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臨月。
「なんだか今でも信じられない気分だけど、あなたの言うとおり、もっと早いうちに不妊治療を始めていれば良かった。だって私、こんなにも幸せなんだもん」
「ようやく授かった子どもだ、ぜったい大切に育てような」
「うん」
「あ、そうだ、もう男の子か女の子かわかっているんだろう?」
「その事なんだけど、じつはまだ訊いてないの。その方が楽しみが増えると思って」
「そうだな、無事に生まれてくれればどちらでもいいよな。それじゃあ名前も両方考えておかないといけないな」
「ねえ、電話じゃなくて、直接会って話さない?」
「よしわかった。もうすぐ仕事が終わるから、ええと、どこで待ち合わせしようか?」
「……」
「もしもし、奈保子?」
「うっ……、んん……、はあはあ……」
「どうした?大丈夫か?」
「ああ……、いい……、き……きたみたい……」
「まさか、陣痛がきたのか?奈保子!」
「ああ……、ああ……、き……救急車……、救急車……」
あまりの激痛に意識を朦朧とさせながらも、私は必死で電話の向こうの彼に訴えた。
苦痛の声をあげるたびに歯の隙間から唾が飛び、体重を支えきれなくなった私は、とうとうその場にへたり込んだ。
左手から携帯電話がすべり落ち、もはや通話の相手をしている余裕もない。
火にかけたままのヤカンの口から蒸気が吹き出している。火を消そうと手を伸ばしてみても、そこまで届く気がしなかった。
全身に脂汗をかいているうちに、お尻のあたりを濡らす生温かいものを感じた。破水したのだ。
こめかみのあたりで血管がピクピクと震え、酸欠になったように乱れた呼吸では、なかなか肺に酸素を溜め込むことがむずかしい。
出産とは女性に苦痛しかあたえないのかと、この時ばかりは人体の摂理を恨むしかなかった。
それでも女性が妊娠を望んで母親になりたいと願うのは母性を持っているからであって、それはきっと私にもあるはずなのだ。
今を乗り越えることができたなら、新しい命と一緒に、私の第二の人生がはじまるのだ。
そんなことを考えていても、相変わらず私の子宮は鉛のように重く、マタニティドレスを汚していくものも、びしょびしょに染みをひろげていた。
あなたに会いたいから、ママは頑張る。だからあなたも頑張って、元気な姿を私に見せてね。
いつの間にか、意識の遠くの方から救急車のサイレンが聞こえてくるのがわかった。
母子の命をつなぐ糸を、こんなところで切るわけにはいかない。
そんな私の覚悟を感じ取ったのか、胎動はおさまり、子宮口の内側から小さな頭を押しつけられているような感じがした。
ほどなくして、救急隊員と思われる白い人影が視界に入り、事態が迫っている私を抱えて救急車両の中へと運んでくれた。
そこでは付き添いの女性看護師による処置が手際よくおこなわれ、もう大丈夫ですよ、私に合わせて呼吸してくださいと、やさしい声が聞こえた。
まるでナイチンゲールのようだ。
また別の声も聞こえた。どうやら私の受け入れ先の病院を探しているらしい。
「──そうですか、わかりました、他をあたってみます!」
「またダメだったんですか?」
「緊急の手術で手がまわらないらしい!」
「冷静になってください。病院ならまだあります」
「そうだな、母体と胎児を救えるのは俺たちだけだしな」
そんなやりとりの空気を読んで、ナイチンゲールの彼女が落ち着いたその声を割り込ませた。
「あそこなら受け入れてくれるんじゃないでしょうか?」
天使のような声、そんな印象だった。
彼女が示した言葉の意味をすぐに理解した他の隊員たちはしばらく思案したあと、緊張した表情で次の行動をはじめた。
おそらく今の私の表情は彼ら以上に緊張し、引きつっているはずだ。今にも産まれそうなのだ。
「安心してください」
私を気遣う彼女の声が聞こえた。
「あそこなら医療設備も整っているし、優秀な産科医やスタッフがそろっていますから」
私は唸り声の中で、二、三度うなずくのが精一杯だった。
ナーススーツというものはとても清潔感があって、女性の魅力を生かすには都合のいい制服のように見える。
しかし彼女の場合はそれだけではない。肌色や目尻の角度などによってある程度の年齢は読めそうなのだが、内側から匂ってくるミステリアスな色気が彼女の加齢を止めてしまっているような気がした。
マスクの下で彼女は私に微笑みかけてくれているのだろう。
私と同年代ならば29か、30か。女性としての盛りの時期なら薄化粧だけで足りてしまう、彼女はそういう人に違いない。
おっと、こんな時に人間観察をしている場合じゃない。
今日という日が特別になって、明日からは新しい家族との新しい生活がはじまる。
季節もちょうど春だし、梅や桜が見頃になったら近くの公園まで子どもを連れて、うららかな日差しの中で授乳する自分を想像してみる。
愛しい我が子と白い乳房をケープでくるみ、枝をしならせる満開の花の下で、母乳をあたえる喜びを表情に浮かべる。それが私のハピネスなのだ。
「もうすぐ病院に着きますから、あと少し頑張りましょう」
その声で我に返った私は、ずっと手を握ってくれている看護師の手を握り返し、声にならない「ありがとう」を言ったつもりで口を動かした。
そして彼女の女性らしい容姿を直視してみて、彼女が落ち着いている理由がわかった。
ナーススーツのウエスト部分にはあるべきくびれがなく、わずかにお腹が膨らんでいる。
「じつは私も妊娠しているんです」
私の視線に気づいて彼女が言った。
「妊婦が妊婦に付き添っているなんて、どういう巡り合わせなのかしらね。説明のつかない縁を感じてしまうのは私だけかしら」
彼女は自分のお腹に手を添えて、それから私のお腹をまるく撫でた。
それはもう医学の分野を越えた、人が人をいたわる自然な仕草だった。
飴細工のように綺麗なつやを流し込んだ髪を肩から下ろして、メープルシロップを思わせるその色が甘く私の視覚を刺激した。
警告を発しながら慎重に交差点を通過していく緊急車両の中は居心地のいいものではなかったが、彼女のおかげですべてが速やかに運んでいるのだと思った。
やがて救急のサイレンが止み、ブレーキの揺れに到着を知った。
ハッチバックを全開にすると数人のスタッフがせわしく私を取り囲み、鋭く指示を出しながら無駄のない動きを繰り広げていた。
時刻はわからないが、外はすっかり暗くなっていた。赤色灯が辺りをめらめらと照らしている。
深まった夜の中にそびえ立つ病棟は夜空を突き上げ、そのいちばん高い位置から赤十字が私を見下ろしていた。
「小村奈保子(こむらなおこ)、30歳、初産です。破水から40分ほど経過していると思われます」
私の母子手帳の記録を誰かが読み上げた。
出産予定日にはまだ余りあったが、お腹の子どもは外に出たくて仕方がないといったふうに頭を下ろし、骨盤をきしませながら産道を突いている。
「あああっ……、ううっ……、はあっ、はうっ……!」
歯ぎしりを鳴らすほど歯を食いしばり、思わず赤面してしまいそうな声にも恥ずかしがっている場合じゃない。
セックスの時はあんなに官能的で気持ち良かったのに、今はもうただ地味に痛いだけだ。分娩室はまだなのか。はやく産んで楽になりたい。
「小村さん、あなたのお腹の赤ちゃんは、たくさんいる女性の中からあなたを母親に選んだのですよ」
ナイチンゲールさんの声が私の耳に飛び込んできた。いいかげん、彼女の名字だけでも知りたいところだが──。
「これは偶然なんかじゃなくて、前世から引き継いだものでもないし、ほかの誰でもないあなたじゃなきゃいけないんです。そう思いませんか?」
私は首を縦に振って、彼女の優しさに応えた。
「私も立ち会いますから、リラックスして臨みましょう」
私は陣痛の中休みに大きく深呼吸をしてみた。
痛みが治まって気持ちに余裕が出来てくると、色々と気がかりな事が出てくるものだ。
そういえば彼はどうしているのだろうか。あの時、彼と電話をしていたところに陣痛が来て、それから……、それから……。あれ?あの後、彼はどんな行動をとっていたのだろう。仕事を途中で切り上げて私のマンションに来ていた様子もない。定時まで残務をこなしてから直接こっちに向かうつもりかも知れない。出産の時には彼も立ち会ってくれると約束していたのだから。とりあえず彼と連絡が取りたい。
「すみません、あの、家族に連絡したいんですけど」
家族というのは嘘だけれど、やっと普通にしゃべれたのだから、ちゃんと伝わったはずだ。滑舌には自信がある。
「そういえば、あの人が小村さんの旦那さんだったのかしら。この病院に到着してすぐに、若い男性の方が青い顔をして救急車まで駆け寄って来て。だけど妊婦の命が第一優先ですから、私は何も話しませんでしたけど。そうしたらいつの間にかいなくなってしまって」
「そうだったんですか。もし彼のことを見かけたら、私が会いたがっていたと伝えてもらえませんか?ええと、彼……主人の名前は篤史(あつし)です」
「あとで確認しておきますね。そこのエレベーターを上がって通路を渡ったところが産科病棟です。安産だといいですね」
打ち解けた笑顔で彼女が言った。
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