プロローグ
さて、妻、里美との出会いや今後の調教についてお話しする前に、
これまでの私の性と調教の遍歴について、お話ししておきたいと思います。
時はバブルの四半世紀前。学校を出て2年にして平凡なサラリーマン生活に飽きた私は脱サラしたのですが、
幸い良い商売の師匠や仲間達、多少の商才と商機に恵まれ、
20代でそこそこの商売をし、それなりの資産を築くことが出来ました。
そこで資産家の娘と結婚して子を生し、一見、順調な商売人の人生を歩みだしたのですが、
そこは若気の至り、日常生活が満ちれば満ちるほど、性的な妄想の世界が満ち足りなくなり、
やがて性的な好奇心に、私の理性が打ち勝つことが出来なくなってしまったのです。
元々、子供時代に盗み読んだ「俺の空」の影響で、高校時代からストリップとピンク映画館に浸っていたのですが、
大学時代に彼女が出来て以来、風俗からは足が遠のいておりました。
しかし、金銭的に余裕が出来たことで、今に続く飽く無き放蕩人生が始まってしまいました。
テレクラ、ファッションヘルス、円光、出会い系、デリヘル、ソープ、ちょんの間、立ちんぼ、
SMクラブに男娼買い、そして温泉コンパニオン。
商用出張先の接待で訪れる全国の風俗という風俗は全て射程圏に入れた性活の始まりです。
そして、いつか儲けの全てを女遊びに注ぎ込む事に抵抗がなくなってしまいました。
しかし、数年で金銭的な風俗遊びでは満ち足りなくなり、禁断の素人火遊び。
そう、取引先のOLを愛人にした不倫関係になりました。
愛人の彼女、仮に名前を秀美としましょう。
私の生涯初めての性奴隷となった秀美は、私より7歳年下の小柄ながらトランジスタグラマーな肢体のドM女。
学生時代の同級生にフェラチオ専用奴隷として調教されていた早熟な精液便器でした。
抜群の吸い上げと舌使いの口技と、本人も気づいていなかった数の子天井の膣穴。
プロとは違う、その性技と若い柔肌に、私はたちまちに溺れ、秀美もまた、
かつての放蕩性活で磨いた私の性技に溺れてゆき、爛れた愛欲生活に陥ったので、
周囲に二人の関係がばれるまでには、さほど時間は掛りませんでした。
昼日中から鄙びた連れ込みホテルに入りびたり、それに飽きると都内の有名SMホテルへ通う日々。
20年近く前、私が初めて一緒に野外露出や同伴喫茶に行ったのも秀美です。
この時こそが、初めて、恋人と違う男の前で肌を晒す時の女の表情の、
なんとも艶かしく妖しい色気に惹かれた瞬間でした。
やがて、婚家の親元の耳に、私達の爛れた噂が入ると、
秀美とは二度と会えない条件で、正に生木を裂くように引き離されてしまったのです。
この不倫発覚を期に会社資産を処分し、妻にそっくり渡して妻子と離別、
勤め人に戻った私でしたが、平穏な生活は長続きしませんでした。
独身に戻りはしましたが、たまに多少の小金が出来ると風俗通いの日々。
不惑も近づく頃、フラリと入った、とある非本番系のファッションヘルスで、一人の風俗嬢と知り合ったのです。
外国人ながら日本人と結婚し、日本人になっていた彼女、名前は仮に都子としましょう。
彼女は故郷の子供に仕送りするため、人妻ながら、躊躇いも無く、風俗嬢に身をやつしていたのですが、
しかし生来の怠け癖が出て、適当に手コキだけで射精させるヘルス嬢を2、3年と、惰性で続けていたところでした。
三十路手前の熟れた巨乳の肢体。それでいて、童顔で贅肉も少なく、日本人より遥かに足の長い、素晴らしいプロポーション。
早速、都子を持てる貯金の全てで、翌日まで借り切りにし、都内の高級ホテルで改めて検分することにしました。
明るいところで改めて裸身を精査して見ると、日本人とは違い、肌地は木綿肌ですが、
若さと脂がそれを補って余りある色気を醸し出しています。
何よりも体の中から染み出す香りが、天然の香水の様な甘い香りを漂わせています。
子供を生んだ膣は緩めでしたが、締め技を習得しており、巾着と三段締め。
下の毛も適度な硬さの触り心地で、興奮したクリトリスは大きく、膣の濡れ具合も抜群です。
また、来日前には元軍人であっただけあり、しなやかな筋肉も全身に行き渡り、
女体、いや、人体として申し分ありません。
この時点で、私が過去に抱いた女は4桁台に近づいていましたが、その中でも十指に入る絶品で、
きっと先祖には楊貴妃の縁者が居たのかも知れないと思った程でした。
何より、愛の無い結婚に見切りを付け、田舎の夫の元から飛び出して、寂しい生活を告白したその性根は、
日本人に通じるほど従順で、マゾ女としての資質も十分観て取れるものでした。
早速翌日から、私から人妻風俗嬢、都子への性奴隷とするための調教が始まったのです。
先ずはスーツケース一個で私の自宅に都子を呼び寄せ、ヘルス勤めは通いにさせて、性生活全般の管理・教育を始めました。
なんといっても、ヘルスの店長からは、教習の名目で単に犯されただけで、アナルも未開通。
客への精飲、生フェラ、本番、3Pはおろか、一見の客にはキスまで拒む、全く未経験のダメヘルス嬢でしたから。
私も勤め人でしたので、性技の訓練は夜と休日。最初にバイブによるアナルの開発と二穴攻めの快感を仕込みました。
それからは、都内のカップル喫茶(特に飛鳥)、ハプニングバー(グランブルーは常連でした)、SMバー、
乱交パーティーに週末ごとに通い、不特定多数の男根への口での奉仕と本番、3P、4P、生中だし、精飲を通じ、
ご主人様たる「男達」の精液に慣れさせることに三ヶ月を費やしました。
さて、次のステップなのですが、当初はSMクラブやソープ、企画AVにも面接に行かせたのですが、
結局のところ都子には、マッサージ嬢が性に合っている様子でしたので、
やがて精飲や生出しに慣れたところで、本格的な娼婦とすべく、本番系のデリヘルに移籍をさせました。
私の給与と都子の稼ぎで生活にも余裕が出来き、お金を掛けて脂肪吸引や美容整形で人体改造を行い、
見違えるほどルックスの良くなった都子は、売れっ子の看板デリヘル嬢になり、太客との店外デート、
単独男性との温泉地デートや、公園での公開露出など、デリヘル嬢を続ける上で、
問題ない程度のプレイをする日々が過ぎて行きました。
この頃の都子は、登り立つフェロモンで、本当に道行く男が振り返るほどでした。
私とのプライベートSEXでは、一切避妊させなかったので、結局三年間で二回の堕胎をし、
理想的な性処理奴隷とすべく、不妊体質に仕立てたところで、本格的にSM調教に入りました。
最初は調教部屋をお持ちの調教師の方への貸し出しを計画したのですが、
なかなか条件が合わず、野外露出、縛り、鞭、蝋燭責めを自ら仕込む程度でした。
そうこうするうちに東日本大震災が起き、都子の避難帰国で挫折。
私も都子の故国へ同行し、彼の地で堅気の生活をしながらの調教を開始しました。
幸い都子親子の暮らす街には、アンダーグラウンドですが、欧米人向けのSMクラブが複数在り、
調教部屋やプレイパートナーに困る事はありませんでした。
しかし両乳首とクリフッドへのピアス装着まで調教が進んだある日、都子に御執心となったプレイパートナーの欧米人夫妻から、
是非家庭用専属M嬢として譲り受けたいと、奴隷譲渡の提案があったのです。
その時の、ご主人の極太ペニスを咥えつつ、婦人から特大ディルドに前後の穴を犯されて喘ぎつつも、
まん丸になった驚愕の目で私を見、やがて恍惚の表情になった都子の顔は忘れられません。
私とは抜群に肌の合う都子でしたが、既に40に近づき、汚染に塗れた当地の環境に受けた肌の衰えや弛みに、
昔日のナンバーワン・ヘルス嬢としての輝きは残っていませんでした。
最初は「私は一生あなただけの女です、捨てないで」と街中でまで縋り付き懇願する都子でしたが、新たな主人からの調教を受けるうち、
更なるハードな調教に、目を輝かせてのめり込んで行き、やがて自分から進んで専属M嬢として出て行きました。
こうして私の手で、人妻娼婦から奴隷まで堕としたM奴隷である都子との10年近い調教生活に終止符を打ち、
私はそのまま都子の故国で、新たなマゾ女、里美との出会いを待つこととなったのです。
次回は、里美との出会い、調教を受けると誓わせるまでをお話し致したいと思います。
※元投稿はこちら >>