたが、納得が行きませんでした。
母親の縄掛けが下手なのではなかったのです。
むしろ、祖母よりも若い母親の縄掛けの方がキツい縄目であったことを覚えています。
厳しい縄目ではなく、祖母といった立場の者でなくてはならなかったのです。
つまり、時点の私の年齢よりも50歳60歳と歳の開きがなければならなかったのでした。
そうして、歳月は流れ令和の時代を迎えた今日。
ようやくにして探し求めていた老夫婦。
いや、正確に言えば、老女(熟女)と巡り会ったのである。