性的虐待体験
1:昔のショーに出されたこと
投稿者:
60代の女
よく読まれている体験談
素敵な御夫婦で、憧れます。そういう世界があるのですね。深い愛情を感じます。
また少しショーに出されていた時の事を書かせていただきます。
クラブで私達を縛る人は男女で四人ほどいましたが、今考えると皆上手だったと思います。
必要以上の痛みや後で障害となるような縛られ方はされたことがありません。
ショーに出され始めたころは皆恐い人と思ってましたが、一年くらいすると恐いなりにショーの時も少しでも私達の身体への負担を軽くしてくれる優しさと言うか気づかいもしてくれている事が分かるようになりました。
気づかいと言っても、縛っている時に小さな声で「大丈夫か?」と聞いてくれたり、浣腸を受けてる時に、やはり小さな声で「苦しいけど耐えるしかないのよ、しっかりね」と励ましてくれたりするくらいなのですけど、まだ幼い私にはとても励みになりました。
不思議なもので、そう感じ始めたら縛られたり責められたりする時に、自分の耐えられる範囲で少しでもその人の意に沿うようにしようと言う気持ちが出てきました。
後に主人から責めてもらえるようになった時に、主人に対して感じたのと似た感情だったのかもしれません。
全く別のお話です。
私はショーに出されて多くの人に恥ずかしい裸を見られました。
苦痛には慣れる面もありましたが、精神的な羞恥や屈辱感は慣れたようでも、ちょっとしたことでまた気が狂いそうなほどの苦しさを感じることがありました。
私が舞台で母と親子のレズをさせられた後、足をM字に縛られ晒されていると、後から私達親子と同じくらいの年齢と思われる女の人と男の子が全裸で引き出されてきました。
私達が楽屋で準備している時にはいませんでしたから、後になって連れてこられたのだと思いますが、その二人と一緒に出されるなんて全然教えられていませんでした。
母親らしい女の人も男の子も、顔の下半分は口を塞いでいる布で見えませんでしたが、目元はきれいな感じの人でした。
二人ともショーに出されることなど慣れてないのは直ぐに分かりました。
無駄な抵抗だけど、身体を捻ったり座り込もうとしたりして、その都度鞭で叩かれたり、千枚通しのようなもので身体をつつかれて脅かされていました。
司会の人から、母親はこのあと競売に掛けられて一週間奴隷とされると説明がありました。
さらに「息子も競売に掛けられたくなければ、この場で息子を射精させなさい」と命じられて縄をほどかれ、緊張と羞恥と恐怖で涙を流し続けてる男の子のあれを必死に手で弄っていました。
しかし男の子を射精させることは出来ず、罰として母親には浣腸をされ、さらに出せないように栓をされました。
代わりに私の母が男の子を射精させるように命じられた時に客席から「子供同士でさせろ」「娘にさせてみろ」と声が出ました。
それまで私は何度か大人の男の人のを口に入れられて飲まされた経験はありました。
ただこの時は相手が私と同じくらいの子供だった事で、たまらなく恥ずかしくて辛かったです。
しかし私の母から小さい声で「あちらのお母さんを助けてあげて」って言われて男の子のものを口に入れました。
その時は男の子も口を塞ぐものを外されていましたが、泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながらも射精してくれました。
母親の栓が抜かれた後、その母親と私の母の二人が観客の人から責められる次第になり、私と男の子は縛り直されて楽屋に連れていかれました。
私は普段は楽屋で直ぐに縄を解かれたのですが、男の子は逃げたり舞台の母親のところに行かないようにするのを防ぐためか縛られたままでした。
壁にその男の子の学生服が掛けてあって、同じ市内の他の中学の私と同じ学年だって分かりました。
もう私より大きな身体だし、発毛もしてたけど、小さな子供のようにしくしく泣き続けていました。
床の上に裸で転がっているのが可哀想で上から楽屋にあったバスタオルを掛けてあげました。
その男の子に恋愛感情とかは全く感じませんでしたが、同じ境遇の同じ年齢なんだって思うととても他人とは思えなくなりました。
それで男の子の頭を動かして膝枕をしてあげたんです。
泣き止まない男の子の坊主頭を撫でてあげました。
ほんのちょっと、可愛い子供をあやしてるような温かい気持ちになりました。
この男の子を可哀想とか可愛いと感じる気持ちは、主人と結婚してから主人に対する思いやりと共通するものがありました。
逞しく頼りになる主人でも、時には病気や仕事の失敗で泣きたくなる時もあったようです。
そんな時、主人を慰めるのは、言葉より膝枕をして優しく髪を撫でてあげることの方がより効き目がありました。
そんな時は主人が「可愛い」と思いました。
ショーの時の話に戻りますが、 ショーが終わった後、その男の子の母親は本当に一週間の予定ですが売られてしまい、男の子は一人で家に帰らなくてはならなくなりました。
一人で帰っていく男の子の後ろ姿がとても可哀想でした。
家までの道を私は母の腕にしっかりしがみ付いて帰りました。
母から「男の子に膝枕をしてあげたってね。
優しい子になってくれてお母さんはうれしいわ」と言われて大変うれしく思いました。
同級生の男の子に、膝枕をしてあげると思い立ち、行動に移されたのは、やはり60代の女さんの優しさの現れだと思います。
ショーのスタッフからの声掛けで、恐怖心や羞恥心が少し緩和されたり、60代の女さんのお母さんから、浣腸攻めされている男の子のお母さんを助けてあげてと言われたら、男の子を射精に導いてあげたりと、随所にその優しさを感じます。
身体だけの繋がりもあるかも知れませんが、ちょっとした声を掛けがあるだけでも、人の精神に与える影響があるのも良く解りました。
これからの投稿も、楽しみにしております。
継父を恨んだり憎んだりした事はないのですか?
60代女性さんは、大人の勝手で精神的、身体的にも酷い虐待を受けているのに、憎しみの心があまり感じられない気がします。それどころか、聖女とか、菩薩さまみたいなイメージがあります。
もともと育ちが良いからか、持っている性格や精神が違うのでしょうかね?トラウマもあるでしょうが、精神科では「トラウマ」「トラウマ」と環境や人のせいにして(個人が悪いわけでなく、本当に人のせいなんですが)拘って変われない人が沢山います。苦難やトラウマを受けた人が全員が精神病(不眠症やらPTSDなど)にかかるわけではないと日頃から思っている私には、60代女性さんの生き方、精神性に、物凄くひかれます。環境なども影響しますが、結局は自分自身の問題でもありますよね?60代女性さんは、今だにキラキラ輝いていますよ。
長々とすみません。
私も当時は人のいない所で泣きました。
なぜ友達が皆伸び伸びと健康で健全に暮らしているのに、私だけがクラブでいやらしく痛く恥ずかしく辛い責めを受けなくてはならないのか?
母は私を愛しているはずなのに、なぜ私を継父の命ずるままにクラブに連れていったのか?
継父はあんなに母を愛しているのになぜ母をクラブに行かせるのか?
クラブの人はなぜ何も悪いことをしていない私や母を責めるのか?
クラブに来る人たちは、なぜ私達が苦しむのを見て喜ぶのか?
分からないことばかりで、世の中は理不尽で、自分が世の中で一番不幸せな女の子だと思い詰め、人のいないところで泣きました。
クラブの人を怨み、継父を怨み、継父と再婚した母を怨みました。
でも今現在は、怨みはぼんやりした忘却の彼方です。
記憶には、前に書いたように私を責めたクラブの人も幾ばくかの人間らしい優しさがあった事の方が強く残っています。
これは多分、私が不幸な少女時代を過ごした分、幸せな結婚生活を送る事ができたからではないかと思うのです。
幸せな記憶が昔の辛い記憶に上書きしたのかもしれません。
クラブの人たちの印象も初めの頃の恐くて嫌な人たちから、仕事で私を責めているけど、本当は思いやりも優しさもある普通の人になりました。
それともうひとつ、私はよい意味での諦めを出来る子供だったのかもしれません。
人を怨んでも、弱い当時の私は逆らうことも家出をすることも出来ず、何ら解決にはなりませんでした。
せいぜい泣いて涙を流して、それで今の辛さを少しでも薄めようとするだけでした。
こんな事は多くの人にも経験があるのではないでしょうか。
母の時代は戦争があり、自分の意思に関係なく様々な不幸を多くの人が背負っています。
でも、人を怨んでも仕方がなかったはずです。
私の場合は、その心の切り替えが自然に出来ただけだったと思います。
これは私が幸運だったからで、大きな不幸や衝撃を受けてトラウマになって心の病気になる人もいて当たり前だと思います。
心の病気を持った人をどうしたら助ける事が出来るかは、私のような普通の女にはとても解りかねます。
でも、今の私が幸せなのですから、少しでもそんな人に楽になって欲しいと思っているのも本当です。
上手く言い表せなくて済みません。
私は本当にただのいやらしい経験を持ったおばあちゃんです。
失礼しました。
おはようございます。
多感な思春期に、現代では想像もつかないご経験をされたにも関わらず、そこから自立への道、そして素晴らしいご主人との出会い、そして幸せな家庭を築いてこられた経緯を拝読していると、とんでもない強靭な精神力をお持ちだと、感服しております。
当方もそれなりに、人には言えない経験はして来ております。
その中でも、信頼していた人からも、裏切られた事もありますが、
今でも憎悪の念は払拭出来ないでいます。
よく「憎しみは増える事はあっても、減ったり消えたりはしない」と言われますが、正しくその通りだと思ってました。
60代の女さんの投稿と巡り合い、そのような感情を何時迄も引きずってても、仕方ないのかなと思うようになりました。
今は、まだ現役のサラリーマンで、仕事に追われる日々を過ごしておりますので、仕事をしている間は、忘れる事が出来てます。
ただ、仕事柄(営業)出張も多く、九州、名古屋、東京と様々な所に出向いている中、色んな出会い(男女問わず)があり、見聞が広がれば広がる程、自分の幸せって何だろうと、いい年をして自分探しをしております。此れの結論は終焉を、迎えるまで結論は出ないと思いますが、今はやはり肌が合い、価値観が合う人といる事が幸せなんだろうと思っております。
60代の女さんのような方と、出会えればと迷っております。
またショーの時の話になります。
ショーでいやらしい事をされて、自分の気持ちとは関わりなく性の快感を感じるようになってしまったことは前に書きました。
ショー自体は、女の人が快感を感じようが感じまいがお構い無しで、観客の人が喜ぶように進められるものでした。
ショーの進行をするクラブの人や、観客から選ばれて舞台に上がってくる人からの責めで快感を感じるのとは少なかったのですが、母からしてもらう時は、舞台でたるにも関わらず声をあげてしまうくらいの快感を感じる事がありました。
でも、回数は少ないのですが、クラブの人から責められて強い快感を感じ、舞台の上であられもなく乱れてあげくに気を失ったこともあります。
ショーに出されるようになって、もう1年たった頃でした。
その日は母が来れずに、私一人でクラブに行かされました。
一人で行ったことは、それまで何度かありましたが、やはり一人では不安と恐さで心細かったです。
その日はショーに出る女の人も少なく、私の他は母より歳上の未亡人の人だけでした。
その人のショーは、いつも盛り上がらない様子で、その日も自然に早く終わってしまいました。
「ああ、私がいっぱい長く責められるんだ
」「盛り上げるために、派手な残酷な責めをされるんだろうな」って、憂鬱になりました。
その日はクラブの用意した白の薄いナイロンパンティだけを穿かされて、縛られもせずに舞台に立たされました。
両手で胸を隠して観客の視線に耐えていたら、司会の女の人から「いつも残酷な責めに健気に耐えているこの子に、今日は残った時間いっぱい耐えてもらいます。」「きっと何度も気を失う事でしょう」と告げられました。
「ああ、やっぱりそうなんだ」
「三角木馬とか逆さ吊りとか派手な責めなんだろうな」
って心の中が暗くなりました。
「せめてお母さんがいてくれたら…」
と思うと、自然に涙が出てきました。
ショーが始まり、やはり浣腸をされました。
その日はショーの前に一度浣腸をされて汚いものを排泄してしまっていたのですが、ショーでは婦人科健診台でグリセリンを薄めたぬるま湯をゴム管で二リットル入れられ栓をされました。
二リットル入ると、当時の痩せてる私の身体だとお腹が膨らんでるのがはっきりわかりました。
お腹の痛みと寒気に耐えていましたが、その日は母がいないと言う精神的な弱さと、思春期で生理の前という体調面の不具合で、とても辛く感じました。
30分の我慢を宣言されていたのですが、ほんの5分くらいで身体中に悪寒が走り、お腹が壊れるように感じられました。
それまで情けを請うても助けてもらえたことはなく、無駄だと分かっていました。
10分くらいの時には、激しい便意が繰り返し襲ってくる間は赤く染まった地獄にいるように思え、便意の弱まるわずかの間には漆黒の世界にいるような気がしました。
観客のヤジなども聞こえず、静寂の赤と黒の世界の中で一人で苦しんでいましたが、そのうち赤の世界が薄くなってきました。
多分殆ど気を失っていたのだと思います。
急に乳首に鋭い痛みを感じで正気に戻されました。
司会の女の人が、注射針で私の乳首を突いていました。
「ああ、酷い…。引き戻さないで…」ってまだ朦朧としながら思いました。
司会の女の人の声で「まだ後10分以上…」って聞こえて、「ああ、また気を失いたい」と思っていたら、何故かお尻の中の栓が抜かれ、激しい音をたてて自分が排泄してるのに気がつきました。
後で未亡人の人に聞きました。
司会の女の人が、「お客様。この可愛い健気な子にお慈悲をかけることを私からお願いします。」と言ってくれて、観客の方からも「もう助けてやれ」と言われたそうです。
そのあとは苦痛な責めではなく、快感責めとでも言うんでしょうか、女の人が指や筆、思ちゃなどで私の全身を愛撫して、私を何度も逝かせるショーとなりました。
途中で女の人から「貴女って本当に健気な子ね」「今日は苦しんだご褒美だから」「この後も苦しいことはしないから安心して」など小さな声を掛けられました。
「この女の人は、私に優しくしてくれるんだ」って分かった途端、身も心も緊張が溶けて、それから一時間あまり初めて母以外の人からの愛撫で快感をあじわいました。
それからはクラブの人を不必要に恐がることもなくなり、挨拶も交わすようになりました。
私のひとつの転機だったような気がします。
いつもながら、凄い体験談ですね。
舞台の上で浣腸され、30分もの間我慢させる事を告げられ、その苦しみを見て、楽しむとはほんとうに驚きです。
我慢の限界が来たら、人は気を失うんですね。
1年もの間健気に我慢してたお陰?かクラブの女性司会者も、見かねて、30分経つ前に栓を抜いてくれるようになってくれたのは、まだ 救いでしたね。
クラブの人もやはり、人間であり優しさも残ってる事が解った事で、少しだと思いますが恐怖心も緩和され、又 何回も会ってる事で、信頼感見たいなものも、芽生えてたのかも知れませんね。
ただ、それにしても凄い体験談をされて来た事には変わりは無く、良く精神が壊れられなかった事に、唯々 敬服するばかりです。
不摂生が祟って風邪をひきました。
幸いインフンエンザではなかったです。
子供のころや主人から可愛がってもらっていたころは、どんな寒い時に裸になっても風邪なんかひかなかったのに、歳をとったんですね。
昔、今ごろの時季に主人から山に連れていってもらい、早春の蓬を摘みました。
主人に見守られながら、履き物だけの裸でです。
主人から見られるのが恥ずかしく嬉しいかったです。
出来るだけ股を広げないように摘んでいたけど、そのうち摘むのに夢中になって、気が付いたら主人の視線が私の広げた女の子に刺さっているのに気がつき、はっとして足を閉じたら主人から「きれいだよ」って言われて顔が燃えるように熱くなったことなど、思い出します。
野草の上に寝かされて抱いてもらいました。背中にあたる小石がちょっと痛かったりしたけど、まだ肌寒い中で主人の熱い体温を感じて嬉しくて、夢中で逞しい主人の身体にしがみつきました。
帰りにお買い物をした時に、主人のが流れ落ち下着がヌルヌルするのが気になり、店員さんと話をするのに一人で顔を赤くしました。同じ頃の事ですが、主人がローターと呼んでいた小さな繭型の電動バイブを買って帰ってくれました。
クラブのショーで大人用のバイブまで使われて責められた経験がある私ですが、主人から使われるのはこの時が初めてでした。
全裸で布団に横たわった私の身体に、初めは本当に優しく、触るか触らないくらいにバイブを当ててくれて、「どうだ、きつくはないか?」と気づかいしながら使ってくれました。
乳房を丸く外から中心に向けて円を描きながら刺激してくれて、いよいよ乳首に当ててくれた時は、あられもなく声をあげてしまいました。
内腿などを刺激してもらい、いよいよ女の子をしてもらう時には、声を出すまいと近くにあった布を噛み締めたのですが、匂いで自分が噛んだのが主人の下着だと分かって興奮が高まり、さらにお豆にバイブを押し当ててもらって一気に逝ってしまいました。
ショーの時は、私が穿いていた下着の汚れを観客が見て喜んでいたのが理解出来なかったけど、主人の下着の匂いや味を知ってしまってからは、フェチの言うんでしょうか、主人や私自身の下着の匂いで興奮をするようになりました。
主人から娘の下着やブルマなどを穿かされたことがありましたが、正直言うと娘の思春期のツーンとするような下着の汚れを感じて私もな情けなく恥ずかしく興奮を感じました。
また、主人の知らない母と私の親子レズを思い出し、私が自分の娘とレズをするかのような背徳感を味わいました。
本当に恥ずかしい母親で、娘に申し訳なかったです。
素晴らしいお姉様。やっとレスできました。普通のご夫人でしょうに、芥川賞なみの筆力ですね。感動の一語です。秘密のクラブでショーに出ておられたようですが、秘密のクラブって、何人ぐらいで見ていたのですか? 言える範囲で、秘密のクラブを教えて下さい。よろしく御願いします。
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