徹は専門誌『新思想』の「バタイユ特集号」に『エロティシズムの概念』と題する論文を発表した。
以下、その要旨。
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エロティシズムとは何か。
これはギリシャ神話における性愛の神エロスを語源とする。
エロやエロスと区別する識者もいるが本稿では同義として扱う。
バタイユの『エロティシズム』は人間の本質を次のように規定する。
「本能では欲望の際限なき発露である暴力を労働とその組織化により抑制禁止する体系を確立した。
エロティシズムの衝動は禁止を侵犯しつつ至高の生へと逢着する。
人間が自己存続を欲する限り禁止と侵犯の終わらぬ相克が渦巻く。」
各論において彼は「連続性」や「宗教理論」といったキーワードをもってエロティシズムを規定していくが、本稿では詳細を割愛する。
彼の主張の要点は次の通りだ。
「有性生物における生殖行為に関して人間のみがこれにエロを付加した。
エロは人間固有のもので他の動物にはない。」
「エロの本質は禁止の侵犯にある。禁止事項は欲望の対象となり、
自己存続の危険性の不安を煽ることで欲望は燃え上がる。」
「女は化粧で美を高め、男の欲望の対象として躰を曝け出す。男は女の美を汚すという禁止を侵す。
女に美を求めるのは美が汚しうる価値をもつからだ。女はそれを求めて自らの美を一層高める。」
この最後の主張は多分に男目線に偏っており普遍性は希薄だ。
が、普遍性の希薄な定義にせざるを得ない点にこそ「エロティシズム」の特性があるとも言える。
文化的背景が異なればエロの定義も異なる。
否、同じ文化圏内にあってもだ。
個々の生育背景が異なればエロの定義も変わる。
何にエロを感ずるかは個々の生育背景に影響されるからだ。
バタイユの定義も彼自身の個人的観念に基づく部分も多い。
本稿では彼の言説の普遍性のある部分のみを抽出して検討したい。
有性生物はオスとメスによる生殖行為をなす。
人間も男と女による生殖行為をなす。
新たな遺伝子型個体の生産、遺伝子の連鎖を目的とする生殖行為は凡ゆる生物に見られる性活動だ。
「人間のみこれにエロを付加した」とバタイユは言う。
一般的にはエロは性愛や猥褻さや淫靡さと同義と見做される。
ポルノグラフィやフェティシズムと大差はない。
「ポルノ」とは「性的興奮を誘発する表現媒体」を指す。
「フェチ」は「性的興奮を誘発する物品への固執や崇拝」を指す。
前者は、官能小説、AV動画、猥褻画像、性玩具、等々。
後者は、下着や躰の各部位、仕種や匂い、等々凡ゆる事物に及ぶ。
わが国では「猥褻」は「人の羞恥心を侵し、善良な性的観念に反するもの」と規定される。
要は「性的描写で性的興奮を刺激し自慰行為に供しうるもの」だ。
ここでは人間特有の「エロ」を「猥褻性や羞恥心を煽る刺激により異性への性的興奮を一層昂ぶらせるもの」と規定する。
生殖行為をなす生物は例外なく異性に対して発情している。
が、生殖行為自体にエロはない。
これは本能的な性衝動であってそれ自体に猥褻性や羞恥心を煽る要素はない。
空地で交尾する犬猫、サバンナで交尾するライオン、彼らは自らの生殖行為に対して猥褻性や羞恥心を感じていない。
人間のみが生殖行為においてのみ猥褻性や羞恥心を煽るような非日常を演出する。
その非日常性を敢えて喚起、暗示、表現することがエロだ。
それは本質的に心理的な基盤から発せられる。
猥褻性や羞恥心を感ずるには相応の文化的背景を要する。
本能や感情や欲望や裸体を剥き出しに晒すことを恥とする文化だ。
そのために高度な知能と規律ある社会性を備えておく必要がある。
理性で感情を抑制した高度な文化的日常を営むことが要件となる。
人間以外の動物にエロを演出することはできない。
男女の性交はエロの付加により性的興奮が昂ぶり快楽が強まる。
バタイユは日常社会において欲望や裸体を晒すことを「禁止」された人間が隠蔽された秘密(バタイユは「呪われた箇所」と呼ぶ)を敢えて「侵犯」する魅力として説く。
社会において裸体の発露を抑制禁止された男女が、2人きりの隠蔽された密室では裸体を晒し合う。
禁止の侵犯の快楽。
ここにエロがある。
本能や感情や欲望や裸体を剥き出しに晒す。
本来の生殖行為に必要な性欲や快感をエロティシズムで意図的に倍増させる。
そして深い快楽の悦びに溺れて非日常を堪能する。
それは常に隠れた場所で特定の男と女が2人だけで秘密裏に行う。
第三者から見れば2人の行為は猥褻そのものだからだ。
第三者に晒されれば2人の男女は極度の羞恥心に苛まれるからだ。
その背景には欲望や裸体を周囲に晒すことを恥とする文化がある。
この隠蔽された密室なる状況もエロには不可欠だ。
2人の間だけに共有される極秘の侵犯行為。
究極の隠匿性が禁止の侵犯を一層魅力あるものに高めるのだ。
隠匿性がなければエロは半減する。
売春婦、AV女優、風俗嬢を相手にした性交ではエロは半減する。
彼女達は性交を日常とする者であり性交に対する羞恥心も希薄だ。
AVでのモザイク画像、全裸よりも下着姿やパンチラ状態の方がその隠匿性により性的興奮が高まる。
この点については男女に差異はない。
さて、2人だけの密室で男も女も異性なる相手の肉体を奔放に弄ぶ。
これも日常社会では許されない禁止行為だ。
やはり禁止の侵犯の快楽すなわちエロが生ずる。
弄ばれた肉体は一層強い快感を紡ぎ出し、男も女も喘ぎ声を上げる。
これも欲望や感情を剥き出しに晒す禁止行為だ。
エロを感じて男も女も性的興奮を更に昂ぶらせる。
男は女に卑猥な言葉を浴びせる。
女も卑猥な言葉を口にする。
エロが極まり男女の性的興奮と快感は一層強度を増す。
男は女に破廉恥な姿態をとらせ、女も悦んでこれに応じる。
生殖行為に関係ない卑猥な恰好で羞恥心や性的興奮を煽る。
興奮した男は激しく女の躰を前から後ろから責め立てる。
暴力という禁止行為で男は女を支配する悦びを得る。
女も日常では得られない異性からの激しい暴力に興奮し、悦ぶ。
更に猥褻性や羞恥心を煽って性的興奮を昂ぶらせる場合もある。
躰を緊縛したり性具で性器を刺激したり鞭打ち浣腸で折檻したり。
結果、男も女も人間業とは思えぬほどの痴態を晒す。
泣き喚き、絶叫し、噴潮、射精、失禁、放屁、脱糞に及ぶ。
生殖とは何の関連性もない淫猥な行為。
単なる快楽性戯、単なる快楽痴戯、単なる快楽淫戯。
当の男女にはこのエロティシズムにより強烈な快感が襲い掛かる。
バタイユの指摘する通り、他の動物にはない人間特有の行為だ。
欲望と裸体を剥き出した性交という、日常社会の禁止を侵犯することで、男女は鮮烈な性愛の快楽に溺れる。
これに生殖目的が加わればエロの極みに至る。
避妊なしの性交ほど男女の性的興奮を昂ぶらせるものはない。
男女にとって美しければなお好都合だ。
破廉恥で淫乱な快楽痴戯としての暴力行為。
男は美しい女を支配し服従させた挙句、女の神聖な性器を自らの汚物で穢すという究極のエロを味わう。
女も美しい男が暴力的で激しい性行為で自身の躰を責め苛む姿に愛され支配される悦びを感じる。
男の情欲で躰を穢されるという究極のエロを醸し出す。
エロティシズムは性的興奮を昂らせると同時に「美」を要求する。
その意味では「セクシー」と同義とも言える。
一般的に「セクシー」は「性的魅力のある状態」を指す。
レズやBLを想定すれば分かる通り、同性に対しても性的魅力は生ずるが、「美」の要素が不可欠だ。
その美を侵犯する意識がエロを醸し出す。
エロの演出により、性的快楽の一層の高まりが得られるのだ。
エロの直接規定は困難だが、これには不可欠な要素がいくつかある。
非日常性、隠匿性、猥褻性、禁止の侵犯なる禁忌性、等々。
AV業界ではこの事情を充分に弁えている。
例えばAVに見られる「制服もの」シリーズ。
女子高生、看護婦、メイド、スチュワーデス、巫女を犯す設定だ。
制服は社会規範を象徴する服装であり侵犯を禁止されている。
これを敢えて剥ぎ取る、脱がすことで、男は性的興奮を得る。
敢えて剥ぎ取られる、脱がされることで、女も性的興奮を得る。
禁止の侵犯がある。ここにエロが生じる。
AVに見られる「近親相姦もの」や「不倫もの」。
実母、義母、姉妹、人妻、未亡人を犯す設定だ。
社会的に禁じられた背徳行為。
これを侵犯することで男は興奮する。
男に限らない。
女も背徳行為に身を置く状況に興奮し、濡れる。
「してはいけない」から「したくなる」のだ。
その他、幼女玩弄、夫婦交換、乱交、SM、盗撮や覗き、痴漢や強姦、等々の設定も全てエロの演出だ。
バタイユは禁止の究極は何かを問う。
彼は「死」こそ禁止の最たるものとする。
『エロティシズム』の冒頭で「エロティシズムとは死に至るまでの生の称揚だ」と主張する所以だ。
生殖行為を究極の目的としつつ生殖とは無縁のエロティシズム。
「死に至るまでの生の称揚」なる言説は様々に解釈が分かれる。
それは「死に至るまで性を謳歌する」ことか「性を謳歌しうる生を讃美する」ことか。
前者の例は腹上死に代表される。
わが国では年間で数百人が腹上死を遂げる。
死因の大半は、男の心臓麻痺、女は脳溢血だという。
人間のエロにより死に至るまで性交の快楽を求める動物だ。
後者の例は生殖を伴う快楽の堪能に代表される。
快楽に溺れた性交に耽りつつ子供を作る。
健康で生きているからこそ生の存続繁栄が可能になる。
バタイユの言説では死に至った後のエロには言及していない。
SMプレイにおいて究極的に死に至ることがある。
が、プレイ自体は相手を死に至らしめないことをルールとしている。
ならば、死者に対してエロティシズムは存在しないのか?
ここで各国に見られる屍姦の例を思い起こそう。
これは性衝動ないし性的興奮が死体に触発されることを意味する。
かつて、夫が死んだ直後、夫の下半身を剥き出し自身の下半身も剥き出した状態で夫に覆い被さっていた妻がいた。
同様の逸話は江戸時代以降のわが国で複数言い伝えられている。
昔、中国には死姦できる店があった。
客は腐敗しないよう特殊な薬を用いた少女の遺体を与えられる。
その股間に興奮した客は少女の遺体を卑猥な恰好にさせて犯した。
客は少女の遺体を激しく責め立てた挙句に何度も射精したという。
他にもわが国では市営火葬場に勤める火夫が遺族から若い女の遺体を受け火葬するまでの束の間に女の遺体を凌辱した事件があった。
下着を剥いで若い女の股間を弄び、犯して射精した。
しかもこれは火夫にとって習慣化した行為だったと言う。
火夫が自慢げに話すのを聞いた同僚がこれを録音し、公表したことで事件が発覚した。
彼らは異性の遺体にエロティシズムを感じていた筈だ。
これはバタイユのエロティシズムの定義には含まれていない。
要するに個々の生育背景が異なれば「エロ」の定義が変わる。
屍姦と同じことが動物を相手になす獣姦についても言えよう。
自らの股間にバターを塗り、犬に舐めさせて快楽を得る女も多い。
実際に牡犬と性交した女、牝羊を犯した男、などの例も世界各国で多数報告されている。
彼らは人間ならぬ動物に性的興奮を覚え、性的快楽を得ていた。
一般人には理解しかねる倒錯性欲だが、彼らの感ずるエロティシズムを否定することはできない。
非日常性、隠匿性、猥褻性、禁止の侵犯なる禁忌性、これにより性的興奮を昂ぶらせ性的快楽を増幅させるのがエロティシズムだ。
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