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2001/08/09 19:15:32
(pVl.lN/I)
バッハはいい。特に真夏の昼に聞くと格別。
エアコンで冷やした部屋で、蝉の音と共に流れるバッハの調べ。窓からは青い空
と大きな入道雲。そしてプラチナ色の太陽。
僕は一人ベッドに寝転んでバッハを聞く。バイオリンやフルートやチェンバロ
や、そう言ったバロック時代の楽器達が奏でる音楽。安らぐ気持ち。優しい気持
ち。
目をつむり、音だけに心を集中させる。そうすると目の裏にとても不思議な映像
が流れた。
山の中の大きな丸い湖。とても深い青。藍色と言ってもいいぐらい。奇妙な物体
がその上を覆っている。物体は湖と同じぐらい大きく、幾何学的な形。中心にある
球から何本もの細くて直線的な足が生えている。まるで金属製の蜘蛛のように。
その脚はゆったりとバッハの音楽に合わせるかのように動く。脚は湖の湖面に付
いたり離れたりする。
僕はそれを高い所から眺めた。まるで鳥のように空を舞っている。空は雲ひとつ
無く青い。風は無く、ただバッハが流れる。
…目を開けるとそこが僕の部屋だと気付く。現実には無い、夢の世界を旅行して
きた気がする。現実と繋がろうとしばらく天井を見上げた。何の変哲も無い、木張
りの天井。
僕の現実もそこにある。
僕は大学生。心理学を勉強している。本を読むのが好き。だからと言ってフロイ
トやユングの本を読むわけではない。日本の現代作家の作品を好んで読んでいる。
村上春樹とか村上龍とか。
将来は特になりたい物があるわけでも無い。心理関係の職業につきたいとも余り
思わない。疲れなくて、暇なときに本が読める職業ならば何でも良いと思う。オヤ
ジと同じで地方公務員とか。
普通の大学生みたいにサークルに入って騒ぎたいとは思わない。静かにバッハを
聞きながら―僕はバッハが大好きなんだ―、本を読む。それで十分。
今は8月の初め。大学の春学期は終わり、面倒くさいテストも終わった。これか
ら長い夏休みに入る。だから沢山本も読める。
それと、ガールフレンドと映画も見に行く。名前は佳織ちゃん。彼女は一歳年下
でとても頭が良くて、明るい性格だ。目がお人形さんみたいに綺麗で美人。なんで
僕なんかと付き合う事になったのだろうと時々思う。インターネットで知り合っ
て、メールを交換しているうちに僕を気に入ってくれたらしい。どこが気に入った
のだろう。未だに良く分らない。
僕と彼女は3ヶ月付き合ってキスもした事が無い。僕が奥手だからなのが理由の
7割を占めていて、彼女も意外と奥手なのが3割を占めている。
ただ、映画を一緒に見に行くと映画館の暗がりの中でずっと僕らは手を繋ぐ。大
抵その時の有名どころを見に行くのだけれど、映画の内容は殆ど覚えていない。覚
えているのは心臓の鼓動ぐらい。
そんなこんなで色々と夏休みのプランを考える。村上春樹の小説を全部読み返し
て、アメリカ文学もちょっと読む。それに今年の映画は結構面白そうだ。佳織ちゃ
んと全部制覇しよう。でも、どっちみち内容は頭に入らないかな。あれも良いか
な、これはどうかなって具合で。
だけど、そのプランはかなりの変更を迫られてしまった。マクドナルドでアルバ
イトする事になったから。
それは友達と電話をしていた時の事だった。
「ケントってちょっとバイトしたほうが良いよ。なんか、浮世離れしているのだも
んな。こんなんで社会に出たら何の役にも立たないよ」
突然友達にこんな事を言われてしまった。ケントって言うのは僕の名前。大体友
達は僕の下の名前を取ってケントって言う。昔からあだ名であまり呼ばれないのは
どうしてだろう。
彼は小学校の頃からの親友だから、色々な事を本音で言い合える。ブレイクダン
スをするB-boyだ。彼は昔から真面目だったし、今も真面目。だけど今の彼の格好
をちょっと見ただけでは余り真面目ではない。ピアスが右耳にも左耳にも太いのが
刺さっているし髪の毛は金髪。ダブダブのズボンとT-シャツをいつも着ている。
僕とは大違いな育ち方。彼は高校の頃からアルバイトをしていた。コンビニやクレ
ープ屋など、様々な職業にチャレンジしている。アルバイトは金は入るし、色々な
体験は出来るし良い事ずくめだと彼はいつも言っていた。対する僕はアルバイトの
経験はただの一度も無い。
「うーん、やっぱそうかな。でもさ、俺は本を読めるだけで良いのだよ。後は余り
望まないし」
僕は社会で何の役にも立たないと言われて心に小さなナイフが刺さったようだっ
た。二十歳になろうとしている今、いつかは社会に出なくてはならないだろうとい
つも思っている。だから、その事を言われるととても心が痛んだ。将来がとても暗
いものに思える。
「それにしたってさ、ケントだっていつかは家庭を持ってお父さんになるかもしれ
ないのだよ。彼女だってやっとできたんじゃん。幸せにしてあげようとか思わない
の?」
心にもう1本ナイフが刺さった。前のよりもかなり大きい。ふと彼女の手のぬく
もりを右手に思い出した。まさに図星。彼女を幸せにしてあげたい。
「そりゃ、彼女とそこまで行けたら幸せにしてあげたいよ」
「じゃあ、ちょっと社会勉強しようよ」
「うーん」
「マクドナルドなんか初心者にはいいと思うよ。みんな大変だって言うけど、一番
安心してできるよ。色々な意味で」
「うーん」
「なんなら俺も付いて行ってあげようか?」
「…分った。今度電話してみるよ、近くのところに」
「すぐに電話しなよ。ケントってすぐ気分が変わるから」
「うーん」
「じゃあ、頑張ってね。応援してるから」
「…うん、じゃあね」
…ピッ、と電話を切ったとたん、僕はどう仕様も無い気持ちになった。僕はバイ
トなんかしたくない。だけどしないことにはたぶん、将来は明るくないと思った。
佳織ちゃんの手のぬくもりが戻って来る。そう言えば佳織ちゃんも地元のマクド
ナルドでアルバイトをしていた。「バイトって楽しいよ。ケント君もなんかバイト
すれば良いのに」とか彼女が言っていたのを思い出す。
僕は近くのマクドナルドの電話番号を調べようと考える。家のどこかにあるはず
のタウンページを探しに部屋を出た。
そこは駅前のマクドナルドだった。僕の住んでいる駅は結構栄えている。ビルも
沢山あって映画館もある。
僕は店の前で立ち往生していた。夏真っ盛り。とてもよく晴れていて太陽がさん
さんと輝く。入道雲は存在感溢れる輪郭で青い空に迫り出していた。人々は明るい
色の服を着て汗を掻きながら歩いている。みんな楽しそうな顔だ。駅の入り口近く
では路上ミュージシャンがギター片手に歌っている。でも歌は上手く無い。
マクドナルドに電話をすると、明日の午後3時に履歴書を持ってくるようにと言
われた。面接らしい。僕は電話が終わると近くのコンビニに行って履歴書を買っ
た。コンビニの店員さんは僕と同じぐらいの歳。そしてとても上手い応対。僕には
一生できない。
家に帰ってきて履歴書を書く。何年に小学校を卒業したか?何年に高校に入った
か?指で今の年から逆算して書き込んでいった。
最後に志望の動機。「これから社会に出て行く為に良い勉強になればと思い志望
させて頂きました」。うん、悪くない。
その夜、ガールフレンドと電話をしてマクドナルドに面接に行く事を告げた。
「あっ、ケント君やっとその気になったんだ。よかったね。今度給料入ったらディ
ズニーランド行こうよ。お金あるから思いっきり遊べるよ」
「…うん。そうしようか。ディズニーランドなんて久し振りだな」
「私も久し振り」
彼女は嬉しそうに笑う。電話の向こうの笑顔が頭に浮かぶようだった。
「そうそう、今度映画はいつ行く?来週の土曜は空いてない?」
「…たぶん大丈夫だよ。バイトでどうなるかちょっと分らないけど」
「あっ、それなら全然大丈夫だよ。シフトは一週間ごとに提出してね…」
彼女はひとしきりシフトのシステムを説明する。なんだか楽しそう。僕がマクド
ナルドで仕事を始めるのが嬉しいのかも。同じ話題が増えるし、もしかしたら同じ
場所で仕事をする事だって出来るかも知れない。そう思うと僕まで嬉しくなってき
た。
「…それじゃあ、土曜にケント君の駅まで行くね」
「うん、わかった」
「じゃあ、そう言う事で。ばいばい。またね」
「うん、ばいばい」