それは些細なことだった。ほんと些細なこと。おじさんが香緒里さんの出した料理に文句をつけ、僕が居たために彼女が少し言い返したことから始まる。
『作れと言ったら、作れ!』と温厚だったおじさんがそれに噛みついた。酔っていたこともあるだろうが、『何もそこまで。』とも思ってしまう。
香緒里さんは黙ったまま、キッチンへと戻ったのだが、その後ろ姿に納得がいかなかったのか、『気分悪い!寝るわ!』とおじさんは場を離れてしまいます。
そんな気不味い雰囲気を作られ、僕は帰る支度を始めます。今日はお開きです。ところが、指摘をされて作り直した料理を手に持った彼女が現れます。
作ってくれた香緒里さんのことを考えると、これまた帰れなくもなってしまったのです。
香緒里さんは僕の隣ではなく、おじさんの居た席へと腰を降ろします。『ごめんねぇ?』と謝られ、『いえいえ。』と答えました。
彼女も面白くないようです。そこで、初めて彼女と他愛もない話をすることになります。それまで、おじさんとしかほとんど話をしたことがなかったのです。
アルコールも口にせず、ただ二人でなんでもない話をします。おじさんに場を濁され、そこに残された僕たちには変な共感が生まれていました。傷つけられたもの同士ですから。
しかし、これが二人の始まりとなるのでした。
人気漫画の大量買い。これは、僕の楽しみの1つでもある。週刊誌を読まない僕は、数ヵ月に一度コミックスのまとめ買いをするのだ。
この日も10冊近い漫画を買い込み、車へと戻る。しかし、乗り込むことはなく、その場に留まります。知った赤い車が、この書店に入ろうとしていたからです。
降りてきた女性に僕は声を掛けてみます。『西風さん?買い物~?』、香緒里さんでした。本屋に来たのですから、買い物は当然です。
『雑誌買いに来たの。』と笑顔で応え、本屋へと入って行く彼女。僕も今来たばかりと、また書店へと戻るのです。
香緒里さんは言っていた通りに、女性雑誌コーナーへと向かっていました。僕は一回りをし、彼女を探すと今度は小説のコーナー。こっちがメインなようです。
『面白そうなものあります?』、てっきり僕は帰ったと思っていたようで、声を掛けられたことに少し驚いています。
彼女は『新刊、見てみようか?』と僕を誘いました。『いいですね。』と着いていきますが、僕は漫画しか読みません。
そんな僕に、香緒里さんは新刊を手に取って、『これ、面白そうかも。』と薦めてくれます。繰り返しますが、僕は漫画しか読みません。
本屋を出ました。本日、二度目です。僕の手には、読みもしないゴミが2冊も握られていました。
そんな頃、おじさんからあることを聞かされます。海外出張です。定年間近なため、躊躇っていたらしく、『行くなら退社をする。』と少し揉めていたらしい。
しばらく自宅にいたのは、そのためだったそうです。おかげで頭が冷えたのか、冷静になったおじさんは再び会社と話し合いを持ち、行くことを決断するのでした。
それでもおじさんの精神は不安定。自分で決めたはずなのに、いろんな不安に押し潰されそうにもなっていたようです。
その捌け口は、また香緒里さんでした。西風家に誘われた食事の席でも、僕は荒れる現場を見せられてしまいます。
些細なことで、また香緒里さんが責められ始めました。言いたげな顔で堪えていた彼女。しかし、その顔から険しさが消えます。
彼女の悔しく握る拳の上に、僕の手が乗ったからです。『堪えて。』と心の中で彼女に呟きます。それでもまた、おじさんの激が飛んで来ます。
その瞬間、僕の手にも力が入り握り締めました。おじさんに対する怒りではありません。責められる香緒里さんを思い、力が入って行ったのです。
僕の指は、彼女の手の中へとめり込み始めました。小さな彼女の指の間に、僕の5本の指がねじ込まれて行くのです。
おじさんがその場を離れました。彼もこれ以上、自分の醜態を晒したくはないのです。おじさんが居なくなり、場は一気に落ち着きを取り戻しました。
しかし、僕と香緒里さんが口を開くことはありません。握り遭ってしまっている手と手に、気分が高揚をしてしたのです。
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