2
私を乗せた寝台は迷わず分娩室を目指していた。
途中のエレベーター内での医師や看護師との会話で、ナイチンゲールさんの名字が「さくら」だということがわかった。
よく見れば彼女は首からストラップを提げていて、そこに顔写真入りのネームカードを付けていた。ほかのスタッフも皆そうだ。
佐倉麻衣(さくらまい)、素敵なフルネームの横の顔写真は、どこをとっても美人の要素しか見当たらない。
キャリアウーマンではないにしても、医療現場で働く女性の表情は生き生きとしていて、男性に負けないくらいの自信に満ち溢れていた。
私には奈保子、彼には篤史、彼女には麻衣。名前でその人の人生が決まるわけではないけれど、命名という親としての責任の重さを感じずにはいられなかった。
彼女のように自分に自信を持てる名前を、これから産まれてくる命につけてあげなくてはいけない。
そう思っていた時、ふたたび私のお腹を陣痛がおそった。
「いっ……たぃ……、いいっ……」
泣きそうなほど痛い……というか少し泣いた。
「小村さん、小村奈保子さん、もう着きましたからね、大丈夫、大丈夫」
私をなだめる声は分娩室の扉をくぐって、次の瞬間にはもう厳しく指示が飛び交う室内にまぎれてしまった。
私はそのまま分娩台へと移され、見たこともない医療機器に囲まれたまま両脚をひらいた。
新しい点滴を追加し、母体や胎内の心音を聴く計器のコードが私の肌を這いまわる。
いよいよだ。この日に備えて色んな事を我慢してきた。
マタニティ教室ではヨガや胎教、食事制限のほかに性生活のことまで学んだ。
体の中まで甘く溶けてしまいそうなスキンシップも、大人の色恋話で内股を疼かせることも、妊婦である私には無縁なものだと言い聞かせてきた。
なるべく遠ざけておいた方が子宮への負担は少ないのだから、女性としてではなく、母親としての自分を磨きながら10ヶ月を明るく暮らしてきたつもりだ。
「産科医の出海(いずみ)です」
足もとから太い声が聞こえた。
大きく膨れ上がった自分のお腹越しに、日焼け顔の若い医師の姿が確認できた。
惜しくも顔の下半分はマスクで隠れているが、声の雰囲気が美男子というのか、恵まれた器量の持ち主であることが充分つたわってくる。
さぞかし名のある名医の家系に生まれて、それなりに経験も積んできたことだろう。それを見積もっても若い。
「僕が小村奈保子さんを担当しますので、そうですね、初産の方はだいたいみんな緊張しますからね。産後もふくめて、奈保子さんのお産を全力でサポートさせていただきます」
若い医師は私の目から視線を逸らさずに言った。
その彼に対して私は両脚を大きくひらき、汚れた性器を差し出す格好になっている。
これから出産するのだからあたりまえなのに、今さら女の部分を捨てきれずに恥ずかしさが込み上げてきた。
不安材料はほかにもある。
私のまわりを忙しく動き回るスタッフや、インターンの学生らしき男女数人の姿も見える。
ここにいる全員に体をいじくりまわされ、長時間に渡って恥部をさらし続けるというのだから、これほど恥ずかしいことは生まれてから一度もない。
顔から湯気が立ちそうなくらい頬が熱い。みんなが私の股間に注目している。
その目は感情をなくしているのかと思うほど冷静で、苦痛に顔を歪める私とは対照的に見えた。
温度がない、そんな様子だった。
「小村さん、呼吸はこうですよ、いいですか?ひっ、ひっ、ふうぅ……」
この中で唯一の温かい存在、佐倉さんが私のそばにいた。
「ひいっ……、ひいっ……、んふうぅ……」
彼女にならって私は下腹部に力を入れ、長い息を吐いた。
あまりの痛さに、目の前で火花が散る。
「大丈夫ですよ、ちゃんと子宮が下りてきて、産道もひらいてきていますから」
握りしめた手首にすじが浮き出て、爪が手のひらに食い込む。
汗、鼻水、涙、唾液、水分という水分が私の顔を台無しにして、そうとう酷いことになっているのがかわった。
帝王切開はやらないにしても、会陰切開は──やっぱり痛いのかな。陣痛とどっちが痛いだろう。健康な皮膚にメスが入るのだから、それはもう──。
想像したくないけれど、想像してしまってから後悔した。
不快なものが膣から垂れ流されているのを、初対面の目が注意深く覗き込んでいる。
剃毛も済ませてあるから、ヒクヒクと痙攣する陰唇の具合までもがはっきりと見えているはずだ。
「点滴、もう少し強くして!」
出海先生の語気が強くなり、現場に緊張がはしる。
自分よりも年上の看護師らに次々と指示を出す。
「膣鏡ください」
金属製の挿入器具が彼に手渡され、繊細な手つきでそれを私の膣の奥深くまで差し込んできた。
「子宮口の状態を確認させてくださいね、異常があるといけませんから」
その瞬間だけ、別の声色が喉まで出かかっているのに気づいて、膣粘膜を切なくさせる冷たい器具の感触に堪えようとした。
性器は左右にひらききって、お尻の穴までもが拡張されたような錯覚に責められる。
「シリンジ──」
差し出した彼の手に、針のない注射器が渡る。
満たされた透明な液体を私の体内に滴下すると、「女性ホルモンを増やすために、ホルモン剤を塗布するわけですよ」と子ども相手に話す口調で私をあつかう。
これが生理の時なら、ひとのあそこを好き放題さわっておいて、この変態!──となるところだが、彼は性器をあつかう前に命をあつかっているのだと思うと、医者の前では聞き分けのいい患者を演じ続けるしかなかった。
それが絶対条件なのだ。
「カテーテル、吸引して──」
指の感触が、器具の肌触りが、彼の思惑どおりに私を悩殺しようとしていた。
「あぁっ……、あいぃっ……、せっ……先生……いっ……、はあ……はあ……」
「痛みを抑える施術をしますからね、いいですよ。声を出した方が気分が紛れますから」
ミンチ肉を手でこねて粘りを出したように、私の下半身からネチャネチャという音が排泄されている。
それにつられて膀胱がくすぐったくなったり、尿が漏れる感覚に武者震いしたりで、私の体はいそがしい。
そんな私の反応を目で追いながら、研修医や学生らはメモを取る手に力を込める。
「小村さん、痛みはどうですか。落ち着いてきました?」
看護師の佐倉さんが私の顔色をうかがう。
そういえばあの時、私の受け入れ先を探していたところに彼女がこの病院の存在を匂わせ、それに対して救護員が即答できないでいた。
それは何故か。常識人を寄せつけない逸話や、異常な経営体質などなど、テレビドラマ上でしかやり取りされていないと思っていたことが、ここでは常識として通っているのだとしたら──。
そうやって疑い出すと、ここにいる全員が白装束をまとった性犯罪者集団に見えてくる。
いま私の頭の上に漫画の吹き出しがあるとすれば、そこには大きなクェスチョンマークが描かれているだろう。
何かがおかしい。私の体もどこかおかしい。
出海医師が私の膣内に注入したのは麻酔だったのか、それとも鎮痛薬の類いか。
その効果は明らかに私の子宮の痛みを散らしはじめていた。
※元投稿はこちら >>