「えっ、あんなとこで?」
益美からの電話に僕は仰天した声を挙げた。
例の細野多香子と会う場所についての話だった。
「あそこは…ちょっと」
「何かまずいことでもあるの?…あの子からその場所言ってきたのよ。初めてあなたを意識し
たところだって」
「そ、それは向こうの勝手で、俺的にはちょっと…あそこは学校の帰り道の途中で、他の生徒
もよく来るとこなんだよ」
「いいじゃない。学校中のアイドルさんとデートできるんだから、あなたにとっては名誉なこ
とじゃない」
「それが学校で広まったらヤバイんだって」
「あなた、紀ちゃんのこと気にしてるのね。そんな弱腰でどうすんの」
「弱腰なんかじゃないよ」
と僕は力んだ声で反論したが、完全な弱腰なのは、自分でもわかっていた。
「あなたにも弱いところがあるのね。いいこと知ったわ。紀ちゃんと揉めたら、私がちゃんと
話してあげるわよ。明後日の四時ね、頑張って」
そういって益美の電話は簡単に切れた。
いつもの区立図書館の、芝生公園に僕はいた。
あの時の、あの場の雰囲気に載せられたとはいえ、迂闊にも東大受験などという、とんでもな
いアドバルーンを挙げてしまったことを、僕はひどく後悔しながら、それでも東大合格者たちの
意気込みや対策方法を書いた本でもないかと、こっそり図書館に来た矢先の、益美からの電話だ
ったのだ。
基本的に、僕はどちらかというと文科系の人間で、一番弱いのは数学と化学だ。
数学は中学の因数分解で、何もかもわからなくなってしまっていて、これの修復や回復は、自
分でも、ほぼ不可能だというくらいに自覚している。
方程式、不等式、微積分、サイン、コサイン、タンジェント、二次関数…数え上げたらきりが
ないが、それらの言葉の意味は、相当の確率で僕の脳みそから消えかかってしまっている。
学校の通知表が、僕の歪な脳内を如実に証明していて、国語、英語、社会、歴史関係は、一応、
五段階評価の五か四で、数学や化学は毎学期、二と三の往復だけである。
現時点では、担任教師の前で、東大云々の話を出したら、多分、泡を吹いて倒れてしまうのは
間違いなかった。
幸いにも、国語教師の俶子が全面協力の姿勢を見せてくれていて、来月早々に数学専門の特別
コーチを紹介してくれることになっているのだが、何せ相手は天下の東大だから、よほどの覚悟
と気概がいるのは、僕の場合は明らかなのだ。
重く萎れた気分で図書館に戻ろうとした僕の前に、制服姿の紀子が、忽然とどこかから現れ出
たように立っていた。
一瞬、心臓が止まったような気持で、僕は目をもう一度瞬かせたのだが、長い髪を後ろに束ね、
鼻先のつんと尖った顔と、澄み切った黒い瞳、薄い小麦色の肌は、紀子そのものだった。
慌てた素振りのまま、何かの言葉をかけようとしたが、喉から声が出なかった。
「中覗いたらいなかったので、庭に出てきたら、誰かと電話で一生懸命だった、あなたがいた
ってこと」
やや奥に引っ込んだ、澄んだ目は確実に笑ってはいなかった。
「や、やぁ…」
僕のほうから笑みを見せても、紀子の表情に変化はなかった。
これまでも大抵はそうだったが、立ち合い負けは明白だった。
「その気になって、数学の勉強本でも見てるのかなって思って、ここに来たの」
「あ、そう」
「誰と話してるのか、電話に一生懸命」
「いや、そ、それは…」
まさか紀子の叔母の益美と話してたとは言えるわけがなかった。
「あまり、心配させないでね」
「な、何をだよ?」
「私のことなんか、ほっといても傍にいる、とでも思っているんでしょ」
「そ、そんなことないよ」
お前、怒った顔は似合わないよ、って言いてやりたかったが、そんなこと言ったら、間違いな
く平手打ちが飛んでくるくらいの雰囲気だった。
「この前の奥多摩行きだって、私に何も言ってくれなかったじゃない。何でも勝手に決めて、
好き放題してるんだもん。私だって怒る」
紀子が、この数日怒った顔をしていたのは、細野多香子に纏わることではなかったことに、僕
はそこで気づいて、
「悪かった、紀子。お前に一言事前に言っておくべきだった。ごめん、謝る」
そういって素直に僕は、紀子の前で大袈裟に頭を下げた。
途端に、紀子の表情が変わり、
「そ、そこまでオーバーにしてくれなくても」
と僕の目の前に両手を出してきたので、僕も自然な動作で手を握ってやった。
「あーあ、長く待ってたんで、お腹空いちゃった。何か奢って」
僕に似て単純なところもあるのか、もういつもの紀子に完全復活していた。
駅のほうまで戻って、ミスドでドーナツ二個とホットココアを奢らされたが、自分の心配が氷
解したことで、僕も少し安堵な気持ちになった。
細身の身体で、ドーナツ二個を美味しそうにパクつきながら、紀子はこの数日分の沈黙の時間
を取り戻すかのように、他愛もないことをぺちゃくちゃといつまでも喋り続けていた。
別れてからの帰り道、僕は明後日の、細野多香子との待ち合わせを考えていた。
一学年上の多香子は、僕から見ても確かに高校生離れをしたような、美人でスタイルもモデル
並みの長身で、噂で芸能プロダクションのどこかが、触手を伸ばしているというのもわかるよう
な気がした。
学業も六大学のどこかへ行くくらいだから、優秀と言えるだろうし、もう少し言うと、もしか
したら女性の色気的な面では、邪気のない感じの紀子を上回っているかも知れなかった。
そんな多香子が、自分みたいな帰宅部一筋で、何の面白味もない男に興味を持ってくることに、
僕は正直に言って、怪訝な顔をする以外になかった。
勿論、僕のほうから丁重に交際を断るつもりでいるが、会う場所が場所なだけに、同じ学校の
誰かに見つかったら、相手が相手なだけに間違いなく噂は広まり、まかり間違って紀子に知られ
ることのほうが、僕には不安が大きかった。
今さっき、仲直りをしたばかりの、紀子にこのことがばれたら、殺されるよりも彼女の悲しい
涙を見ることのほうが、僕には」辛いことだった…。
続く
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