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1:輪廻
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ThirdMan
日頃はたんなる疎林としか思われていない護国山も、山肌が桜色に染まり出すこの時期になると、にわかに脚光を浴びて、もの珍しそうに上を見上げながら歩く人々で街道もにぎわう。
舗装もされていない赤土の残った道路の両側には、かなりの年月を生きてきたと思われるソメイヨシノの巨木が道路を覆うように立ち並んでおり、春先の土日ともなれば出店なども現れるほどの盛況ぶりを見せる観光の名所へと変わる。 平日の今日は、出店もまばらに点在するだけで、さすがに人の出もそれほど激しくはなかったが、それでもダッシュボード越しに眺める景色から人の姿が消えることはなく、今も、すでに人生をリタイアして、あとの余生は気ままに暮らすだけといった老年のカップルが、京介の乗った車のほうに向かってゆっくりと近づいていた。 夫人のほうは終始にこやかに笑みを絶やさず、隣にいる夫と一緒に歩くことが嬉しくてならないといった顔をしながら、何度も教えるように可憐に咲き誇り始めた桜の枝を指差している。 二人はちょうど京介の車の前で止まり、しばらく上を見上げていた。 今年は例年になく長い冬が続き、遅咲きの桜はまだ五分咲き程度であったが、京介の車の近くに立っているソメイヨシノだけは、日当たりのおかげか、それとも他になにか理由があるのか、立ち並ぶ桜並木の中でも、他の枝に比べて花びらの数が格段に多かった。 ここ一時間ほど、ずっとここに車を停めたままにしているが、京介の車の前で立ち止まったのは、なにもこの老夫婦ばかりではなく、その間も何組ものカップルや家族連れが同じように足を止めては上を見上げていった。 中には、目立つ車両を乗り入れて趣のある風景を壊すなと言いたげに、運転席に座る京介をじろじろと眺める者もいたが、元々は山間部を抜ける道路として利用される場所であるから、車両の通行なども一切規制はされておらず、どこに車を停めたところで他人から文句を言われる筋合いはない。街道とは言っても舗装もされていない山道は、当然駐車禁止の道路標識などもなく、広い路肩を利用して京介と同じように桜の下に停めている車は他にもあった。 ただし、前を見ても後ろを振り返っても、京介のような派手な車両は見あたらない。 「すごいですねえ・・・」 「どうしてここだけ、違うんだろうね」 老夫婦の二人は、車の前に佇んで空を眺めるように上を見上げながら、それまで何人もの人たちが同じように感じていた疑問を口にした。 二人はゆっくりと助手席側に移動してまた立ち止まると、目を細めながら上を眺めていく。 ふと、そのとき何かの物音に気付いたらしい夫人のほうが振り返って、京介のほうに目を向けた。 怪訝そうな顔でしばらく目を凝らしていた彼女は、あっ、という表情を浮かべると、すぐに居心地が悪くなったように夫の袖を引いた。 「行きましょう・・・。」 それだけを言って、夫人は夫の腕を引きながら逃げるように京介の車から離れていく。 突然腕を引かれて、夫のほうは困惑した表情を浮かべ、何事かと夫人に尋ねていたようだが、夫人は後ろを振り返りもせずに急ぎ足で立ち去ってしまった。もしかしたら夫のほうは耳が悪いのかもしれない。 慌てて去っていく二人の様子をバックミラーで確かめながら、さっきまでまさしくこの世の春を満喫していた夫人の顔が、ものの見事に引きつっていたのを思い出して、京介は薄く笑いを浮かべた。 「行っちゃったよ・・・」 頭を撫でながら囁いてみたが、八重は綺麗に整った眉毛を山なりに寄せているだけで、応える元気もないらしい。 赤い唇を開きながら、辛そうな表情を見せるだけだった。 耳を澄まさずともはっきりとわかるほどに、車体の中には春のパノラマには似つかわしくない、いささか不快で不釣り合い音がうるさいほどに鳴り響いていて、耳障りな機械音を消すために、京介は手のひらに握る小さな箱のスイッチを切った。 車内に響き渡っていた激しいバイブレーション音が消えると、八重の身体からふっ、と力が抜けて、京介の股間を心地よく濡らす軟体動物にも少しずつ落ち着きが戻ってくる。 つい先日購入したばかりのバイブは、威力は強烈だが、うるさいほどにモーター音を響かせるのが難点といえば難点である。しかし、それも使い方次第では面白い。 趣味でリフトアップしたサーフはそれなりに地上高があり、隣りに立ったくらいでは中の様子が簡単にわからないようになっている。 だから、あの夫人には八重の姿が見えるはずもないのだが、彼女はダッシュボードの上に置かれたビデオカメラの存在に気付いたのかもしれない。 観光地へやって来きたのだから、その記念を残したいと思うのは当然のことで、京介も多分に漏れず小型で最新のビデオカメラを持ってきていた。 しかし、それは美しい桜並木の景色を録るためではなく、運転席に座る京介たちを記録するためにレンズは車内へと向けられていた。 やや斜め下の方向を捉えるようにカメラの下に台座を置いていたので、角度によっては外からでもディスプレイに映る映像がはっきりと視認できたのかもしれない。 構図を確認するために開いた小さな窓には、膝までズボンを下ろして剥き出しになった京介の股間に顔を埋める八重の姿が映っていた。 長い髪をまとめ上げて細いうなじを見せる八重は、京介の股間で頬を膨らませながら何度も頭を上下させていたので、老婦人には彼女が何をしているのかすぐにわかったのだろう。 人の近づく足音に怯え、話し声に怯え、じっと息を潜めて存在を消し去りたくとも、股間のバイブがそれを許さない。 京介は、振動が止まってからも上下することをやめようとしない頭を撫でつづけた。 「また来たよ・・・。」 向ける視線の先から、今度は肩を組んだ若いカップルが近づいてきて、やはり二人は同じように京介の車の上を指差している。きっとこの二人も車の傍で立ち止まってくれるに違いない。 「ちゃんと、我慢するんだよ。」 股間の疼きを愛しむように頭を撫でながら言って聞かせると、八重は身構えるようにぎゅっと目を閉じて、身体を強張らせていく。 若々しい顔立ちをしているが、それなりに熟成された女である。 子を一人産んで立派に育てた。 分別も良識もある熟母だが、今の彼女は品の良いスカートを腰まで捲り上げて、白桃を二つ並べたような大きな尻をあからさまにさらけ出している。 その尻が、かすかに震えているのがわかる。 「行くよ。」 真っ白な尻から生えたように突き出た黒いバイブは、見るからに凶々しい。そのバイブの底部から伸びた細いコードは京介の手のひらへと繋がっている。 すぐ横まで近づいてきたカップルは、やはり足を止めて上を見上げた。 京介は八重の頭を撫でながら、リモコンのスイッチを入れると、ボリュームを少しずつ上げていった。 胎内深くまで浸食したシリコン樹脂の悪魔が容赦なく暴れ始めると、八重は、ううっ!とひときわ大きな呻き声を上げて、その声を必死に殺そうとするかのように深くくわえ込んできた。 叫んだりはしない。 彼女は、ひたすら堪えることしか知らない。 中間までボリュームを上げると、はっきりと耳に聞こえるほどにモーター音が車内に響き出し、八重の表情から快楽が消える。 並のサイズなどよりはるかに大きな特大バイブは、バイブレーションの音を高めることで自分の威力を他者と八重の肉体に教えていく。きっと男などには想像もつかない殺人的な破壊力があるに違いない。 憐れな八重は、もう舌を使うこともできないと言わんばかりに、痛いほど握りしめていた。 苦しみに顔を歪めきり、息も絶え絶えになって窒息寸前の状態にある。 絶対に許してやらないことを教えるように、頭を撫でていた手のひらで、ぐい、後頭部を押していくと、健気に舌を伸ばして舐めようとする。 すっかり従順になっている態度に満足して、京介はさらにバイブのボリュームを上げていった。 何をしたところで、この人は逆らえない。 「いい子だね・・・。母さん・・・。」 愛しさを教えるように頭を撫でながら、京介の指は、限界までボリュームを上げていた。
2012/05/04 22:53:13(0qvip5ny)
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ThirdMan
事件のあらましを話せばこうなる。 河川敷の堤防は、頂部に車両が進入できるほどの大きな遊歩道があり、その遊歩道を挟んで河の反対側は雑然と一軒家の建ち並ぶ住宅街が広がっている。 夜中に突然湧いた女の悲鳴に、そのうちの一件が通報したのは深夜零時近くのことだった。 通報を受けて、直ちに付近を警ら中だったバトカーに連絡がなされ、もっとも近い位置にいたパトカーが現場に到着したとき、遊歩道にはリフトアップされた背の高いサーフがエンジンを掛けた状態で停車していた。 乗員はいなかった。 機捜員たちは不審車両とみなして、すぐさま署に連絡を入れ、乗員を見つけるべく下車して付近の捜索を開始した。 捜索開始直後に、まず遊歩道を下りて10メートルほど進んだ河原から女の遺体が発見され、つづいて藪の中を逃げていく男の後ろ姿が目撃された。 それが京介だった。 京介は、葦の薮の中に身を隠していたらしい。 警官たちが女の遺体を発見して、にわかに慌ただしくなった隙に逃げようとしたらしく、そこを目撃され、追いかけてきた機捜員たちに車に乗り込もうとしたところを捕らえられた。 拘束当初は、俺は関係ない、と容疑を強く否認していた京介だが、署に連行されてからは黙秘に徹しているという。 もっともまずかったのは、彼がナイフを所持していた点だ。 殺された女の胸には、致命傷とはいかないまでも鋭利な刃物でつけたと思われる大きな傷があった。 あの「河川敷の強姦魔」が犯行の記念として犠牲者たちに刻んでいたクロスの十字模様である。 その十字を刻んだと思われる京介が所持していたナイフからはルミノール反応が検出され、血液型が被害者女性と一致している。 加えてまずいことに、今回殺された女と京介は面識があった。 「誰、だったの?・・・」 状況を説明する京太郎に、八重が不安げな顔で尋ねた。 二人は仏間に戻っていた。 八重は敷かれた布団の上に正座をして、胡座をかいて畳の上に座る京太郎に向き合っている。 「矢野真理子だ・・・」 京太郎の声が重い。 「やの・・まりこ?・・・」 夫が苦渋の表情で告げた女の名を八重は思い出した。 「もしかして・・あの真理・・ちゃん?」 八重の顔色が変わった。 矢野真理子は、京介が大学生の頃に付き合っていた彼女だ。 男のわりには綺麗な顔をしていた京介は、それなりにもてて学生の頃は、度々女の子を家に連れてきたことがあった。 京介の性格なのか、それとも女の子が奪い合いをするのか、とにかく家を訪れる女の子の顔は頻繁に変わって八重は呆れもしていたが、大学に入ってからは、ひとりの女の子だけがよく遊びにくるようになり、それが矢野真理子だった。 おとなしい性格で、顔も可愛らしく、どこか守ってあげたくなるような印象が強い真理子を京介はとても気に入っていたようで、大学生活のほとんどを彼女だけとしか付き合わなかったから、もしかしたら京介はこの女の子と結婚をするのではないか、などと八重は思ったりしたものである。 その真理子は京介が就職をした頃から、ぴたりと家に来なくなり、いつの間にか八重の記憶からも存在が消えかかっていた。 あの殺されていた女のひとが、真理ちゃんだったなんて・・・。 ぎろり、と目を剥いた女の顔を思い出した。 「ど、どうして・・真理ちゃんが・・・」 途端に吐き気が込み上げてきて、それを抑えるのに苦労した。 あの女と真理子の顔が、どうしても八重の中で繋がらない。 月明かりに照らされただけでしかなかったが、わずかな光の中で見た彼女の服はだいぶ派手であったように思う。 質素ではなかったが、あの頃の真理子はいつも可愛らしい服を好んで着ていた。 それが似合ってもいたし、ストレートの髪を肩ほどまでしか伸ばしていなかった彼女は、清純といったイメージしか浮かばない女の子だった。 家庭的だった彼女とは一緒に台所に立ったこともあり、いつも真理子は愛らしい笑顔を見せながら、八重の隣で京介たちに振る舞う料理を楽しそうに作っていた。 娘がいたらこんな生活になったのだろうかと、八重も嬉しくなったものである。 藪に転がっていた女は、きつめのウェーブが掛かった長い髪を扇状に広げていた。 どうしても真理子とは、印象が結びつかない。 八重が彼女に気付いたのは、首のあたりにこれ見よがしな大きなネックレスを幾つも掛けていたからだ。 月明かりの下で輝いていた長いネックレスたちは、大きくはだけられた白い胸に刻まれる×印を彩るように首から掛けられていた。 八重と同じように、意図的に刻まれた十字模様であることはあきらかだった。 彼女が真理子だったなんて・・・。 「詳しいことは、まだわからん。だが、あの子が殺されたことだけは確かだ。そして京介が・・・その犯人にされようとしている・・・。」 京太郎の顔にも苦渋の色が濃かった。 しばらく京太郎は俯いて黙り込んでいた。 彼が俯く理由は二つあった。 ひとつはもちろん一人息子の身を案じてのことだが、もうひとつには、京太郎自身も真理子をとても可愛がっていたからだ。 男の子しかいなかった京太郎たちにとって、性格がよくて可愛らしい真理子は、家の中に華やかさをもたらす愛らしい存在だった。 真理子のほうもすっかり打ち解けてくれて、彼女が家に来るといつも朗らかな笑いが絶えなかったものである。 彼女との付き合いが長くなっていくと、京太郎は真理子を実の娘のように可愛がるようになり、彼女がうちに遊びに来るときは、いつも上機嫌になっていたものだ。 その真理子が殺された。 複雑な想いがあると思う。 真理子は、京介と同学年で一緒に大学を卒業し、それからは、これといった職業に就くこともなく家事手伝いとしてアルバイトなどをしていたはずだが、京介が県外に出てしまってからは、うちに遊びに来ることもほとんどなくなり、就職から1年も経った頃に別れたことを京介から聞かされ、それを八重が京太郎に教えてやると、彼はあからさまにがっかりとした表情を浮かべて肩を落としていたものだ。 可愛がっていた真理子なだけに、京太郎には彼女の死も辛いのだろう。 ましてや、その犯人として息子が疑われている。 やるせない気持ちになるのも無理はなかった。
12/05/13 16:31
(41JLTtEM)
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ThirdMan
「京ちゃんが、あの子を殺すはずないわ・・・。それに別れてから何年も経っているんですよ。」 「俺だって、そう思いたい・・・。」 「疑ってるんですか!?」 八重が血相を変えた。 「信じてるさ!だが、今の状況はすべて京介が犯人だと言っているんだ。どう考えても犯人はあいつしかいないことになるんだよ。」 真理子の直接の死因は、鈍器のような堅いもので複数回、頭部を殴打されたことによるショック死であり、その凶器と思わしき大量の血液が付着した石からは京介の指紋が検出されている。 彼女の胸には、乳房付近に独特の十字模様が刻まれており、その犯行に使ったと思われるナイフも京介が持っていた。 加えて、被害者となった真理子と京介は顔見知りである。 元は恋人同士であったのだから、痴情のもつれによる犯行と動機付ければ、裁判官を納得させるなど容易いことで、これだけ物証もそろってしまったら検察が強気になるのは間違いなかった。 拘留期間など限度いっぱいに使わなくとも、京介は即座に起訴、逮捕されてしまうことになるだろう。 現職警察官の子弟であり、本人も黙秘していることから、今のところは捜査も慎重に進められているようだが、いつ起訴されてもおかしくはない状況にある。 そうなったら終わりだ。 検察がいったん起訴してしまえば、よほどの重要証拠でも出てこないかぎり、ひっくり返すのは難しい。 今までの警察官人生で、京太郎はそれを嫌と言うほど見てきた。 冤罪と思われる事件が、まったくなかったわけではないのだ。 「このままではあいつが犯人になってしまう。そのうち、お前の所にも警察は事情を聞きにやってくるだろう。だから、その前に確かめておきたい・・。いったい、夕べお前たちに何があった?お前のことと京介の事件は何か関係があるのか?いったい、どうしてこんなことになったんだ?お前も辛いだろうが、できるだけ詳しく話しを聞かせてくれ。それがあいつを助ける近道になるかもしれんのだ。頼む、八重・・。夕べのことを教えてくれ・・・。」 哀願するような京太郎の目が向けられていた。 それだけ、このひとも必死だということだ。 話せるものなら、すべて話してしまいたい。 あの子を助けるためなら、自分はどんな目に遭ってもかまわない。 それだけの覚悟はある。 でも、八重が真実をすべてさらけ出してしまったら、それは自分ばかりではなく京介を殺すことになる。 実の母親と情事を重ね、あまつさえ子供まで作ってそれを産ませるために暴行事件を利用した。 そんなことが世間にわかりでもしたら、それこそ京介の一生は破滅する。 社会的に抹殺されることは、生きたまま殺されるに等しい。 目の前にいる夫も無事では済まないだろう。 だからこそ京介は黙秘しているのであり、心の中では、いずれ京太郎や八重が助けてくれると信じているのかもしれない。 しかし、八方塞がりの立場に追い込まれて、八重は夫に告げるべき言葉が見つからなかった。 黙って俯いているだけの八重を、京太郎は羞恥による躊躇いと勘違いしたようだった。 「お前から言いづらいなら、俺が聞いていくことだけに応えてくれればいい。それでいいか?」 このままでは、どうにもならない。 いつまで経っても京介を助けることができなかった。 八重は、不肖ながらも頷いた。 「そうか・・では、まずひとつめだ。昨日はどこに行っていた?」 八重は重い口を開いた。 「昨日は・・、あなたに言われて病院へ行っていました・・・。」 「どこの病院だ?」 「○○にある産婦人科の病院です・・・。」 「○○の産婦人科?どうして、そんなところまで?それに腹が痛いんじゃなかったのか?」 「それは、あなたが勝手に思っていただけです。その・・下り物が増えてしまって、なかなか終わらないので、それを診てもらいに行っていました・・。」 妊娠の検査をしにいったなどと、口が裂けても言えるはずがない。 「どうしてここの近所じゃなかったんだ。産婦人科なら京介を産んだあそこがあっただろう?」 「それは・・・」 八重は必死に思考を巡らせた。 「京ちゃんにも用事があったので、ついでにと思い・・・」 「昨日、京介に会ったのか!?」 「はい・・」 「何時頃だ?」 「仕事が終わってからですから、7時過ぎ頃だったと思います・・・。」 これは立派な重要証言だ。 京太郎は、にわかに心が逸った。 「京介に用事とは、なんだったんだ?」 「それは・・たいしたことではなかったんですが、でも、病院でちょっと怖いことを言われてしまったものですから、それで、あの子に相談してみようかと思って・・」 「怖いこと?なにを言われたんだ?」 「あの・・子宮ガンの可能性があると先生から言われてしまって・・」 咄嗟に思いついた嘘だった。 「子宮ガン!?本当か!?」 「か、可能性です・・。もう一度検査してみなければ、はっきりとはわからない、と・・・。でも、なんだか怖くなってしまって、それであの子に相談しました。」 「電話に出なかった理由は?俺は何回もお前たちに電話をしたんだが、お前たちは電話に出なかった。その理由はなんだ?」 「申し訳ありません。ちょうど充電が切れてしまって、携帯は使えなかったんです。あなたに連絡しなければいけないとは思っていたんですが、突然にガンだと言われて、私もうろたえてしまってものですから・・・。京介にも電話をされたんですか?」 八重は少し考え込む振りをした。 「そう言えば・・・、あの子携帯電話を会社に忘れてきたと言ってました。そうです、思い出しました。私が急に呼び出したものだから、慌てて出てきたと。仕事を早めに切り上げてくれたんです。でも、おかげで携帯電話を忘れたと、あの子は言ってました。それで、あなたに電話することも忘れてしまったんです。」 電話に出なかった件は、あらかじめわかっていたから事前に想定していた。 訊ねられたら、そう答えようと最初から考えていた。 もっとも、今頃八重は精神に異常を来して口もきけない状態になっているはずだった。 だから、京太郎から追求を受けることもなかったはずだし、こんな言い訳を取り繕うこともなかった。 しかし、京介の逮捕という思わぬ事態になってしまい、そんなことも忘れていた。 京介のシナリオは狂いっぱなしである。 あの子も自分が逮捕されるなどとは、シナリオに一行も書いていなかったことだろう。 「そうか・・・」 納得したような顔ではなかった。 電話に出なかった理由としては苦しいのはわかっている。 公衆電話だってあるのだから、掛けようと思えばいつだって京太郎に連絡はできたはずだ。 しかし、それで押し通すしかなかった。 京介と強姦ごっこをやるために、わざと出なかったなどと言えるはずがない。 「電話の件は、それでいいとして・・・」 納得はしていないが、重要とは考えていないようだった。 夫が話しをつづけた。 「それで、お前たちは何を話したんだ?」 「特にたいしたことは・・・。あの子の顔を見て安心したかっただけなのかもしれません。あなたとの旅行が近かったですし、もし、ガンだったらどうしようと、京介に言いました。」 「その時の様子は?」 「特に変わったところはありませんでした。いつもの京介でしたよ」 一瞬、八重にナイフを突き立てようとしていた姿を思い出した。 あの子に、人殺しなんかできるはずがない・・・。 八重は目を伏せながら軽く首を振って、無理にその姿を打ち消した。 「どうした?」 「いえ・・なんでもありません・・あの、疲れているので、このあたりで勘弁してもらえませんか?」 これ以上追求されたら、どこでぼろが出るかわからない。 京太郎は渋い顔になった。 「八重、よく聞いてくれ・・。気持ちはわかるが、お前の話がとても重要になるんだ。近親者の証言は証拠として採用されないが捜査の方向を変えることはある。もし、お前が京介と一緒にいたという事実が証明できれば、少なからず、あいつの犯行ではないと考えてくれる捜査員も現れるかもしれない。そうなればあいつを出してやることだってできるんだ。もう少し、我慢してくれないか?」 頷くしかなかった。 「あいつとは、何時まで一緒にいた?」 「車の中で1時間ほど話してから、送ってもらいました。」 「ここへか?」 「いえ、・・・もう少し一人で考えたかったので、河川敷にある橋の袂で降ろしてもらいました・・。」 「何時頃だ?」 「10時ぐらいだったかと・・・」 京介の住む街から、自宅までは車で1時間半ほどかかる。 7時に待ち合わせをして、1時間ほど話し込み、それから京介の車でやって来たのなら、辻褄は合う。 真理子の遺体は、今日司法解剖される予定で検死の結果はまだわからかったが、死亡推定時間が10時前となれば京介にはアリバイがあることになる。 「それを証明できる者はいるか?」 八重は小さく首を横に振った。 「お前を降ろしてから、京介は?」 「家まで送らなくていいのかと心配していましたが、私が、平気だと応えたら、そのまま帰りました」 帰らなかったのだ。 あいつは何らかの理由があって、もう一度河川敷に戻ってきた。 なんのために? 10時頃といえば、京太郎がちょうど自宅に戻った頃である。 もう少し河川敷に残っていたら、京太郎は八重と出会っていたかもしれない。 そうすれば八重も・・・。 「それから?・・」 いよいよ聞きたくないことを聞かねばならなかった。 八重はしばらく押し黙っていた。 「言いたくないのはわかる。だが、教えてくれ・・・。そこで何があった?」 この時の京太郎は、京介のためというよりも、妻が何をされたかを知りたかったかもしれない。 それは妻を他人に汚された夫の心理だった。 「風に当たりながら歩道を歩いていたら・・急に口元を押さえられて、土手の下へと連れて行かれました。そこで・・・誰ともわからない人に乱暴されたんです・・。私の不注意です。申し訳ありませんでした・・・。」 八重は俯きながら、淡々とした口調でそれだけを短く応えた。 「顔は見たのか?」 「いえ、暗くてよくわかりませんでした・・・。でも、何か頭に被っていたように思います・・。」 「ひとりだったのか?」 「え?あ・・・はい。ひとりでした。」 「胸の傷は?」 「その時に、つけられました・・・」 応えながら、八重は夕べのことを思い出した。 『強姦魔は、襲った女の子の胸に傷をつけるんだ。だから、母さんの胸にも同じものを作るよ』 京介は、事も無げにそう言っていた。 『胸に傷?どうして?・・。それにあなたがなぜ、そんなことを?』 『父さんが教えてくれたんだ。酔っていたから口が軽くなってたんだろう。強姦魔は襲った記念に女の子の胸に十字架を刻むんだそうだ。だから、母さんの胸にも同じように十字架があれば、きっと父さんは河川敷の強姦魔にやられたと思い込んでくれる』 『そんなにうまくいくかしら・・・。それに怖いわよ。胸を切るんでしょう?・・・』 『大丈夫だよ。痛くなんかしないから。俺の赤ちゃんを産んでくれるんだろう?それに、胸に傷ができたって俺が承知してるんだから問題なんかないさ。ずっと母さんを可愛がってあげるよ。胸の傷も早く治るようにいっぱい舐めてあげる。だから、ね。ちょっとだけ痛いのを我慢してくれよ』 そう言って京介は拝むように頼んでいた。 ズボンから飛び出していたものを手のひらに握りながら、それが欲しいばかりに渋々だったけれど頷いてしまっていた。 これで、この子の赤ちゃんが産めるかもしれないと思ったら、覚悟もできた。 急に襲われたときは、顔も隠していたし、雰囲気が京介ではなかったから本物が出たのかと思い、震え上がったりもしたけれど、胸を切っているときに浅く傷をつけようとしていることに気付いて、やっぱり京介だとわかった。 京介はひどく興奮していて、ナイフの刃先をじわじわと八重の肌に滑らせながら、膣の中にある肉塊を異常なほど大きくさせていた。 今にも射精しそうなほどビクビクと跳ねさせ、その大きさに八重は歯を食いしばって堪えていたものだ。 世の中には自分を傷つけて陶酔感を得るひとがいる。 若い女の子がリストカットなどしてしまうのも陶酔を得て、崩れそうになる精神のバランスを保とうとするからだと何かの本を読んで知っていた。 京介は、自分ではなく他人を傷つけて興奮するタイプなのかもしれない。 淫虐な性交を好む子だった。 あの子は楽しみながら、八重の胸に戦果の烙印を刻んでいたように思う。 ふと、そのとき頭の中に何かが浮かんだ。 違う・・・。 何かが違う・・・。 模糊とした意識が、八重に何かを思い出させようとしていた。
12/05/13 16:32
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ThirdMan
「どんなナイフだった?」 何かが違う。 八重がそれに気付いて思い出そうとしたとき、思考を遮るように質問がぶつけられた。 「え?・・・」 不意に聞かれて、八重は言葉に窮した。 どんなと言われても、あの時は怖いばかりで詳しいことなど覚えていない。 たしか、折りたたみ式だった。 ナイフの柄を両側に広げたら、飛び出たように真ん中に刃が残っていた。 映画やドラマの中で、よく不良少年たちが使うようなナイフだった気がする。 「よく、覚えてません・・・」 京太郎には言わなかった。 もしかしたら、京介が持っているところを見たことがあるかもしれない。 迂闊なことを言うのは避けるべきだった。 「奴はお前に何か言ったか?」 「いえ、怖くてよく覚えていません・・。」 「特長とか何かなかったか?」 「わかりません・・」 「他に何か気が付いたことは?」 「よく、覚えていません・・」 京太郎は大きなため息を吐いた。 要領を得ない答えばかりに苛立っているようだった。 「河川敷で他に怪しい人影を見た記憶は?」 「わかりません。とにかく暗かったものですから・・・。」 不意に京太郎が俯いた。 「だったらどうして・・・、どうして、そんなところにひとりで行ったんだ!?」 語気が強まっていた。 ひざに置いた手が硬く握りしめられ、ふるふると震えている。 「申し訳、ありません・・・」 謝るしかなかった。 しばらくふたりは俯いたまま、何も話すことができなかった。 こいつは・・嘘をついている・・・。 京太郎は気付いていた。 八重は答えを返すときに、自然と視線が右に流れていた。 ひとは嘘をつくとき、知らず知らずに右を見る。 こいつは、間違いなく何かを隠してる。 思い当たることは、あった・・・。 「気持ちよかったのか?・・」 京太郎は俯いたままだった。 「え?」 八重は、一瞬耳を疑った。 「何回やられたんだ?」 顔を上げた京太郎の目が暗い。 「あ、あなた・・なにを・・」 「どうして毛がないんだ?」 矢継ぎ早に聞かれて息を飲んだ。 すっかり剃られてしまった性毛のことを言っている。 「そ、それは・・旅行に出掛けるので、その前にお手入れを・・」 「そんないいわけが通用するとでも思っているのか?」 さっきまでの思いやる顔はもうなかった。 まるで汚いものでも見るような目つきに変わっていた。 「お前に男がいるのは知っている。本当は、夕べその男に会いに行ったんだろう?」 「ち、違います!」 「お前は男に会うためにあの河原に行った。京介はそれに気付いていて確かめに行ったんじゃないのか?母親が淫売に成りさがったのを確かめようとして、あの事件に巻き込まれた・・・。本当はそうじゃないのか?」 「淫売だなんて・・・」 八重を見つめる双眸が暗い。 ふと京太郎が何か閃いたような顔になった。 「産婦人科へ行ったと言ったな?お前・・・もしかして孕んだのか?」 心臓を鷲掴みにされたように八重が表情を凍りつかせた。 「そ、そんなことありません!」 必死に否定したが、狼狽えていたのはあきらかだった。 「それが答えか。どうせ調べればわかることだ。そうか、お前は不倫相手の子を身籠もったのか・・・」 そこまで言ってから、何かを考えるような顔つきになった。 「まさか産むつもりじゃないだろうな?それでこんな猿芝居を演じたのか?不倫相手の子供を産むために強姦ごっこをやらかしたわけか?」 み、見抜かれている・・・。 「そ、そんなこと!あるわけないじゃないですか!?自分の妻になんてことを言うんです!?わ、私は、知らない男に襲われたんです!?あ、あの河川敷の強姦魔がやったんです!?」 八重は血相を変えて抗弁したが、京太郎は顔色ひとつも変えようとしない。 暗い目で見つめたままだ。 「信じてください!あの河川敷の強姦魔がやったんです!あの人が現れて私を襲ったんです!!」 「無理だな・・・」 観念しろと言いたげな声だった。 「どうして信じてくれないんですか!?あなたは妻の言うことが信じられないんですか!?不倫なんかしていません!本当です!信じてください!!考え事をしていたら、あの強姦魔に襲われたんです!本当なんです!信じてください!!」 「仮に百歩譲ってお前が襲われたとしよう。だがお前を襲ったのは河川敷の強姦魔じゃない。違う奴だ。」 「どうしてそんなことがわかるんです!?私を襲ったのは、あの強姦魔です!決まってるじゃないですか!?」 八重は必死に訴えつづけた。 額を切って血まで流した。 信憑性を持たせるためだったのか、意識を失いかけるほど叩かれもした。 そして、犯人は強姦魔だと思わせるために、痛い思いを我慢しながら一生痕が消えないような傷までつくられた。 この状況から導き出せる答えは、ひとつしかない。 世間を騒がせている連続強姦魔が現れて八重を襲ったのだ。 こつこつと犯人を追い続けていた夫にはそれが一番わかるはずだ。 それしか、答えはないはずなのに、夫は八重を信じようとしない。 わけがわからなかった。 涙が溢れ出していた。 どうしていいかもわからない。 「どうして・・・どうして信じてくれないんですか・・・・」 「お前が嘘を言っているからだ。」 「嘘?・・・何が嘘なんですか!?私はこんな傷までつけられたんですよ!これも嘘だって言うんですか!?」 自分の胸を押さえながら、涙を流して訴えた。 嘘をついているなどは百も承知している。 つき通さなければならない嘘だった。 こんな傷まで負わされても、押し通さなければならない嘘だった。 絶対に夫に知られてはならない。 八重の訴えに、京太郎が短く答えた。 「その通りだ。お前の胸のその傷が嘘なんだよ」 あっさりとした口ぶりに、八重は惚けたように口を開けたまま夫の顔を眺めるしかできなかった。
12/05/13 16:33
(41JLTtEM)
投稿者:
ThirdMan
「う、嘘って・・この傷の・・何が嘘なんですか?・・・」 八重は唇を震わせていた。 京太郎は、嘘を見抜いている。 落ち着き払った顔だった。 すべてわかっていると言いたげにまっすぐとした瞳が向けられていた。 その眼差しは相変わらず暗い。 深い湖の底のような冷たい瞳が、絡め取るように八重を見つめている。 「その傷がなければ俺も信じるところだった・・。」 「嘘じゃ、ありません・・・わ、私は本当に・・」 「言うな・・。これ以上嘘を吐きつづけるなら、俺も正気ではいられなくなる・・・」 自分に言って聞かせているようだった。 「傷の付き方が不自然なんだ。河川敷の強姦魔はそんな傷を刻んだりはしない。」 ここで下を向いてしまうわけにはいかない。 八重はむきになって言い返した。 「じゃあ・・じゃあ、どんな傷なんですか?・・・。」 訊ねられて、京太郎が薄く笑った。 「それは見事なものさ。芸術的といっても言い。見事なナイフさばきで奴は女の肌を皮一枚だけ切り裂くんだ。それもほとんど変わらない深さでな。おそらくそこには躊躇いや後悔なんてものは微塵もないのだろう。冷徹な目で眺めながら、奴は躊躇いなく女の胸を切り裂いていく。お前の胸にあるような不細工な躊躇いなどないんだ」 躊躇い・・・ 確かに京介は、できるだけ浅く切ろうと気遣っていた。 何度も手を止めては、その出来映えを眺めて確かめてもいた。 「そ、その人だって、人間ですもの・・間違えることだって・・」 認めるわけにはいかない。 その強姦魔がどんなに見事にナイフを使おうとも、八重の傷をつけたのは、やはり河川敷の強姦魔でなければならないのだ。 だが、京太郎はあっさりと否定した。 「それがないんだよ。奴は間違えなど犯しはしない。だからこそ、これまで身元が割れるような証拠も残してこなかったし、逮捕だってされなかった。奴は頭がいいんだよ。そして、芸術的センスもある。」 「芸術的センス?・・・・」 「ああ、そうだ。なにゆえ俺が、お前の胸につけられた傷が偽物だと断言できるか教えてやろう。まず今言ったようにお前の傷には躊躇いがある。深さもまちまちだし、所々が曲がって美しさがない」 美しさ?・・・ 「そ、それは、私が逃げようと暴れたから・・」 「言ったろう。奴には躊躇いなどないんだ。ほんのわずかな時間で切り裂くんだよ。だから傷に迷いがない。人間の身体にある微妙な凹凸さえ、奴は手のひらで感じて均一な線を刻んでいくのさ。被害者となった女たちもきっと暴れたに違いない。むざむざと胸を切り裂かれるのを待つ馬鹿はいないからな。だが、抵抗も虚しく彼女たちは皆同じように一直線に胸を切られている。奴は突き立てると同時に刃を滑らせているんだ。彼女たちの脅えた顔を眺めて楽しみながら、じわじわとナイフを近づけ、刃先が胸に突き当たると同時に躊躇することなく刃先を滑らせるわけだ。かすかな痛みを覚えたと思った次の瞬間には、被害者となった女たちの胸には一生消えることのない烙印が刻まれているのさ。さぞや膣もよく締まったことだろう。瞬間的な痛みは反射的に身体をひくつかせるからな。」 笑っているようだった。 途中からは、恍惚とした表情さえ浮かべていた。 「だが、奴はまだ射精しない。我慢するんだ。まだ完成していない。まだ女に罰を与えきっていない。それが奴の目的なのさ。 奴にとって女はすべて淫売だ。罪深き咎人でしかない。その咎人に罰を与えるために奴は女の胸を切り裂いているんだ。それが神から与えられた奴の使命なんだよ。二度と彼女たちが淫売に戻らないように胸に十字を刻んでやるわけだ。 胸を切り裂かれて無惨な傷をつけられ、二度と男に愛されることのない身体になったと知った女たちの絶望はいかばかりか。それでも奴は彼女たちを許そうとはしない。さらなる絶望の淵へと追い込むために、ふたつ目の傷を作るんだ。 罪深き咎人に一生消えることのない十字架を背負わせるためにな・・・」 そこに八重が知っている京太郎の姿はなかった。 まるで犯人を賛美しているようにも聞こえる。 「俺が芸術的センスというのは、奴が描く十字架のことさ。 八重、お前の胸に刻まれたのはなんだ?」 八重は恐る恐る自分の胸に手を当てた。 「十字架・・だと思います・・・。」 「そうだ。お前も十字架を背負わされたわけだ。きっと罪深き咎人なんだろうな。」 暗に不倫しているだろうと言っている。 八重は何も言えなかった。 じっと脅えた眼で京太郎を見つめ返すだけだった。 「だが、同じ十字架でもお前の傷は違うんだよ。あの河川敷の強姦魔が刻むような芸術的な傷じゃない。」 「げ、芸術的って・・・」 「まだわかっていないみたいだから教えてやろう。お前がつけられた十字架と、奴が刻む十字架には決定的な違いがあるんだ。」 「違い?」 「そうだ、河川敷の強姦魔がつける傷は、そんな形ではない。」 「え?」 「それは違うんだよ。違うんだ。あの河川敷の強姦魔がつける傷じゃない。」 違う・・・。 「初めは模倣犯かと思った。だが、警察は被害者の胸につけられた傷について発表していない。犯人しか知り得ない秘密に当たるからだ。なのにお前は、河川敷の強姦魔につけられたの一点張りだ。それで悪巧みに気付いた。」 「わ、悪巧みだなんて・・・。」 「黙って聞け。誰に教えられたかは知らんが、そいつは被害者の胸に十字が刻まれることは知っていても、実際に模様を見たことはなかったんだろうな。だから間違えた」 間違えた?・・・。 「被害者たちの胸には、確かに十字模様が刻まれていた。だが、それは普通の十字架じゃないんだ。」 「ふ、普通の十字架じゃない?・・・」 だって、京介はこの人から聞いたって・・・。 だから、こんな傷を・・・。 八重は、驚いた顔で京太郎を見ていた。 「アンドレア十字さ・・・」 「アンドレア・・十字?・・・。」 聞いたことがなかった。 「せっかくだからお前にも教えておいてやろう。この世の中には十字架と呼ばれるものが幾つか存在する。有名なところではキリストで有名なラテン十字、あのロザリオにも使われる奴だな。他にもエルサレム十字やロシア十字なんてものもある。同じ十字架でも教派や教えによっては微妙に形が違ったりするんだ。アンドレア十字は中でも得意な十字架で、その形に大きな特長がある。わかるか?」 暗い目が八重を見つめていた。 八重は震えながら、小さく首を横に振った。 「わかるはずがないな。だからこんな失敗を犯した。普通、十字架と言えば長い縦木に短い横木がクロスしたキリストの十字架を誰だって想像する。きっとお前に知恵をつけた奴もそう思い込んだんだろう。だが、アンドレア十字は違うんだ。アンドレア十字もクロスするがその形が違う」 京太郎は、八重の胸を指差した。 そして向けた指先で、大きな×印を描いた。 「Xの形に聖木を組み合わせるのさ。日本的に言うと「×印」とでも言えばわかりやすいか?コンスタンティノープル総主教座の守護聖人とされる聖アンドレアはイエスの弟子のひとりで、やはり彼も後に弾劾されて十字架に磔にされた聖人のひとりだ。だが、彼は磔にされるときに師であるイエスと同じ十字架では畏れ多いと聖木を×印に組み合わせものを用意させた。そして彼はその十字架に磔にされたんだ。以来「X」型の十字架はアンドレア十字と呼ばれるようになった。被害者の女たちはみな胸に十字を刻まれていたが、その形は両方の乳房の上下を交差するように線は引かれていた。お前のように単純に縦と横に線が引かれていたわけじゃないんだ。×印になるようにそれぞれが斜めに引かれていたのさ。それを知らなかったお前たちは普通の十字架を描いてしまった。それで気付いたのさ。」 八重はパジャマの前を手のひらに握った。 その手が無惨なほど震えていた。 「俺が芸術的センスと言ったのは、それを知っていたからさ。これでわかったろう?お前の傷が河川敷の強姦魔につけられた傷じゃないと言い切った理由が・・」 声も出なかった。 どうしたらいいのかもわからなかった。 「さあ、お前には聞きたいことがある。なにゆえそんな傷まで作って俺を騙そうとした?なぜ、京介が逮捕される羽目になった?それを正直に答えてもらおう。」 答えろと言われたところで言えるはずもない。 実の息子の子を孕んで、その子を産みたいばかりに狂言に及んだ。 ところが、どうしたわけか同じ時間に真理子が殺されていて、京介がその犯人にされてしまった。 真相がわかるものなら、八重のほうこそ、どうしてこんなことになったのか教えてもらいたいくらいだ。 しかし、そんな言い訳などできるはずもない。 唇を震わせて黙っているだけの八重を、京太郎はまだシラを切り通すつもりと思ったらしい。 「答えられないなら、答えられるようにしてやるまでだ。俺はお前を愛している。いや、愛してきた。だが、それも今日までだ。俺を裏切った罪は重いぞ。」 暗い瞳に炎が宿った。 ジリジリとにじり寄ってくる京太郎は、かつて八重が知っている夫の顔を失っていた。
12/05/17 20:40
(PY94Wc.O)
投稿者:
いちむらさおり
私がどうこう述べるのも気が引けますけど、「どこにも隙がない」というのが率直な感想です。
文章に魅せられるとは、きっとこんなことを言うのでしょう。 リズムが良くて、しかも下手に韻を踏むこともしない。 自分が言いたい事を押し付けるのではなく、読み手への心配りがなければできないことだと思います。 それが普通にできて、こんなにも豊かな文章を書けるというのは、やはり「ただ者ではない」なと推測してしまいます。 しかし、それなりの努力を積み重ねなければ、ただ者ではない人にもなれないのもわかります。 私はただの根暗な小説好きですので、あまり上手には評価できませんが、私の嗜好には合っていると言わせてください。 それではまた続きを楽しみにしています。
12/05/19 23:46
(hEe7ucFN)
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