第九章
第一項
静まり返ったバックヤードの休憩室。狭い空間の中で、二人は向かい合って立ち尽くしていた。
桜は怯えた小動物のように肩を震わせ、目の前にいる晴人の顔をまともに見ることができない。
今、桜の頭の中にあるのは誰にも知られてはいけない秘密をバイト先の同僚に知られてしまったことだ。
どう言い訳をすればいいのかを必死に考える。
一方の晴人は、少しずつ冷静さを取り戻しつつあった。改めて、目の前で不安に怯えている桜の姿をまじまじと見つめる。
(今井さんの正体を知ってしまった……。信じられない。こんな偶然があっていいのか? 自分の身近に、あのアプリを使っていた女性がいたなんて……。しかも、ただのアプリじゃない。お互いのいけない秘密を、完全に握り合ってしまったんだ……)
晴人は「自分も秘密を知られている」という事実を頭の片隅に置きながらも、それ以上に、目の前の女が自分と同じアプリの住人「ララ」だったという衝撃に圧倒されていた。
しかし、当の桜は「晴人の正体を知った」という自覚など微塵もなかった。
彼女の脳内を支配していたのは、ただひたすらに 「自分の淫らな正体が、よりによってバイト先の同僚に知られてしまった」 という恐怖と絶望だけだった。
「だ、誰にも、誰にも言わないで下さい。おねがいします……っ!」
こうしてお願いするしか桜には方法がないように思えた。
震えるか細い声で、桜はその場に崩れ落ちるように深く頭を下げた。
その姿を見た晴人は、反射的にこう言い返した。
「だ、だったら今井さんも、誰にも言わないでよ?」
「ぇ……?」
桜は小さくつぶやき、戸惑いの表情を浮かべた。
晴人が自分と同じように、
『お互いの保身のために口止めをさせようとしている』
ということに、その時の桜は気づく余裕すらなかった。
(――はっ!)
次の瞬間、晴人はハッと気づいた。
桜の怯え切った表情、その必死な懇願の仕草をよく見れば分かる。
この子は、自分の秘密をバラされることを恐れているだけで、晴人の秘密をどうこうしようなどという意思は毛頭ないのだ。
そのことに気づいた瞬間、晴人の胸から緊張や不安がスゥッと消えていった。
代わりに、みるみるうちに邪悪な感情が体中を支配していく。
普段は誰からも鬱陶しがられ、バイト先でも誰からも相手にされない冴えない男――それが今、
今井桜という女の 「決定的な弱み」 を完全に握ったのだと悟った瞬間だった。
とはいえ、異性とまともに会話したこともない晴人には、この状況でどう出ればいいのか分からなかった。
本能が 「ここは慎重に言葉を選ばなければいけない」 と警告を発している。
「い、いやぁ……だ、誰にもって……ど、どうしよっかなあ……」
晴人は恐る恐る、桜の顔色を窺いながら探るように言った。
桜は今にもその場に倒れ込みそうなくらい、青白い顔でうなだれている。
「誰に、な、何を言わないでほしいの? かな、なんて……」
意を決したように晴人がそう続けると、問われた桜は俯いたままで唇を震わせて何も答えられない。
晴人のなかに、かつてのオドオドした気弱さは消え失せていく。
「も、もしかして、今井さんがエッチなアプリを使っていたこと?」
桜の顔が、みるみるうちに恥辱で真っ赤に染まっていく。それが図星だと確信した晴人は、さらに追いつめるように言葉を重ねた。
「今井さんがエッチなアプリ使って、男たちの命令で下着姿を見せたこと?僕と一緒に何度もオナニーしたこと……? それともさあ、公園のトイレで何回も痴漢プレイしたこと?」
言葉を投げつけるたび、晴人はブルルと身震いした。それは恐怖からではない。
桜の大きな瞳に涙がじわりと滲んでいくのを見て、底知れぬゾクゾクとした歓喜が背筋を駆け巡ったからだ。
「ねえ、どうなの? 答えてよ……ねぇってばぁ………」
いつもはオドオドと敬語を使い、誰に対しても下手に出ていたはずの晴人だったが、生まれて初めて人を下手に見ていた。
気づけば、自分より年上の桜に対してタメ口で、威圧的に問い詰めていた。
中々口を開かない桜にしびれを切らし、晴人はさらに踏み込んだ。
「ねぇ、答えなって。答えられないの ……? じゃあ、しょうがないね、そうだな……河北くんにでも、今井さんの秘密、言っちゃおうか……ねぇ?」
『河北くん』というのは、桜が密かに想いを寄せる青年・蓮のことだ。
もちろん、晴人は桜の片想いの事実など知らない。ただ、以前に桜と蓮がバイトの休憩中に話している姿を目撃したことがあったため、その名前を適当に口にしたにすぎなかった。
もしここで桜が激怒でもしたら、すぐに「嘘です! 誰にも言いませんから!」と頭を下げるつもりで放ったにすぎない言葉だった。
しかし、実際の桜の反応は、晴人の予想の斜め上を行くものだった。
桜は怒るどころか、ムッとする気配すらない。それどころか、顔面を蒼白にして、おろおろと狼狽え始めた。
「お願いしますっ! 蓮くんには、蓮くんだけには言わないで下さいっ……!」
反射的に、桜はもう一度、晴人に対して深く頭を下げた。
その必死すぎる姿を見た瞬間、晴人の胸のなかで、まったく別のドス黒い感情がふつふつと湧き上がってきた。
――嫉妬。
晴人は大好きなアイドルグループの熱烈なファンであり、かつてその推しメンが週刊誌に恋愛スキャンダルをすっぱ抜かれたとき、うわさされた相手の男に対して凄まじい嫉妬心を燃やしたことがあった。
今、目の前で別の男の名前を出したときに必死に守ろうかのような桜の反応を見た瞬間、あの時とまったく同じ、ドロドロとした独占欲と嫉妬の感情が晴人の全身を駆け巡った。
「な、何……?もしかして、河北くんのことが好きとか?」
カマをかけるようにそう問うと、桜は恥辱とに顔を歪め、頬を真っ赤に染めて俯いた。
その表情を見た瞬間、晴人のなかで最後の理性のタガが完全に吹き飛んだ。
「へえ……そう……分かった。じゃあ、河北くんに今井さんの正体、バラすわ……」
「そんな……、お願いしますっ、それだけは許してくださいっ……!」
これ以上ないほど頭を下げる桜の姿を目の当たりにして、晴人はもう自分を止められなくなっていた。
怒って帰ってしまうと思っていた相手が、自分に許しを乞うている――
その異常な優越感と興奮に酔いしれながら、晴人は細い目をさらに細めると冷酷に言い放った。
「脱ぎなよ……」
続く…………。
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