その夜の由美の帰宅は十時半を過ぎていました。
十時くらいの帰宅と聞いていたので、僕はその三十分ほど前に、二階に
上がり、パソコンの前に座っていました。
義母と特殊な関係になる前には、いつもそうしてきたことで、義母と二
人でいることが、結婚当初の頃から妙に面映い感じがあったのです。
それはとりも直さず、僕の心に早くから美しい義母への仄かな思慕があ
ったということで、彼女と二人きりになると妙に心がドギマギしたり、変
にざわついたりするからでした。
階下で義母との長い親子話を終え、疲れきった顔で室に入ってきた由美
に、
「お帰り、遅かったんだね」
と労いの言葉をかけると、彼女は徐に椅子に座っていた僕の背中に抱き
ついてきて、
「ねぇ…私、もう教師辞めようかしら?」
と僕の耳元で力のない声で呟いてきました。
「どうしたの?…学校で何かあったの?」
勤務する学校で何か困ったことに陥るとよくいう、由美の口癖のような
言葉でしたが、僕の内心には小さな波風が立っていました。
「ううん、私には直接的に関係ないんだけどね。苛め問題の生徒たちを
担任してる先生って、PTAからも好き勝手なこといわれたりして大変だな、
って思うの」
「由美のクラスは大丈夫なの?」
「今のところはどうにかだけど…でも、それって伝染病みたいなものだ
から、早く芽を摘まないと学校中に蔓延するの早いから」
「そうかもな…」
「お母さんにもさっきね、もう辞めようかなっていったら、あなたはも
う初心忘れたの?って叱られちゃった」
「初心…?」
「私、母と同じ道に進むっていった時、これは私の天職みたいなものっ
て偉そうなこといっちゃったの」
「ふうん…そうなんだ。…でも、そうかもな」
「私が女のくせにいつもポジティブで、前しか向いていないノー天気な
性格だから?」
「はは、当たりだ」
「こらっ―」
他愛のない会話が終わって由美は、
「お風呂入ってくるわ。…あなたも何だか疲れたような顔してるから先
に休んでて」
とそういってそそくさとまた室を出て行きました。
由美は僕の午後からの休暇も知らなかったし、その後の義母との長く激
しい抱擁のことも当然知らないはずでしたが、僕の顔のどこかに疲労感が
出ていることを見抜いたのは、やはり妻としての成せる技かと、僕は少し
肝を冷やしました。
パジャマの上に着ていたカーディガンを脱ぎ、僕はベッドに潜り込んだ
のですが、確かに由美の指摘通りで、義母の身体に二度も熱い体液を迸ら
せた疲労感のようなものがありましたが、その昼間のことを思い起こすと
睡魔はすぐには来ませんでした。
由美のいない間の義母との激しい睦み見合いは、あれから日がとっぷり
と暮れるまで続きました。
騎乗位での行為は義母は初めての体験だったようで、
「死ぬかと思った…」
とあの後、深い嘆息を何度もつきながら喘ぐようにいったのでした。
「あの、青木ともなかったの?」
と僕が意地悪に聞いてやると、
「なかったわ…お願い、あの男のことはもういわないで」
と哀しげな顔でいったのです。
それから布団の中で一時間近く、僕と義母は身を寄り添わせるようにし
て、まだお互いに半ば茫然とした時間を過ごしました。
「町内会長の件は…本当に大丈夫なの?」
眼鏡を外し取った切れ長の目を不安そうに泳がせながら、義母は力のな
い声でいってきました。
「ああ、こちらからいうだけのことは、はっきりといってきたからね」
「脅迫したりとか、されたりはしてないの?」
「言葉はしっかり選んでいったつもりだよ。向こうはさすがに少し驚い
ていたみたいだけど」
「私のことで、あなたに重い負担がかからないか、心配なの」
「愛する女のためなら…ね。亜紀子はもう心配しなくていいよ」
「…でも、いつかは私たちのことは、ケジメはきちんとつけないと…」
「どうつけるの?」
「…いつも毎日そう思ってるの。…でも…駄目な女ね、私。…あなたと
二人になると、こうして今日も」
「僕もだよ。男としては贅沢で身勝手なのはようくわかってるんだけど
ね、亜紀子と二人になると、申し訳ないけど由美のことが頭から消えてし
まう」
「あの子への罪は、母親である私に一番あるの。…死んでも償いきれな
い罪だわ」
「僕もそうだけど、あの山小屋の出来事から…何か二人の人生観が変わ
ったような気がするね。…勿論、僕は少しも後悔なんかしてないけどね。
…ほら、亜紀子、まただよ」
そういって僕は布団の中で、義母の片方の手首を掴み、自分の下腹部に
強引に誘っていたのです。
はしたなくも僕のそこはまた、男としてのむくりとした反応を示し出し
ていたのです。
それまでに言葉を交わしている最中にも、僕は布団の中で義母の首筋や
ら耳朶に息を吹きかけたり、手の指先で彼女の小さな乳首を摘んだりの行
為を繰り返していたのです。
「わ、私も…お、愚かな女だわ」
「亜紀子は賢い女だよ。…じゃなかったら、僕は」
「こ、こんなに歳繰ってるのに…もう、女なんかじゃないのに」
知らぬ間に義母の吐く息が荒くなり始めているのに、僕は気づきました。
そしてその頃には男の僕のものも、愚かにももう復活の兆しを、下半身
にあからさまに見せていたのでした。
熱気の籠もる布団の中で、二人の身体はどちらからともなく深く寄り添
い、またしても現れ出た淫靡な官能の濁流に押し流されるように、その身
体と身体を密着させ、熱く燃え上がり果て終えたのでした。
義母が時折自らを卑下していう通り、彼女の年齢は六十三歳で、若い女
性と較べて肉体的な衰えや肌艶の張りの衰退は、正直なところ僕の目にも
確かでしたが、それら全てを凌駕するだけの、女性としての形容し難いそ
こはかとない魅力を、僕はいつの頃からか確信的に抱いていました。
妻の由美の母としての出会いではもしなかったら、僕はその年齢差など
問題にせず、それこそ命がけで彼女を愛したと断言できるくらいの強い思
いでした。
そのあたりで僕の意識は途絶え、深い惰眠の中に埋没しました。
翌日の午後、僕は昨夕くらいに連絡をくれていた小村武に携帯を入れま
した。
「あ、ああ…小村?…僕だけど、昨日連絡くれてたみたいですまなかった。
人と長く会ってたんで。…で、用件は?」
と何故か少し慌てたような口調でいうと、
「あっ…ああ、いや、こっちこそ。うん、何も特にはなかったんだけどな、
お前んちの近くにいたもんだから、お茶でもって思ってな」
小村武のほうも、昨日の午後に会った時と同じように歯切れの悪い口ぶり
でした。
「ああ、そうか。それは悪かったな」
「お前、今日仕事退けてからでいいんだけど、時間あるか?」
「何だ、やっぱり何か話あるんじゃないか。…いいよ、どこかで会おうか」
小村武の口調の鈍さが妙に気になるので、僕のほうから誘いの言葉をかけ、
この前に一度彼と会った喫茶店で会う約束をしました。
おそらく小村武の話というのは加奈子のことだということは予測できました。
僕も彼女のことは気になっていたのですが、こちらからそのことを小村武に
切り出すわけにはいきませんでした。
午後六時の約束で喫茶店に五分ほど前に着くと、小村武はもう来ていてこの
前と同じ窓際の席で煙草を燻らせていました。
お互いに妙に気まずいような感じで対面の挨拶を済ませると、小村武のほう
から身を前に乗り出すように顔を僕に近づけてきて、
「お前さ、野村加奈子とはほんとに全然らしいな?」
といきなり話の要点に触れてきたのです。
「あ、ああ、彼女とは義母が入院してた病院以来だから…」
と僕はのっけから嘘をついていうと、
「…らしいな」
と小村武は疑う素振りすら見せずに肯定してきました。
「どうして?」
「お前、ほんとに知らないのか?…彼女、病院辞めてるぜ」
「えっ?…辞めた?」
まるで予期していなかった驚きの言葉でした。
「何で?…何かあったのか?彼女に…まさか、君が?」
「ま、まぁ…それで俺もな、ちょっと寝覚めの悪いとこあってな」
「どういうことだ?…ちゃんと説明しろよ。まさか君が、例のスカウトの件
で彼女を唆したのか?」
「僕の心の中に驚きと同時に、妙な不安のようなものが急に渦巻いてきて
いました。
「ああ、実はそのことで…お前に前以て謝っておかなきゃとずっと思って
て」
「謝るって何だよ?」
「い、いや…あれからも俺とこの事務所が彼女をどうしてもスカウトして
こいとうるさくいうもんでな…」
「それで、僕の名前を使ったとでもいうのか?」
「すまん。悪かった」
コーヒーの味がわからなくなるくらいに、僕の気持ちも少なからず動転し
ていました。
しかしもっと大きな驚愕は、その後の小村の話を聞いた時でした。
小村武は所属する芸能プロダクションの社長から、加奈子のスカウトを強
烈に命じられていたらしく、何度か彼女に会い交渉を重ねたらしいのですが、
そういう華やかな方面での活躍の意欲は欠片もないと、加奈子は強固に断わ
り続けていたらしいです。
その過程でたまたまですが、加奈子と僕が親しい間柄であるということを
知り、小村武は自分が僕の同級生だというと、俄然に心を開いてきたので、
悪いとわかりながらついつい僕の名を使って、愚かな策を労し、彼女を転職
に追い込んだというのでした。
そこまで聞いた時、僕の怒りはすでに沸点に達していました。
「何なんだよっ、それはっ」
と今にもテーブルを叩かんばかりに声を荒げて、小村武の顔を睨みつけて
いました。
「いや、ほんとに申し訳ない。俺も事務所からやかましくいわれてたんで、
つい」
僕の激しい剣幕に驚いて、小村武は首と肩を竦めるように窄めて、慄いた
顔を項垂れさせていました。
小村武に対する激しい怒りは当然のことでしたが、果たして加奈子は僕と
のことを、どこまで彼に話しているのかがわからず、何か薄ら寒い疑心暗鬼
に駆られていたのも事実でした。
「彼女に君は何をいったんだよ?」
「いや、それでな、申し訳なかったんだが、彼女にお前が奥さんに君との
ことがばれて、家の中が大変なことになってるって、ちょっとカマをかけて
いったら、彼女、急に泣き出してきてな」
「…………」
「真剣な顔して、あの人とは何もないっていってきて…それで俺もそこで
引っ込みつかなくなってしまってな。…奥さんが病院まで乗り込んでくるか
も知れないから、早く病院を辞めたほうがいいんじゃないか、って」
「馬鹿なっ、何てことをっ」
「すまん。…そしたら三日ほどしたら彼女から、病院を辞めたって電話あ
って」
「何て馬鹿なことを…それじゃ、まるで犯罪行為じゃないかよ」
小村の身勝手な虚言によって、一人の純真な女性が職を失い、僕までも一
気に奈落の底へ突き落とされたような、暗澹たる思いに駆られていたのでし
た。
僕のほうは兎も角として、しかしそれよりも加奈子のほうはもっと気の毒
で憐れに思えてなりませんでした。
一切の連絡を途絶えさせていた間に、加奈子の身にそんな不幸で驚愕の出
来事が起きていたことを、ついぞ知らずにいた自分を、僕は心の中で激しく
恥じました。
加奈子は、当分は連絡は一切してくるな、という僕の身勝手な保身だけか
らいった言葉を、健気にも忠実に守って、全てを自分で決めて、自分だけで
判断したようです。
目の前で申し訳なさそうに顔を俯けているだけの小村武を、僕は腹の底か
ら殴り飛ばしてやりたい気持ちになっていました。
二人の間にしばらく沈黙の時間が流れました。
「…それで、彼女はどこへ行ったんだよ?」
まだ小村武への怒りは鎮まってはいませんでしたが、聞くだけのことを聞
いて一刻も早く、この場を立ち去りたいという思いで、僕は彼に問い質しま
した。
「あ、今うちの事務所に来てもらってるよ。あの子も生活もあるだろうし、
今、うちの事務所でタレント修行してるよ」
「何だってっ?」
「いや、俺もやっぱり責任感じるし…うちの事務所もな、ずっと熱望して
いただけあって、かなり有望視されているんだよ」
「そんな馬鹿なっ…」
僕はもう一度小村武を殴り飛ばしたい気持ちになり、同時に胸の詰まるよ
うな思いになっていました。
小村武の虚言であったとしても、加奈子は自分のせいで、僕が困窮してい
ると聞き、自らが身を引く決断をしたのだと思うと、あの愛くるしいだけの
顔だと思っていた彼女の顔が、一人の大人の女性の顔として、やるせなく切
なげに僕の脳裏に浮かんできていました。
「彼女は…本当にタレントになりたいっていってるのか?」
僕の目の前にいるこの男とは、もう話すことは何もないと思いながら、僕
はわざと空々しげな口調で聞きました。
「そ、そりゃ、うちの事務所も本腰入れて売り出すっていってるから…」
「あまり僕も記憶はないが、確かに綺麗で可愛い感じの子だったと思うけ
ど、事務所側は何で売り出そうとしてるんだよ?…モデルか何かか?」
「う、うん、それはまだ…方向はこれからの養成次第らしいが…な」
僕は小村武の口ぶりに、何かまだ引っかかるようなものが多分にあったの
ですが、この男と長居はしたくないという思いが強くあったので、自分から
伝票を取って席を立ち上がりました。
加奈子が今どこに住んでいるのかということや、本気でタレントの道を目
指しているのかということ、他にもまだ確認したいことが多くあったのです
が、相手が小村武ではそれも適わぬことでした。
帰路の車の中でも、僕は暗鬱な気持ちに苛まされていました。
いつかのあの日以来、僕に会うこともなく、言葉の一つも交わすこともな
く、いわば忽然と消えたようなかたちの加奈子のあのまだ女子高生のような
愛くるしい顔を思い出すと、やりきれなさとやるせなさが入り混じったよう
な気持ちになり、胸がひどく痛みました。
七時過ぎに帰宅すると、由美のほうが今日は早く帰っていて、食事も済ま
せ入浴中でした。
ダイニングのテーブルの前に腰を下ろすと、僕の湯飲みにお茶を注いでい
た義母が目ざとく僕の表情を見て、
「何かあったの?」
と小さな声で聞いてきました。
「あっ、うん、ちょっと仕事のことでね。ちょっとドジ踏んじゃって…」
と照れ笑いを浮かべていうと、
「そう…」
とだけいって、流し台のほうに踵を返していきました。
僕の暗い表情を見て、密かながらに心配してくれている義母の気持ちが
痛いほど僕の胸を打ちましたが、さすがに僕もそれ以上の言葉を告げられ
ず一人で忸怩たる思いになっていました。
そしてその週の日曜日、僕はまた加奈子の件で衝撃の事実を知ることに
なったのです…。
続く
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