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1:雨音
昼休みは公園のベンチで暖かな陽射しだった。なのに帰る時間が近づくにつれ雲は重く、季節が戻ったかのように午後五時にしては街全体が薄暗い。頭上には節電のために管の外された蛍光灯。僕は書類に領収書を添付して隣の席の経理に回す。
「これ、お願いします」 「遅いよ新倉くん。こう言うのは締めの一週間前までに出してって言ってるでしょ」 経理の城戸先輩は僕を一瞥すると、髪を束ねたゴムを外しながらそう言った。 「すいません」 「まったく。今日何日だと思ってんのよ」 眼鏡の奥から鋭利な刃物のような視線。提出した書類は整然と並べられたファイルに収められる。一日遅れたぐらいでこの言い様。少しは融通利かせてくれてもいいのに。 「お先。俺、雨降られる前に帰るわ」 「あ、お疲れ様でした」 部長が帰り、後を追うように新入社員たちも帰り支度を始める。やっと人手不足から解放されると思ったものの、彼らが使えるようになるまでが大変なのだ。今日も残業だろうかと憂鬱な気分に浸っている中、同僚たちまで次々と帰り支度を始める。社長は接待に行ったままの直帰で、こんな日は早く上がれるとばかりに遊びに行くのだろうか。 「あなたも今日はこの辺にしといたら? 今夜は天気、荒れるらしいわよ」 「みたいですね」 気付けば僕と城戸先輩だけが残され、外もすっかり暗い。蛍光灯の数を半分に減らしたのはこの人だった。細かい事ばかり言う人だけど、それでもこの小さな会社が潰れずに持ちこたえているのは、実はこの人のお陰なのかも知れない。 「もう降って来た?」 机の上、冷めたコーヒーの横に短く切り揃えられた爪が乗る。僕は苛立ちを覚えながら窓の外に視線を移す。見下ろしてみれば、黒や透明な傘たち。 「先輩、傘持って来てます?」 「それが持って来てないのよね。だって朝の天気予報じゃ降るなんて言ってなかったし」 視線を戻すもパソコン画面をサラサラと隠す黒髪。遮るように身を乗り出した横顔は眼鏡を下にずらして眉間に皺を寄せていた。この人は他人のテリトリーに土足で踏み込む癖がある。化粧の匂いが僕の空間を侵す。もし社会的立場が逆だったら、きっと説教していただろう。 「誰か置き傘してないかしら」 僕は冷めたコーヒーを飲み干してカップを片付け、鞄に持ち帰る書類を仕舞った。 「やっぱないか。これ、新倉くんのでしょ?」 傘立てを見て嘆く先輩。 「ええ」 「入れてってよ。駅まで」 「はぁ、まぁ、いいですけど」 最後まで会社に残っているのはいつも先輩だった。電源を全て切ってあるのを確認し、ファックス以外のコンセントを抜く。最後にオフィスの鍵を閉めれば、先輩の儀式じみた作業は終わる。 「毎日大変ですね」 「別に。もう習慣になっちゃってるわよ」 一階エントランスからビルを出れば、思ってたより大したこと無さそうな霧雨。 「これなら止むかも知れませんね」 駅まで傘に入れ、帰りの電車も同じ方向。先輩は怖い人っていうイメージがあるから、同じ電車で一緒に帰るのは緊張するし憂鬱だった。 無言が居心地の悪さを助長する中、先輩の家は僕の家の一つ手前の駅。やがて到着してドアが開けば、いつしかどしゃ降りのホーム。 「困ったわね、これ。新倉くん、ウチまで送ってってくんない?」 「傘買えばいいじゃないですか」 「勿体無いじゃない。ウチ近いし帰ればビニール傘二本もあるのよ」 図々しくは無いか、とは言えない。毎日節約に節約を重ねる先輩にとって、自宅の傘が無駄に増える事など許せないのだろう。 「マンションすぐそこだからさ」 もっとも、早く帰ったところで特にやる事もなし、面倒だけど貸しを作っておくのもいいかも知れない。 「しょうがないですね、わかりましたよ」 駅を出れば雨足は強まる一方で、足元と肩が濡れる。生ぬるい風は強く、霧のような飛沫が湿気とともに全身を濡らした。傘はその役目を大して果しもせず。 「ちゃんと差しなさいよ」 「はいはい」 濡れないように傘を掲げれば僕ばかりがびしょ濡れ。まるで下僕か執事にでもなったような気分だ。 先輩の家は線路沿いに坂を登った先の、古びたマンションだった。三十代後半にして独身の一人暮らし。 「少し休んでいったら? そのうち小降りになるかも知れないわよ」 「いえ、大丈夫ですよ」 「タオル貸してあげるからさ、ちょっと上がって行きなって」 仕事を終えたからか、ちょっといつもと印象が違う。仕事の鬼から一転、仕事に疲れた女性へとスイッチが切り替わったのだろうか、口調も普段とは違う。この様子なら、変に説教される事もなさそうだ。 「じゃ、お言葉に甘えて」 これがもし新入社員の女の子だったらウキウキもしていただろう。だが先輩は七つも歳上で、いわゆる行き後れというやつだった。 歳の割には老けておらず、それなりに綺麗の部類に入る。つまり別に結婚出来ないのではなく、本人が結婚そのものに興味無いのだろうと僕は邪推する。 「ちょっと狭いけど我慢して」 「お邪魔しま……」 玄関で靴を脱ぎながら僕は絶句した。なんだこの汚ない部屋は。 「マジですか」 「何が?」 仕事は几帳面なクセになんてガサツな私生活なんだろう。広いワンルームには散乱した雑誌。洗い物の溜まったキッチン。洗濯機から溢れる衣類。ゴミ屋敷とまでは行かないにしても、少なくとも女性の部屋とは思えない。 「……晩ごはんとか、どうしてるんですか?」 「んー、カップラーメンとかコンビニ弁当とか……」 「掃除とかしないんですか?」 「んー、疲れて帰ったらさ、お酒飲んで寝ちゃうのよね」 「ダメじゃないですか」 口煩くて細かい事ばかり言う先輩のイメージが音を立てて崩れてゆく。 「そうだ、シャワー浴びてけば?」 嫌な予感がしてシャワールームを覗くと、やはり。 「……排水口の髪の毛ぐらい掃除して下さいよ」 「あー……うん」 なんだかいつもと立場が逆になっていた。 「先輩、こんな生活してたら男だって寄りつきませんよ」 「いいのよ。そのうち掃除好きな男でも見つけるから」 「そう言う問題じゃないでしょ」 「まぁまぁ、ほら、ビールでも飲んで寛いでよ」 そう言うと先輩は冷蔵庫から発泡酒を二本取り出した。彼女には少し説教が必要かも知れない。僕は上着を脱いで唯一の座るスペースであるソファーに腰を下ろす。しかし手元に衣類の感触。 「ちょ、勘弁して下さいよ下着脱ぎっぱなしって!」 「あーごめんごめん。ま、気にしないで」 女性も歳を取れば恥じらいも何も無くなってしまうのか。今、彼女は怖い先輩ではなく、ただのズボラな年増女になっている。 「気にしますって。これでも僕、一応男なんですから」 「なんて言うかな、君は弟みたいな感じなんだよね」 だからか。僕の領域に勝手に入り込んで来たり、やたら図々しかったり、時には厳しく僕を叱ったり。 「でも、先輩は先輩です」 「もー、せっかく仕事終わったんだから先輩なんて固っ苦しい呼び方しないの」 不意に見せる笑顔。仕事中には滅多に見せない顔だった。 「どんだけスイッチ切っちゃってんですか。じゃぁ、なんて呼べばいいんです?」 「律子でいいよ」 そう言うと先輩は眼鏡を外した。初めて見たかも知れない。先輩のこんなオフな顔。可愛く見えてしまうのは、いつもと印象が違うせいだろう。 「じゃぁ……律子」 不本意ながらつい名前を呼び捨てに呼んでしまった事に、すぐさま後悔する。 「あ……うぅ……」 「ひとに呼ばしといて照れないで下さいよ! こっちまで恥ずかしくなるじゃないですか!」 「……うん」 俯き加減に視線を逸らすその仕草は、しおらしくもあり、また寂しげにも見えた。彼氏も居ないんだろうなんて勝手に想像を巡らせてしまう。 「せ、せめて律子さんて敬語で呼ばせて下さい」 「うん……ごめんね、新倉くん」 言いながら彼女は僕に発泡酒を渡した。なんで謝るんだろう。プルタブを開ける音が、どことなく気まずかった静寂を破る。 「はい、カンパーイ」 「お疲れ様です」 オヤジみたいな飲みっぷり。プハーとか言っちゃって、これじゃ彼氏も出来なかろうと僕は妙な確信を得た。 「じゃぁ、ちょっと着替えちゃうから、あっち向いてて」 「こ、ここでですか!」 「覗いちゃやーよ」 「覗きませんて!」 なんか疲れる。僕は発泡酒を煽り、ため息をついた。真面目で頼れるしっかり者だとばかり思っていたけど、それは仕事中の顔。いや、逆に会社でのストレスやプレッシャーがあるからこそ、城戸先輩のプライベートはこんな有り様なのかも知れない。 「もういいわよー」 「……ちょ、ラフにも程があります!」 Tシャツはまだいい。許す。だが下がパンツ一枚はナシだ。 「アタシ家ではいつもこの格好だけど?」 「恥ずかしいとか無いんですか? まかりなりにも男子が部屋にお邪魔してるんですよ」 「あらぁ? もしかして、こんなオバチャンの体で興奮しちゃってんの?」 なんだこれ。誘ってんのか? そんな訳ないだろうと、僕は自分の考えを払拭する。 「ウチの母だってパンツ一丁にはなりませんよ」 「やだなぁ、新倉くんアタシの事、そういう目で見てたわけ?」 「聞いてねーし」 先輩はずっと笑ってる。仕事中とはまるで別人のように。 「なんて言うかな、新倉くんてアンパイっていうかさ、信用できるっていうか」 「早い話、男として見られてないって事ですよね」 「アハハ、そうとも言うかな。新倉くんだってアタシの事、女として見てないでしょ?」 「そんな事……ない、ですよ」 綺麗な人だとは思っていた。ただ、この人はいつも鎧で武装していて女性っぽさを感じさせないようにしていた。 「え? アタシって……女としてアリなの?」 そもそも自覚が無い。城戸先輩は急に顔を赤らめ両手でTシャツを伸ばし、今さらパンツを隠そうとする。自ずと僕の視線は胸の谷間に行ってしまい、鼓動が早まる。 「普段あんまり意識してなかったけど、今みたいに自然体な律子さんなら全然アリですよ。て言うか元々先輩綺麗だし」 「お、お世辞なんか言わないでよ」 「いやマジで。スタイルだって抜群だし魅力的ですよ」 「……ありがとう」 まさか先輩の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。照れ臭そうにはにかんだその表情は、とても歳上には見えない。 雨音は静かで、小降りになって来た事を教えてくれる。帰る理由が出来てしまったけれど、左隣に肩を並べてソファーに座る先輩。ブカついたTシャツから細い足がスラリと伸びる。 「アタシね、女として自信無いんだ。だから仕事頑張ってさ、仕事で人から認められるようにって頑張って、気がついたらもうこんな歳になっちゃってて……」 「あんま無理しないで下さいね」 「新倉くん。なんかアタシ、疲れちゃったよ」 きっと寂しいんだ。誰にも弱音を吐けないまま、ずっと一人で頑張って来て。 「……僕でよかったら、いつでもお役に立ちますよ」 そう言いながらぎこちなく肩に手を回せば、僕の方へと寄り掛かってくる。ゴチン、と、彼女の頭と僕の顎とがぶつかって、サラサラの髪が頬に触れればいい匂いがした。疲れて血管が浮き出た手の甲は僕の胸をまさぐるようで、しがみ付こうともするようで。 「どきどきしてるね」 僕の胸元から、くぐもった声。 「ええ、まぁ」 「でもなんか、人の鼓動って癒される」 「そう言うもんですかね」 頭をもたげる欲望を感じて葛藤する。だめだ。冷静になれ。この人は会社の先輩で毎日顔を合わすんだから、軽い気持ちで手なんか出しちゃいけない。そもそも先輩はただこうしていたいだけなのかも知れない。でもこの状況。勝てる気がしない。 「新倉くん」 「は、はいっ」 「もしかして今、エッチなこと考えてた?」 「なっ! いや……」 「アタシみたいな年増でも、したいとか思っちゃうの?」 「そりゃぁ……って言うか律子さんまだ全然若いじゃないですか! 三十代とか普通ですよ普通!」
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2021/02/16 09:08:04(dh3ZeD8X)
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